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73.民族の運命の分かれ道で

延辺人民、ソ連紅軍を熱烈に歓迎。中共延辺委員会設立、党組織公開


▲ 光復を迎えた延吉市民、通りに出て歓呼(資料写真)

ソ連赤い軍隊歓迎委員会

1945年 8月 10日夜、龍井大成中学校で教鞭を取っていた朴根植は、密かにモスクワ中国語放送を聞いていた。 小さな音で聞いていたが、あまりにもはっきり聞こえる稲妻のような大ニュースだった。 ソ連政府が 8月 8日。 日本に宣戦布告をしたのだった。

朴根植は、姜東柱、金承浩、 兪日煥らの友達を李サンウクの家に集め、興奮しながらニュースの内容を知らせた。 彼らはソ連紅軍が延辺へすぐ進撃して来ることだろうと判断し、明くる日の 8月 11日、“ソ連赤い軍隊歓迎委員会” を構成し、第1次会議を開いた。 会議で、市街に貼り出す宣伝文が採択された。

13日と 14日の夜、委員会メンバーはまた李サンウクの家に集まって第2次会と第3次会議を開いた。 討議のあげく、 全允弼、 リム・ジョンホ、尹チョルファン、金ドンウなどを委員会に受け入れ、姜東柱と朴根植にソ連紅軍を歓迎 する歓迎辞を書く任務を与えた。他のメンバーは、群衆の中に入って宣伝鼓動工作をすることにした。

8月 15日正午、日本の天皇の無条件降伏詔書が放送された。 ここで秘密裡に行動した委員会は、半公開的に活動をした。 その晩、委員会では第4次会議を開いてソ連紅軍歓迎大会を召集する問題、デモ行進路線などを討議決定した。

8月 10日、琿春が解放され、15日、汪清が解放された。18日にはソ連紅軍が延吉に進駐した。この知らせを聞いた 龍井市民たちは 8月 18日朝 8時、歓迎委員会の指揮の下に隊列を作って龍門橋方面へ動き始めた。 龍門橋を過ぎた 行進隊列は、途中でソ連紅軍に会った。行進隊列の中から熱狂的な歓声が出た。

歓迎隊列は “3.1”小学校運動場へ動いて行った。 ここで全允弼の指導の下に 2万名余が参加したソ連紅軍を歓迎する 群衆大会が開かれた。

大会の決定によって朴根植が祝旗と“歓迎辞”を持って延吉ソ連紅軍司令部を訪ねた。朴根植から祝旗と“歓迎辞” を受けた延吉ソ連紅軍警備司令部では、ソ連赤い軍隊歓迎委員会に六つの指示を下した。 龍井に帰って来た朴根植は、 歓迎委員会第5次会議を召集、司令部の指示を伝達した。

会議の後、歓迎委員会の 9人のメンバーは、ソ連紅軍警備司令部の指示に従って各階層群衆の中に入り、労動者同盟、 農民同盟、青年同盟、女性同盟などの人民団体の組職活動をした。

運命の分かれ道で

8月 18日、満州国皇帝・溥儀は吉林省通化で “退位”, 日本へ逃げようとしたが瀋陽飛行場で逮捕された。

8月 20日、延吉ソ連紅軍警備司令部は間島省臨時政府を設立して、元・満州間島省省長・尹テドンを臨時主席にする という第1号命令を頒布した。 その後、ソ連紅軍の許諾で延吉県臨時政府が設立され、元満州県長だったエ・ヨンギュン が県長を引き受けた。 数日後、エ・ヨンギュンは延吉県治安維持会を設立し、会長を引き受けた。 この維持会は国民党 吉林省判事処の操縦を受けていたが、大多数のメンバーは満州国の残余勢力だった。

8月 26日、朴根植、全允弼などは、龍井で人民武装組職である龍井別働隊を組織し、和龍県平崗区の農民チャン・インガン らも自発的に立ち上がり、日本の敗残兵たちの銃 20丁余りを奪った後、人民武装組職であるチャン・インガン自衛隊を 設立した。延吉、龍井、朝陽村等で前後して労動者同盟、農民同盟、青年同盟、婦女同盟などの革命群衆団体が自発的に組織された。

