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77.長春解放戦役での“朝鮮団”

危機一髪の時間、敵を防ぐ “朝鮮団” 170人余りの将兵、命を捧げて敵陣に赤い旗を

激変時代

1946年新年初日、延辺行政督察専員公署 専門官のクァン・ソンジョンは新年辞を発表した。 クァン・ソンジョンは 新年辞で “人民政権の指導の下に広範な群衆を団結させ、新生の政権を守り強固にしなければならない。 日満の残余勢 力を殲滅して生産を発展させ、延辺を建設するのが当面の急務だ。 この任務を果すために中韓民族の団結がまず必要だ。 中韓民族の団結がなければ新しい延辺の建設は不可能だ。 新生の民主政権は民族平等の原則によって朝鮮族にとって政治、 経済、文化面で解放と発展の権利を享受するようにしなければならず、民族の言語文字、風俗習慣、宗教信仰なども皆尊重さ れるようにしなければならない”と指摘した。

新年初日、延辺軍分区司令官・姜信泰も “私たちの建設する軍隊は人民の自製兵だ”という題の下の文章を発表した。 姜信 泰は延辺軍分区のすべての将校たちは専心全力で人民の利益のために服務しなければならず、敵対勢力を消滅して人民の政権 を強固にしなければならない、と訴えながら “人民は自分の自製兵を擁護して人民の自製兵たちは人民の中に根付かなければ ならない”と強調して指摘した。

1945年 10月 30日に設立された東北人民自治軍は、この年 1月 4日、 中共中央の指示に従って東北民主連軍(総司令・林彪、 政委・彭真)と名前を変えた。 1月 21日から 23日まで吉林省工作委員会は海龍で党、政、軍の主要責任者会議を召集、 中共 吉林省工作委員会を中共遼吉省委にすることに関する中共中央東北局の指示精神を伝達した。 遼吉省委の下に吉林、吉東、 通化、遼北など 4つの分省委を置いた。 2月 27日、中共遼吉省委では、唐天際を延辺に派遣し、中共延辺地方委員会を中共吉 東分省委と改称することに関する東北局の指示精神を伝達、唐天際が分省委書記を引き受け、オン・ムンドが副書記を引き受 けた。 分省委は延吉、和龍、汪清、琿春、敦化、額穆、安図、蛟河など 8つの県の党の事業を管轄した。 これによって吉林軍 区も吉遼軍区と改称(司令官・周保中)するようになり、延辺軍分区も東北民主連軍吉東軍部に名を変えるようになった。姜信 泰が依然として司令官を担当し、唐天際が政委(兼務)を引き受けた。 軍分区の傘下に二つの旅を置いたが、 1旅旅長は姜信泰 (兼務)、政委は唐天際(兼務)が引き受けた。 下に 3つの団を置いた。 1団団長は南チャンスだった。 兵力は 3000人余りに なった。 2旅旅長はケ克明、政委はエ・グクボクだった。 4団団長はチュン・ド、5団団長は崔ヒボン、 6団団長は金 ドンパ、砲団団長は金チョルだった。 兵力も 3000人余りだった。 朝鮮義勇軍第5支隊は朴一禹が支隊長を引き受け、下 に第1銃隊、第2銃隊、汪清支隊、和龍支隊を置いた。

1月 10日、中共代表と国民党代表は “停戦協定”を正式に締結し、同時に停戦命令を出して 13日夜から軍事行動を停止さ せた。 しかし蒋介石は停戦協定に “東北を除外”するという立場を堅持した。 同時にアメリカの意図によって秘密裡に命 令を下し、軍隊を東北に移動して戦略要地を占領するようにした。 ここに中共中央では国民党が東北問題に関する談判を拒 絶することに関して、林彪、彭真に “国民党が依然として私たちと東北問題に関する談判を拒否し、東北での私たちの立場を 承認しない場合、武力的な解決方針を放棄しないように”と指示した。 東北局では直ちに敵方が侵攻する場合、断固として 撃破する措置を取った。

延辺臨時参議会では毛沢東、蒋介石及び全国政治交渉会議に、政治交渉会の原則に従って平和的に東北問題を解決し、東北 での軍事衝突を停止して内戦と独裁に反対し、人民たちにとって平和な環境の中で新しい東北を建設せよという電報を送った。

3月中旬、朴洛権は命令によって延辺警備1旅 1団を率いて長春地区に入り、部隊を東北民主連軍東南縦隊第75団に改編して 長春解放戦役に参加する準備をした.

