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79.走狗清算闘争

人民、闘争の前列に出て血の恨みを晴らし、血の対価をけ取る


▲ 延吉県長白郷の清算品展示会

吉東軍政大学

吉東軍政大学は 1945年末から準備し始め、 1946年 1月 6日延吉で正式に設立された。周保中が校長を引き 受け、オン・ムンド、姜信泰が副校長を引き受けた。 吉東軍政大学を立てた目的は、急を要する青年軍政幹部を 養成するためだった。

吉東軍政大学では 1946年 3月 20日、 試験と身体検査を経て 500人余りの学生を入学させた。 そのうち朝鮮族 の学生が 380人だった。

1946年 7月、吉林軍区の決定に従って、元々の抗日軍政大学本校第3大隊、太行山朝鮮軍政学校幹部班を土台と して立てられた朝陽川教導隊、朝鮮義勇軍第7支隊に建てた樺甸軍政学校と吉東軍政大学を合併して東北軍政学 校東満分校を設立した。校舎は延吉北大営に置いたが、すぐに汪清県羅子溝に移した。 学生は 2600人余り、朝鮮 族の学生が 71.5%を占めた。

1946年 8月、東満分校は龍井に移って来た。 9月に元・龍井恩真中学校の場所に校舎教師を構え、 10月 18日から 正式に第1期分科学習を始めた。 中共吉林省委と吉林軍区の決定によって東北分校を吉林分校に改称、周保中が 校長を、陳ジョンインが政治委員を引き受けた。

1948年 3月、吉林市が解放されると、中共吉林省委と省政府、軍区が吉林市に移った。 これにより分校も吉林に移 り、学生たちを皆部隊に編入させ、吉東分校は東北軍政大学第4団として再編、チチハルに行って分校と合併した。

吉林分校や東満分校の時期に軍政大学が吉東地区に位置していたため、習慣的に長い間 “吉東軍政大学”と呼ん だ。 吉東軍政大学は設立されてから 2年 4ヶ月間、 4期にわたって 3700人余りの学生を卒業させて部隊に送り込ん だ。吉東軍政大学は解放戦争の全面的な勝利のために優秀な軍事幹部と政治幹部を養成、不朽の功績を挙げた。

悪質地主と走狗を清算

解放されるやいなや、延辺人民は悪質地主と日帝の走狗に対する清算闘争に決起した。これは活発な群衆運動とし て拡がったが、走狗清算闘争と減租減息闘争の結合は、農民たちの単純な階級闘争を政治闘争に移行させることと なり、共産党が指導する群衆事業が大きな成果を挙げることとなった。

和龍県三道溝には、悪業の限りを尽くした大地主・李ヨンチュンがいた。 李ヨンチュンは和龍県徳化郷の漢族富豪の無 頼だった。李ヨンチュンは他人より先に帰化入籍した後、他人を動員させて入籍させてからは入籍費を受け取った。 1 919年、李ヨンチュンは妹の李チュンファを東北軍和龍県保安団連長・石ジュンウンに妾として捧げた。そして石ジュン ウンの権勢に基づいて土地を占め始めた。 土地を占領するようになると李ヨンチュンは和龍付近に引っ越して百戸長 を担当、地方やくざになった。 1931年には和龍県ミョンシン社社長になった。 徐々に李ヨンチュンは 1600町歩余りの 土地と数千平米の家屋を持った和龍県第一の大地主になった。

1945年 8月 20日、日帝が滅びてから何日も経たないうちに、李ヨンチュンは地主・文ドクチャン、ジュ・フェチャンなどと 結託して日本帝国主義と満州国の残余勢力を集め、和龍県治安維持会を組織した。 文ドクチャンが会長になり、 李ヨンチュン、ジュ・フェチャンが副会長になった。 傘下に 30人余りの武装隊を置いた。 1945年 10月 2日、南坪一 帯の朝鮮族が老農青婦同盟創立大会を開いたが、この知らせを聞いた李ヨンチュンは武装隊を送り、弾圧した。そし て 9人の死傷者を出す流血事件となった。

