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76.東満での土匪粛清闘争

東北根拠地創設の大きな障害と憂患除去。4000人余りの土匪粛清、大量の軍需物資略奪


▲ 老黒山一帯の土匪粛清を終えて写した記念写真 (資料写真)

憂患を無くすため

日帝が敗北した後、東北の情勢はとても複雑だった。 国民党は抗戦勝利の果実を奪うためにアメリカの支援の下、 陸、海、空 3路で東北に大量の兵力を投入する一方、日本軍と満州軍の敗残兵、警察、憲兵、特務、日帝の岡っ引き と土匪たちを糾合して共産党と民主政権を侵攻する、いわゆる “地下軍”、“先遣軍”、“精進軍”を編成した。東北 には分類が複雑な政治土匪がおおよそ 9万名余りもいたが、彼らは東北での国民党の社会的基礎になり、国民党の操縦下 に諸所で活動しては共産党と民主政権を覆し、交通を破壊して人民の財物を略奪するなどの蛮行を繰り返した。民主政権 を敵視しながら時が来るのを待つ一万の残余勢力を徹底的に粛清してしまわなければ、農民大衆を幅広く動員することがで きないだろうし、根拠地の安定も期待出来ないだろう。 そして、国民党が大挙侵攻して来れば、正面と背後の両面から挟 み撃ちを受ける危ない状況に陥ってしまう。だから一万の残余勢力と政治土匪は堅固な東北根拠地を創設する上で、大きな 障害であり憂患だった。 かくして東北では “根拠地を建設して土匪粛清を急ごう”という中共中央東北局の指示に従い、 1945年冬から大々的に土匪粛清闘争を展開した。

延辺での土匪粛清は、東北全体で一番先に始まった。 中共延辺地方委員会と延辺軍分区では、東北局の指示と “軍隊を 建設する一方、土匪を粛清しよう”と言う中共吉林省工作委員会の指示精神に従い、軍分区司令官の姜信泰と政治委員 オン・ムンドが自ら責任を負って土匪を粛清することに決めた。 土匪粛清に動員された兵力は軍分区の警備部隊と各県 保安団及び朝鮮義勇軍第5支隊だったが、兵力は 1万1千名余、絶対多数が朝鮮族だった。

一網打尽

松下坪炭鉱を別名 “満炭”とも呼んだが、和龍から 2.5kmほど離れたところにある。

郭永春は、炭鉱の警察だったが、後には労動者たちをぶっ殺しても目ばたき一つしない什長になった。 1945年 9月、 松下坪炭鉱、“保安隊” の頭目になっていた郭永春は、次第に安図のソン・ビョンキュン、五道梁子のタン・スリムと 結託した。 彼は 100人余りの兵士に 100丁余りの銃、2丁の機関銃を持っていた。

中共和龍県委では、この隊を改造して見ようと思った。 県党委書記ウン・チョン、県保安団副政委チャン・ボインは危険 を冒して松下坪へ行き、帰順することを勧告した。 2ヶ月余り工作した結果、郭永春は自分の隊を東北人民自治軍 和龍 保安団独立営に再編し、営長になることを条件に帰順した。. しかし蒋介石の軍隊が長春と吉林を攻略すると、彼はソン ・ビョンキュン、ダン・スリムと密謀しながら共産党に反抗し、蒋介石を擁護した。

1945年 12月 24日、龍井の保安 4団とソ連紅軍 20人余りは、松下坪炭鉱に巣を作っている郭永春の土匪アジトに侵攻した。

そうとも知らずに郭永春は盛んに酒宴を開き、ひたすら飲み食いしていた。我軍が警戒所を経て直ちに営府に向けて突進し て入って行くと郭永春らは宴席から立ち上がって抵抗した。 銃声は松下坪の空に体が縮むように響いた。 敵方の抵抗は頑 強で、なかなか屈服しなかった。午後一時に始まった戦闘は 2時間ほど続いた後、3時頃には終わったが、敵 43人が撃殺され 48人が生け捕りになった。

1945年秋、チョン・ボフンは延吉県三道湾平崗村で土匪隊を作り、地方政権の樹立に反対しながら民を略奪し、踏躪した。 そこで延吉県警備団団長・南チャンスが 200人余りの戦士を従えて攻撃したが失敗してしまった。 1946年 1月 27日、 警備 2団は警備 1団と合同作戦を展開し、再び三道湾に侵攻、我が軍の戦車が大門を潰してしまったので、驚いて肝をつ ぶした土匪たちは一目散に北に逃げた。土匪たちは投降を勧告に行った崔ソンハク、孫ジャンサンら 9人を殺害する “オ プムヨブチャ惨案”をもたらすまでに至った。

1946年旧暦正月直前、和龍県保安6団団長・朴グンシクは一部の戦士たちを従えて和龍県と安図県ンの県境地帯にある五道梁子 に巣を作っているタン・スリムの土匪無頼を攻撃したが、 20人の死傷者を出しながら敵 11人を殲滅しただけで、土匪の巣窟を 攻略することができなかった。 そこで 3月 15日、延辺軍分区副司令官・具フェゲが 6団と 8団を従えて攻撃した。 敵方は耐 え忍ぶことができずに西北方へ抜けて安図に逃げた。 今度の戦闘で我軍は敵 80人余りを殲滅して銃 40丁余りを略奪した。