朴洛権と“朝鮮団”

1946年 4月にあった第1次長春解放戦闘は抗日戦争勝利の後、我軍が初めて大都市を攻撃占領した戦闘として東北解放戦争 史に輝く1ページを残した。まさにこの戦闘で朴洛権団長、高生鎬団長を含めた勇ましい朝鮮族戦士が賢く闘って意気をふ るった。

東南縦隊 24旅旅長だったハ・ギョンチョクは “第1次長春解放戦闘での ‘朝鮮団’”という文でこのように書いている。 “東南縦隊は 24旅 70団、25旅 75団で構成されたが、その中でも75団は全員が朝鮮族で組織された。そのため、その時私 たちはこの団を習慣的に ‘朝鮮団’と呼んだ。”


▲<朝鮮団>団長 朴洛権

4月 14日の夜明け、各縦隊は長春郊外の敵軍に向けて侵攻を開始した。午前に国民党はソ連軍隊から正式に長春を奪い取った。 昼時、ソ連軍隊を乗せた最後の列車が長春を去った。 午後 2時、傀儡吉林省代理主席・王ビンファと第4縦隊司令官兼、 長春防衛司令官である陳カジョンを頭目とした国民党軍政要員たちが市郊外から聞こえる騒々しい銃砲声の中でイライラし ている時、我軍の戦士たちは破竹の勢いで市周辺の敵軍を殲滅していた。

“朝鮮団”は南嶺のチョガワブン一帯から出発して、チョガ山の浄水工場にいる敵方を攻撃した。 敵方は我軍の攻撃に恐れ をなし、めくらめっぽうに市内へ逃げた。

東南縦隊は他の縦隊とともに市区域に対する総攻撃を開始した。 “朝鮮団”と 71団は何時間もの間の苦しい戦闘を経て、 午前 10時頃に工業学校、農学院、理科園を占領した。 ところが “朝鮮団”はスターリン通りに至り、北を向けて進軍して いる途中で大陸科学院(今の長春応用科研)を守っている敵方の頑強な狙い撃ちを受けた。5kmに渡って道の両側に高層建物が 並んでいたが、敵軍は建物ごとにに沢山のトーチカを構築し、通りに障害物を幾重にも設置して置いた。 大陸科学院はスタ ーリン通り南端の西側にあった。 反地下室まで含め、6階建てのこの庁舍は、全体を花崗岩で作ったもので、敵方が長春を 固守する南端の一番重要な防御拠点だった。 敵方は増員された一旅を駐屯させて正門と屋根に砂麻袋で堆積式防禦陣地を作り、 窓ごとに各種の銃砲を配置して置いた。 庁舎前には杭を打ちこんで鉄條網を張り巡らして置いた。

砲撃を集中して敵方を圧倒した後、攻撃せよという命令が出された。朴洛権はこの任務を 1営に任せた。 午後 2時、1営営長 ・金ユンベは、機関総帥たちに命令を出し、敵方の銃砲に集中射撃を浴びせるようにした。 敵方も頑として反撃した。 双方 は何分かの間、銃撃を続けたが、我軍は高い位置からの敵方の砲撃を圧倒することができなかった。 爆破組の戦士たちは機 関銃と手榴弾の掩護を受けて庁舎に向けて四つんばいにて前進したが、敵方の砲撃があまりにも猛烈で、ある戦士たちは道に 倒れ、またある戦士たちは杭の後に身を隠して頭も上げることが出来ず、そのまま戻ってしまった。

司令部では何門かの大砲を大陸科学院に回した。 庁舎の屋根と庁舎前の障害物は我軍の砲声によって滅茶苦茶に破壊された。 時を同じくして機関銃も怒りの炎を吐いた。 我軍の手強い砲撃に、敵方の攻撃は少しづつ弱くなって行った。 やがて “グァン” という爆発音とともに大陸科学院庁舎に火が挙がった。時期が来たことを直感した朴洛権は “突撃!”と大 きい声で叫び、戦士たちを率いて敵陣に向けて進撃して行った。

この時、ある戦士が寝転んだり這ったりして庁舎前のトーチカに近付き、爆発物の導火線に火を付け、また寝転んで帰って来た。

“グァン!”という轟音とともにトーチカが空に飛んでしまった。 戦士たちは爆破音とともに猛虎のように庁舎前のトーチカを 乗り越え、一目散に庁舎の中に突撃して行った。庁舎の炎が激しく燃え上がり、敵方はやむを得ず下の階へ寄り集まった。 庁舎 に入って行った 1営の戦士たちは逃げようとする敵方と熾烈な肉薄戦を展開した。 生き残った敵方は “鉄砲を捧げれば殺さな い!”と言う声を待っていたかのように先を争って鉄砲を放り出して投降した。 何人かが後ずさりしながら逃げた以外、残り は全員が捕虜になった。

1営が大陸科学院を攻撃している時、 2営の営長チョン・リョンファは、戦士たちを従えて大陸科学院の向かい側にある法廷大 学庁舎を攻撃していた。 1時間余りの熾烈な戦闘の後、敵方を全部殲滅した。