南坪事件についての消息に接した和龍駐屯ソ連紅軍は 10月 5日、ソ連紅軍 20人余りを派遣して治安維持会の部隊 を解除し、文ドクチャン、李ヨンチュン、ジュ・フェチャン、ドゥ・ユサン、李ヨンチャンらを逮捕した。 10月 10日、人民群衆 の強烈な要求によってソ連紅軍は李ヨンチュンと李ヨンチャンを和龍に護送して来て人民裁判にかけた。 その日、和龍 の小学校運動場で李ヨンチュンを裁判する群衆大会が開かれたが、怒った群衆たちは先を争って李ヨンチュンの罪悪を 告訴摘発した。 群衆裁判によってその日、李ヨンチュンはすぐに処断された。

1946年秋、琿春県人民政府では、県全体の多くの民族人民の強い要求によって 8000人余りが参加した公開裁判大会 を開いた後、親日悪質地主ハン・ヒサムを粛清し、銃殺した。

ハン・ヒサムは琿春県敬信溝の人だった。 1904年、彼は単身で琿春砲台村に来た。 全顔面があばただらけである彼 を人々は “ハンあばた”と呼んだ。 土地ひとかけらもなく、家一軒もなかったハン・ヒサムは砲台村で 5年間、小商売に て詐欺を行い、巨額のお金を溜めるようになった。 そのお金で 1700畝の土地を買った後、手厳しく貧困農民たちを搾 取した。チョン老人は 10年間、ハン・ヒサム一家に仕えた挙句、衰弱して起きることができなくなったが、ハン・ヒサムは 薬一封もくれることなく追い出してしまった。

ハン・ヒサムは農民たちの反抗を弾圧して遊撃隊の襲撃から守るために、日帝にくっついて銃13丁を受領し、武装自衛 団を組織した後、自ら団長になった。 武装隊まで持つようになったハン・ヒサムはさらに狂ったように農民たちの反抗と 地下組織の活動を弾圧した。 武装隊が出来て 3年にもならない間に、この者の手によって 10人余りの遊撃隊員が殺害 された。この人物はまた、日帝と共謀して 10回余りも血の “討伐”作戦に参加した。 1938年、 ハン・ヒサムは日本の天 皇に自分の忠誠を現わすため、飛行機を買って献納するまでした。

土地改革運動が深く進行するにつれて、延吉県細鱗河一帯の農民たちは、闘争の矛先を悪質地主で売国逆賊の孫ヨ ンミョンに向けた。 1947年 3月、革命農民たちは孫ヨンミョンの罪悪を暴露し、財産を没収し、罪悪の限りを尽くしたこ の悪質地主を処断した。

奉天出身の孫ヨンミョンの伯父・孫ブインは、光緒年間に細鱗河に来て、匪賊の頭目・孫ルと同盟し、 不当な手段で多くの資金を集めて成金になったと同時に、巡査をしている息子の勢力を 借りて自治領を占めた大地主になった。 この者の有能な護衛軍として、孫ヨンミョンは 恐喝を繰り返しながら細鱗河、頭道溝、二道溝、銅仏寺一帯の水田 9000ha余りと山林 1700ha、家屋 360軒を巻き上げた。 孫ヨンミョンはまた、細鱗河に油工場、製粉工場、煙瓦工場、石灰焼釜などを経営し、 延吉では “テファリュン商店ム”と “チニルバン食堂”、 佳木斯には “ドクバル銅鉄工場”を立てていた。 孫ヨンミョンの家の面積は 7000平米余りを超えていたが、 垣根の四隅に砲台を積み、大門には歩哨を立てており、家に銃と短銃 70丁余りを置いて 10人の騎兵を持っていた。孫ヨンミョンは小作人 1000人余り、牛 1200匹余り、馬20頭余り、 馬車 2台、乗用車 1台、貸物自動車 1台を持っており、70トンずつ 入れることができる穀物倉庫が 7つもあった。

小作人と作男たちに対する孫ヨンミョンの搾取はひどかった。 この者はさまざまな名目 の苛斂雑税を課した、言わば保甲費、屯費、歩哨費、防空費、燈油費、結婚 税など、到底数え切れなかった。掛け金どおりに春に食糧一式を貸 し、秋に収穫を徴収し、お金を貸した時には食糧でもらい、 食糧を貸せばお金で徴収し、貸したお金を年末には毎月 5分の利子に元手を合せて受け取るのであった。牛を 1年間使わせてから豆 の収穫から徴収し、一日の間、牛を使わせた時には二袋の労賃を受けた。 こ れ以外にこの者は、道路修理、家造り、薪炭準備など 手に負えないことを全て作人たちに無償でやらせた。

