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75.朝鮮義勇軍第5支隊

朝鮮義勇軍第5支隊、到着する先々で朝鮮族群衆の歓呼の声


▲ 延辺に進出する朝鮮義勇軍第5支隊(1945年 12月延吉)

敦化駅での風波

1945年 11月 9日、 朝鮮義勇軍第5支隊は東満に向かって進軍した。

5支隊は太行山朝鮮革命軍政学校の幹部と学生たちを中心にして組職された部隊だった。 朝鮮義勇軍副司令で政治委員である朴一禹が第5支隊の政治委員を兼ね、李益星が支隊長を、 チョン・ウと李グォンムが参謀長を、ジュ・ヒョクが政治部主任を引き受けた。 支隊は 9つの中隊で 構成されたが、偵察、警衛、無線、通信、楽隊など支隊直属まで合わせて隊員が 900人余りになった。 支隊には参謀部、政治部、供給部が設置されていた。

瀋陽を発った部隊は、沿道で朝鮮族同胞たちの歓迎を数えきれなくほど受けながら行軍した。 真白な朝鮮族の服を来た部落民たちは、外にまで出て部隊にあってくれたし、村に入るとおいしい 食べ物を差し出してもてなしてくれた。 義勇軍の戦士たちは里人たちに涙ぐましい戦闘談を聞かせ、 朝鮮義勇軍マーチなど革命歌謡を教えた。

行軍の途中、李益星支隊長は、行軍速度を上げて東満に進出せよという朝鮮義勇軍司令部の命令を 無線で受けた。 徒歩で行軍していてはその命令に指定された時間内に東満に到着することができない と思った李益星隊長は、ある参謀役に駅へ行って切符を買って来るようにと指示した。 駅に行って来た 参謀役は、機関車の車両 10両を求めたが、機関士がないと答えた。 機関士がいなくて頭を抱えていると、 ちょうどある中隊に参軍する前に機関士の助手として働いた事がある戦士がいるという報告が上って来た。 汽車に乗れば吉林まで楽に行くことができると思った戦士たちは喜んだ。

義勇軍の戦士たちを詰め込んだ汽車は、楽隊が演奏する “朝鮮義勇軍マーチ”の荘厳な軍楽音の中、 ゆっくりと盤石駅に入った。 プラットホームは詰め掛けた数百人の朝鮮族群衆の歓呼の声、万歳の声により 見えなくなりそうだった。.

盤石駅にてしばらく休み、昼食を食べようと汽車を止めたが、歓迎に出た群衆の誠意と熱情に感動した義勇 軍戦士は汽車から飛び降り、歓迎の群衆たちと一緒になって抱き合って回った。 老若男女に関係なく義勇軍 戦士たちを抱き締め、 “わが軍隊、わが軍隊”と叫びながら涙を流した。

朴一禹政治委員がプラットホームで群衆に向けて激情あふれる演説をした。 朴一禹は第5支隊を代表して盤 石地区の朝鮮族人民に挨拶をしてから、国際・国内情勢、中国共産党の方針と政策、東北朝鮮族人民の直面 する課題について述べた。

朴一禹の演説は間断なく起きる熱烈な拍手喝采を受けた。 朝鮮族の群衆は “朝鮮独立万歳!”、 “朝鮮義勇 軍万歳!”を叫んで合唱した。 朴一禹は盤石地区の朝鮮族人民の闘争を支援するため、朴ジョンドク、チャン・ チョンリプ、 蔡ドンソン、車ジンなど 10人余りを盤石に残すと宣布した。

吉林に着いた朝鮮義勇軍第5支隊は、全員が汽車に乗って行くことができないため、先に 2個中隊で先発隊を 集め、チョン・ウの引率により貨物車に乗って延辺に行くことに決めた。

先発隊を載せた貨物車が敦化駅に止まっている時だった。 四方八方から銃声が騒々しく鳴り、 “貴様たちは包 囲された! 鉄砲を捨てろ!”、“手を上げて車から降りれば助けてやる!”と中国語で怒鳴る声が聞こえた。 その叫び声にはロシア語で何やらつぶやくようなどなり声も混じっていた。事の危急性を把握したチョン・ウは、 慌てる戦士たちを目で諭した。

“私の命令が出るまでは誰も絶対に鉄砲を撃ってはいけません。 真相が分からない中国人たちは仕方ないとし ても、ソ連紅軍まで加わって衝突が生じれば、後日の禍は想像を絶するものになるでしょう。ソ連紅軍は軍事的 にも政治的にも全て至高無双の権力を持っているので、絶対に盲動してはなりません。”

“それでは、どうすればいいのですか?”

“先にソ連軍を説得しなくては。 真相が明らかになれば問題が解決するかも知れません。さあ、皆武器をおいて 私に付いて汽車から降りましょう!”

結局、先発隊は武装解除にあって敦化市内に圧送されてしまった。 参謀長チョン・ウはまず、紅軍司令官に 会うことを要求した。 ソ連共産主義大学の卒業生であるチョン・ウは、流暢にロシア語を駆使することができた。 彼は自分はソ連にいる時、トコフという名前を使い、今は朝鮮義勇軍第5支隊参謀長だと紹介した後、延辺に出る 目的を説明した。 しかし紅軍司令官は半信半疑の態度を見せた。