170人余りの朝鮮族将兵、壮烈に犠牲

16日、夜が明ける前に縦隊の各団は既に戦闘区域に入った。“朝鮮団”は続いてスターリン通りに沿って市の中心に 侵攻せよという戦闘命令を受けた。

“朝鮮団”は二時間の激戦を経て医科大学庁舎を占領し、昼に興仁広場(今の解放広場)南側まで攻めこんだ。 興仁広場 はスターリン通りとオンイン通り(今の解放通)の交差点に位置しており、長春市区域の一つの重要な交通要所だった。 広場の西北の方に 3階建ての “万字会”庁舎が建っており、これは満州国の時代には宗教的色彩を帯びた慈善機構だった。

我軍は先に広場南側の建築物を占領し、半月形で “万字回”を囲んだ、夜闇に乗じて攻め込むことで作戦を組んだ。

日が徐々に暗くなり始めた。 この時と思った朴洛権団長は、侵攻命令を出した。我軍の火砲がたちまち“万字会”を覆い 尽くした。 爆破組の戦士たちは地形を巧妙に利用しながら、時には這い、時には走って素早く広場を通り抜け、庁舎前の 垣根に近づいて行った。 爆破音が何回かして、垣根が吹き飛び、大門内の造りがバラバラになった。 続いて朴団長は自ら 突撃組を指揮して庁舎へ突撃して行った。

大同広場(今の人民広場)は長春市の中心だった。 そこには傀儡市政府、警察局、放送局、銀行があった。その中でも広場の 西北の方に位置する中央銀行の庁舎が最も荘厳で、灰色の花崗岩壁に鉄門が走っていた。 見るからに堅固な建物だった。そ の中には4000人余りの敵軍がアジトを作っていた。 軍区司令部では協同作戦により、先に市政府、警察局、放送局を奪取し た後、銀行を孤立させ、後に兵力を集中して攻撃せよと指示した。

4月 18日の夜明け、 突然信号弾が上がり、灰色の空を突き抜けた。突然に耳を裂くような銃砲音が黎明の静けさを破った。 猛烈な放火は階上に集中された。 東南縦隊はスターリン通り、ミンガン通り、長春通りで同時に侵攻を発動した。 “朝鮮団” は縦隊の主攻部隊として傀儡市政府庁舎を攻撃することを担当した。

昼時になり、“朝鮮団”は市政府庁舎に猛烈な攻撃を浴びせた。 戦士たちは雨のように降る敵弾をものともせずに突撃した。 猛烈な放火に市政府庁舎には火が付いた。 風が吹くと火はますます激しく燃え上がり、敵方はやむを得ず庁舎を捨てて逃げな ければならなかった。 午後 2時頃、 “朝鮮団”は傀儡市政府庁舎を奪取した。

午後 4時、 三つの縦隊は既に中央銀行を隙間なく囲んだ。敵方は袋のネズミになってしまった。 5時、総攻撃が始まった。 三つの縦隊の放火は無差別に銀行庁舎の屋根と庁舎前の防御線に浴びせられた。.

日はますます暗くなり始めた。 我軍は砲兵の位置を移して短距離砲撃を突き付けた。 砲弾が庁舎に間違いなく飛んで入ると 敵方は当惑した。何発かの砲弾が窓へ飛んで入って行った。 全庁舎に火がかかると、敵方は慌ててしまい、反撃もまともに できなかった。

“朝鮮団”が庁舎との距離が 20〜30mの所まで進んだ時だった。 急に銀行のいくつかの鉄門が開かれ、千名余りになる敵が潮 のように出て来て、東南方向に押しかけた。 事態は非常に危険だった。 もし敵方を阻むことができなければ、後方にいる千 名にもなる捕虜たちと山のように積まれた弾丸が反撃の勢力になってしまい、そうなるとその後日の禍は想像も出来なかった。


▲ 長春戦役が終わった後、九台市で休息中の <朝鮮団> 将兵たち

この危機一髪の時、無理やり出て来た敵方の前を勇ましい “朝鮮団”の将兵たちが立ち塞がった。 率先して立った団長・朴 洛権は、恐れることなく銃弾を敵の胸に打ち込んだ。熾烈な肉薄戦が起った。

この機会に西南縦隊、東北縦隊、東南縦隊の 70団は、それぞれ西、北、東の 3方向から包囲を突破しようとする敵方に側面 攻撃を突き付け、敵の腰を折って置いた。 前の敵方は我軍に包囲され、後の敵方は銀行庁舎へと走り始めた。 しかし銀行の 中の督戦隊に塞がれ、進退極まった敵方は、投降を知らせる白旗を掲げるしかなかった。団長・朴洛権は、敵の投降を受け付 けようと、さっそうと歩いて行った。 ところが卑劣な敵の一人が、拳銃で朴洛権団長の胸を撃った。その時、朴洛権は 28歳だ った。

中央銀行庁舎の上に遂に赤い旗が翻った。 今度の長春解放戦役で、我軍は敵 2500人余りを殺傷し、 1万 4000人余りを捕虜に した。それだけに対価も大きかった。 “朝鮮団”は将兵 170人余りを失った。
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