老爺嶺の麓の汪清一帯には、土匪が密集していた。大興溝、蛤莫塘、ギェグァンラズ、天橋嶺、羅子溝などには馬喜山の “東北第1正戦軍”、アン・ジンユの “東北正進軍第5団”、ヨ・オクリョン、ワン・グッキの “東北自治軍第3支隊”と李 モギョンの “保安隊” など 3800人余りの土匪たちがいた。

1946年 2月頃、警備1団は団長・朴洛権の指揮の下、汪清保安団と協同作戦を展開し、2月 22日、天橋嶺で李モギョンの “保安隊” 526人を投降させ、苗嶺に逃げた 200人余りの土匪たちを粛清してしまった。 そしてアルミダ、蛇皮溝などの 土匪 300人余りも我軍の捕虜になった。

春陽に巣を作っていた馬喜山土匪無頼は、 1946年 1月に当地人民部隊の攻撃を受けて 100人余りが羅子溝に逃げた。 2月、 警備1団と汪清保安団そして寧安第2支隊は協同作戦を展開して馬喜山の土匪無頼たちを挟み撃ちにして、逃げた馬喜山 など少数の頑固な匪賊を除く大部分の土匪を殲滅してしまった。

4月初、汪清保安団が羅子溝に進撃すると、アン・ジンユ土匪無頼は東寧県老黒山へ逃げた。 5月5日、アン・ジンユは我軍 内部に隠れている土匪の呼応の下に、羅子溝に駐屯している我軍を襲った。 この知らせを聞いた警備1団と汪清保安団では直 ちに羅子溝に駆け付けて三道河子で土匪無頼を撃破した。 アン・ジンユら少数の土匪たちが老黒山に逃げた。 後に我軍は老 黒山に入って行き、アン・ジンユらの土匪たちを全て殲滅してしまった。

続いて、ワン・グッキ、ヨ・オクリョンの 700人余りの土匪たちも朝陽村に駐屯していた朝鮮義勇軍第5支隊によって消滅した。

日本が無条件降伏した後、ソ連軍はさまざまな原因で適時に日本軍を集めることが出来ず、散らばった敗残兵たちが敦化の山野 に隠れて、常に近所の村を襲った。 それで群衆たちは武器を持って自衛し始めた。 ひと月余りすると、このような部隊が各地 でたくさん現われたが、この時、地主、満州国官吏と警察、自衛団及び長年の匪賊たちはいろいろと努力して、これらの部隊の 指導権を奪取した。 彼らは、額穆の李チュンオク、ソンソのタンオク、大石頭の李オクボ、デポシハのチャン・ヨンチュン、 官地のチャン・ジンホ、太平嶺のトゥン・ジンサン、サブオハのジュ・フンボク、南黄泥河の王デポプサなどだった。 彼らはひたすら国民党に憧れており、武力を握ると極力勢力を伸ばした。

1945年 8月 19日、東北抗日連軍小分隊・李ムンジャンらが、ソ連軍と共に敦化に来て、数日後にまたリュウ・コンピョンが来た。 9月初、リュウ・コンピョンを司令とする敦化県保安司令部が建立されると、自然発生的な武装隊たちを受け入れ始めた。 11月、 ヤン・サンギュなど沿岸幹部たちが来て、敦化県委と県臨時政府を組織し始めた。 ソ連紅軍司令部では共産党員が県長になること に同意しなかった。 そして満州国軍少佐軍医出身である劉化一が県長になった。 彼は国民党敦化県党部のリョ・ミョンとオン・ ニョンと連携して策謀を巡らす者だった。 彼は配下に数百人の公安隊を置いて保安隊と並立させた。

保安司令部は先に教導隊を組織して、 4つの郷の 8つの大隊を受け入れて再編、幹部を派遣した。 国民党は各種の手段でこんな 地方武将を引き寄せ、保安司令部で再編して任命した大隊長を国民党上座団長として委任した。

11月下旬から劉化一は公開的に国民党の看板を掲げ、郷の指導者たちを国民党に引き込もうとし、抗日連軍幹部だった李ムンジ ャンをテポシハで殺害までした。

敦化駐屯ソ連紅軍司令部では、中共敦化県委に直ちに県所在地を去らなければ安全を確保することができないと通知するまでに なった。 こんな都合で県委は教導大隊とともに県所在地を去らなければならなかったが、千辛万苦を経験しながらやっとリュク グァソンまで来た。 ちょうど朝鮮義勇軍第5支隊が延吉方面に行く途中に敦化を経てヤン・サンギュに会い、敦化の情況を聞いて 彼らを傍助する事にした。そしてソ連紅軍と連携して教導大隊と近所の朝鮮族で構成された二つの中隊が合同して 800人の兵力で 敦化に攻めこんだ。

保安司令部ではソ連紅軍の支持の下に劉化一が統制した公安大隊の武装を全て解除し、敦化臨時政府の大権を奪取した。 しかし 4つの郷は相変らず土匪が統制していた。

1946年 2月、 吉東軍区から派遣されたケ克明旅が土匪粛清の任務を引き受けて敦化に来た。 我軍は続いてシンケ嶺 のソグァントンとデグァントン、デファングトン、三道荒溝等で一部の土匪たちに向けて猛烈な攻勢を突き付けた。 遂にこの 土匪無頼たちは長春のパリポで全て殲滅された。

東満根拠地での土匪粛清闘争は半年余りの時間を経て 1946年 7月に勝利のうちに終わった。 今度の土匪粛清闘争で我軍は、 4000人余りの土匪を殲滅し、各種砲 24門、中軽機関銃 76丁を含む大量の武器と軍需物資を獲得した。
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