先発隊が敦化で国民党系統の地方武将によって抑留されたということを知った第5支隊部隊では、状況を直ちに 朝鮮義勇軍司令部に無線で知らせた。 すると朝鮮義勇軍司令部からは、既に延吉ソ連軍司令部に情況を知らせ たという答電が来た。 5支隊 支隊部では、万が一の事態に対処するために蛟河県所在地から南に 10km余り 離れた朝鮮族部落から出発して敦化に向けて強行軍をした。 これと合わせて延吉ソ連軍司令部の姜信泰大尉、 敦化事件に対する朝鮮義勇軍司令部の窮状を受けて直ちに敦化に行き、ソ連軍司令部と交渉した。 チョン・ウと 姜信泰の粘り強い説明・説得のあげく、自分たちが敦化保安司令部・劉化一の策謀に嵌ったことが分かった敦化 ソ連軍司令部では、第5支隊先発隊全員と没収した武器を出した。

満州の上位で働いた事のある国民党員・劉化一は、敦化地区の混乱する隙を利用して治安維持会を組織し、 敦化県長の座にまで上った。県長になった後、この男は敦化保安司令部を組織した。劉化一は国民党特務たち と密かに結託して、敦化に建立された人民民主政権を覆し、敦化国民党党部まで立てた。 朝鮮義勇軍第5支隊 の先発隊が敦化を通り過ぎるという情報を手に入れた劉化一は、日本軍の敗残兵部隊が秘密裡に敦化を経て 延辺へ逃げだすと、ソ連軍司令部に偽りの報告をした。 劉化一の言葉を信じたソ連軍は軍隊まで派遣して劉化一を 手伝っていたのだ。

第5支隊支隊部が後続部隊を従えて敦化の南の臨江屯に着いた時、敦化事件がすぐに解決した。5支隊支隊部では、 敦化地区に人民民主政権を立て、これから東満地区の革命形勢の発展に有利な環境を作ろうという計画の第一歩とし て、敦化の反動武将を消滅させることに決めた。その時、敦化には 8個の保安大隊があったが、 7個大隊が変節し、 劉化一を頭目とする国民党反動派側に移っており、ただ一つ、朝鮮族大隊だけが馬湖に撤退して闘争を続けていた。 第5支隊は朝鮮族大隊と連携した後、詳細に偵察して細密に戦闘を準備し、12月中旬のある日、半時間も経たない間 に劉化一の反動部隊を一挙に殲滅してしまった。

第5支隊の再編

12月 31日、朴一禹、李益星が朝鮮義勇軍第5支隊の 400人余りの将兵を従えて延吉に到着した。 1946年 1月初旬、 5支隊は延辺警備 1団、 2団と合併して朝鮮義勇軍 15、 16団を編成、朝陽村に教導隊を置き、琿春に 1個中隊を派遣 して建軍活動を展開、砲兵部隊の建立に取り掛かった。

15団は 5支隊の半分の勢力と警備 2団が合併した部隊だった。 1946年 3月、15団は吉東警備 2旅の 1個団になり、 その後には吉林軍区独立 3団に改称された。 1948年 1月には東北軍区独立 6師に編入され、 16団になってから 1948年 11月には中国人民解放軍第4野戦軍 156師 466団に改称された。 部隊がしばしば再編される過程で、 漢族 1個営が編入されることはあったが、基本的には朝鮮族団の本色を確保しており、 2営と 3営、団直属の 大部分は朝鮮族で構成された。

この団は羅子溝一帯での土匪討伐、哈爾巴嶺防衛築城労働、東満鉄道警備、吉林外郭地区での運動戦、 長春包囲戦などで堅固な集団に成長した。 管内に進軍した後、この団は 2営7連すなわち “金ソンボム連”は 名前をはせた英雄連隊、模範連隊であり、3営9連は長江渡河作戦の序章である紅葉戦闘で戦闘連になり、 大胆かつ勇敢・迅速に戦闘を続け、 2分で 1つの防塁を爆破し、 6分で波止場を占領することで全般的な戦闘 の勝利を確実にした。 1949年 11月に開かれた 156師第1次英雄模範大会で、李スンイム、 チョン・ヒョンリョン が 1級戦闘英雄に当選し、 19人がそれぞれ 2、 3、 4級戦闘英雄に 当選、金ソンボム、ジュ・クァンムン、朴ムンスなど 13人の烈士が人民英雄に選ばれた。

16団は 1946年 3月に東北民主連軍吉東警備 1旅 1団になり、その後、東北軍区独立 1師 1団に改称され、 1947年 8月に東北人民解放軍 10縦隊 30師 89団に改称された。 この団は 1946年 1月中旬から三道湾、大興溝、 苗嶺、天橋嶺一帯を回りながら土匪を掃討し、 1946年 4月に長春第1次解放戦闘で “朝鮮団”の栄誉を発揮した。 その後、樺甸、老爺嶺で運動戦を展開し、徳恵戦闘、チンダンモク戦闘、ポプコ追撃戦、ケウォン戦闘で再三 “朝鮮 団”の名前を揚げた。

1948年 4月 25日、10縦隊 30師はケウォンで功労者大会を開いた。 この大会で 89団の朴ククジェ(特等功)、チョウ・ ヨンヒ(大功 2次)を含めた 103人が大公受勲者として表彰された。

遼瀋戦闘の最終段階である黒山−大虎山阻撃戦で、 89団 1営は 101 高地を争奪するカギになる戦闘で我軍 28 師の戦友たちと共に遂に高地を奪取し、守り抜くことで、黒山阻撃戦で大きな寄与をした。 黒山阻撃戦が終わった後、 89団は第4野戦軍 47軍 141師 422団に改称され、管内に進出して平津戦争に参加し、長江を越えてまっすぐに重慶ま で攻め込み、その後、湖南西部の山岳地帯で活躍して “東北範”の底力を見せ付けながら、土匪を掃討した。

琿春に派遣された朝鮮義勇軍第5支隊の 1個中隊は、 1個団に編制を拡大発展させた。 そして 5支隊の構成員を中心 に組職された砲兵大隊もその後、歩兵団として拡がり、第4野戦軍砲兵部隊の建設に大きな寄与をした。
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