“9.18”事変以前、この者は国民党官吏たちを盾にして武装自衛団 40人余りを組織し、 作人たちの反抗を押えた。 満州国が建立されると、この者はまた日本人た ちと満州国官庁にひざまずき、くっついて、武装自衛団 40人余りを掻き 集め、二道溝警察署と密かに通じて薬水洞、大紅洞等で 44人の革命者 を殺害した。

この時期、各県では日本特務、巡査、自衛団長、傀儡警察特務、反逆者などを拘束し、 粛清して、その罪悪に基づいて死刑に処したり財産を全て没収するなどの闘争が熾烈で 徹底的だった。

“海蘭江大虐殺”清算大会

1946年 8月、延吉県工作隊は長安溝下洞に日帝走狗を清算することについての 宣伝活動を活発に展開する中、金シンスクから密かに隠しておいた “河東自 衛団が革命同志を惨殺した史録”を受けた。 この史録は区委で活動している途中、日本人 たちの酷刑を受けて死に至った金シンスクの夫・金ハクグンが臨終の際に残しておい た遺物だった。 金シンスクは夫の遺言どおりこの史録を瓶の中に入れた後、深 く埋めておいてから掘り出したものだった。史録には殺人鬼たちの名簿と彼らの極悪 無道の罪状が一つ一つ記録されていた。 この史録はすぐに延吉県政府 に報告され、県政府では調査班を派遣し、遺書に書かれた内容によって調査した。 そして 1931年 10月 15日から 1932年 8月 7日までの期間に日本の侵略者とその走狗たちが 磨盤山、河東、ファリョンリ、小営子、ファチョムジャ等を 94回も“討伐”し ながら 1700人余りの革命者と反日群衆を殺害した前代未聞の “海蘭江大虐殺事件”が、 一つ一つ現われるようになった。 調査を経て罪悪の大きい 18人の殺人 鬼たちを逮捕した。

1946年 10月 30日から 11月 5日まで、中共延吉県委では、吉林省委の直接的な指導の下、 延吉市の西広場で “海蘭江虐殺事件”清算大会を開き、この事件を操作し た日帝とその走狗たちの罪行を清算する事にした。 清算大会準備処では、東北各地の被 害者家族に大会に参加してもらい、悪党たちの罪状を明らかにするように予め通知 をした。 小営子、河東、ファリョンリの被害者家族はもちろん、数十里、数百里離れたところにいる 被害者家族、さらには朝鮮にいる被害者家族たちも知らせを聞いてはるばる大会に参加しに来た。 会議は 600人余りの被害者家族と 1万名余りの群衆が参加した中で開かれた。

大会場雛壇正面には “延吉県海蘭江殺人事件清算大会”と書いたプラカードがかかっており、 雛壇両側には “殺 人鬼をつかみ出してその罪悪を暴露糾弾しよう!”という標語が書かれていた。 5日間の対話で、 30人余りの被害者家族たちが日帝とその走狗たちの罪状を糾弾した。 彼らの血の涙溢れる糾弾は、 1万名余りの群衆の大いなる義憤を催した。 初日から空 を震撼させる掛け声の中で大会が沸き立った。

大会が終わる頃、大会主席団代表・韓ドンウが、大会に 18人の犯罪者名簿を公布、処 理方案を出した。 罪悪が悪を極めた崔ナムスン、朴ヒソン、李チョルウ、金ドンウ、 朴スンジュン、許ナムチョル、黄ビョンユンら 7人は死刑に処し、徐ボンムクは無期刑に、 許ビョンソンは有期刑 7年に、朴ヨンチュンは有期刑 5年に、崔ソンイル、許ドン リョン、尹スンファ、許ギョンギュ、許ドンガン、朴ミョンホは罪状が大きく なく、罪を認め神妙であるとの理由で釈放すると述べた。 これに群衆は 歓声をあげながら賛同した。

殺人鬼たちを断罪したこの清算大会は、人民の闘志をいっそう高めてくれたし、反動 派たちの残忍な本性と凶悪な行動をはっきり暴露しただけでなく、 土地改革を有力に推進し、郷土を守り東北全体を解放する闘争に突入すべく、 延辺人民を鼓舞してくれた。
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