反動勢力も黙ってはいなかった。満州国間島省軍政機関が瓦解すると、一部の反動勢力は国民党特務の操縦の下に延吉、 龍井等に “国民党吉林省延辺判事処”、“国民党延吉県党部”などの看板をかけて日満軍の残余勢力と土匪などを掻き集め、 “別動隊”、“自衛団”、“治安維持会”などの反動組職を編成した。日満軍残余勢力である王デジョン、安ビョンイルなど は古洞河地方遊会を、和龍県松河坪炭鉱の土匪クァク・ヨンチュンは、 200人余りを集めて反共“保安隊”を結成、100丁余り の武器を持っていた。 汪清県天橋嶺でも、国民党特務の操縦下に日満軍残余勢力 500人余りを集めて土匪武装隊を作った。 羅子溝にも土匪武装が作られた。

9月 2日、日本政府が無条件降伏書に署名、こうして中国人民の偉大な抗日戦争は勝利のうちに終息することとなった。 しかし国民党反動派たちが抗日戦争勝利の果実を奪おうと、反人民的で反歴史的な逆行を試みた。 このような歴史的な時期に 中国に居住していた 216万の我が民族は、平和と民主を争取して新しい中国を建設するために国民党と鋭く対立して戦う中国 共産党と国民党反動派間の死活的な闘いの渦の中で、どちら側につくかと言う運命の分かれ道に立つようになった。

反動勢力に対立して

1945年 9月 15日、中共中央政治局は中共中央東北を設立する綱程を出した。 かくして彭真を書記とする東北国が誕生した。 中共中央の決定に従って、13万人民軍と 2万の幹部が東北に派遣された。

当時、朝鮮族集中居住区に入って来た勢力は、二つだった。一つは八路軍総司令・朱徳の命令を受けて東北に進出した 朝鮮義勇軍で、他の一つはソ連紅軍とともに来た東北抗日連軍先遣隊だった。

日本が無条件降伏すると、国民党は東北を占領しようとする動きを見せた。 そこで中共東北委員会は “東北抗日連軍が ソ連紅軍と連合して東北の戦略要地を先に占領する”と言う方針に従い、東北に来た後、各戦略要地に主な幹部を配置した。

9月 18日、東北抗日連軍教導旅にあった延辺分遣隊は、姜信泰の引率下に牡丹江を経て延吉に到着した。

9月 19日、延吉で 3万名余の会員を代表する 600人が参加した延辺労動者、農民、青年、婦女同盟委員会代表大会が 開かれた。 大会で “延辺労農青婦同盟”(10月に延辺人民民主大同盟に改名)が設立された。

9月 20日、 間島省臨時政府は、和龍県臨時政府を設立、元満州国の県長だったチン・アングンを県長 に任命すると宣布した。 9月 30日にはソ連紅軍警備司令部の指令によって汪清県臨時政府を設立、 ソ・リプドンを県長に任命した。 一方、敦化では満州国県長テ・クァンウォンがソ連紅軍に逮捕され、ソ連 軍の指示の下に敦化県臨時政府を設立、劉化一を副県長に任命した。 劉化一は秘密裏に国民党特務と 結託して敦化県公安隊を設立した。

10月 5日、周保中は延辺地区工作に対する指示書を姜信泰に送った。 周保中は国民党軍政が東北に進 入して来る緊急情況を強調しながら、政権の建立と人民武装部隊の建立を急ぐようにと指示した。 10月 20日、 東北委員会の指示精神に基づき、中共延辺地区工作委員会は姜信泰の指導の下、 1ヶ月間の準備工作を経た 後、中共延辺委員会を設立、党組織を公開した。姜信泰が書記兼軍事部長を引き受けた。

10月 20日、 周保中は元中共東北委員会書記の崔石泉(崔庸健)と共に瀋陽に到着、 中共中央東北局に東北党 組織関係を引き継ぎ、中共東北委員会の歴史的使命を完遂して、工作を停止することとなった。

1945年 10月、東北抗日連軍は東北人民自衛軍に再編され、 11月 3日には東北人民自衛軍と管内から来た八路 軍、新四軍部隊とともに東北人民自治軍に編成される。 1946年 1月、自治軍を東北民主連軍に改称した。そして 熾烈な戦いを繰り広げた日々に東北大地を出入りしながら闘った抗日連軍は、その歴史的使命を果して、新しい 軍隊として発展することになった。 当時、延辺の抗日連軍分遣隊は各地で自発的に組職された別動隊、自衛隊、 保安隊などの武装隊伍を受け入れ、分遣隊を基本とした警備司令部を建て、姜信泰が司令官を引き受けた。

そして傘下に警備 1、2、3団を置いた。 この部隊はその後、東北人民自衛軍に編入され、 11月には東北人民自治 軍間島(延吉)分区司令部になったが、司令官はそのまま姜信泰が引き受けた。 そして傘下に 6つの警備団を置い たが、兵力が 1万 1000人余りだった。
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