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72.ソ連紅軍の東北進撃と日帝の敗北

百万ソ連紅軍、破竹の勢いで東北戦場に進攻、日帝侵略軍は行く先々で奇襲を受ける


▲ 投降の象徴として白い腕章を巻いた日本関東軍第3軍司令官らが延吉付近(依蘭)でソ連紅軍司令官 チスチャクフに投降する場面

勝利の前夜

1945年上半期、世界反ファッショ戦争は、連戦連勝をおさめた。 5月 2日、 ソ連紅軍はベルリンを攻撃、 占領してから一週間も経たない 5月 8日、 ドイツは無条件降伏をした。 イタリア、 ドイツの敗戦は日帝を 孤立無援にしてしまった。アメリカとイギリスなど反ファッショ戦列の国の軍隊は、太平洋戦争で引き続き 進攻を続け、何ヶ月かの間に続けて小笠原諸島や沖縄を占領、日帝の海軍、空軍を壊滅させた。

中国の戦場でも 1944年から局所的な反攻を始め、1945年の春と夏に至っては華北、華中、華南の 各解放区で日本の侵略軍に対する大攻勢を展開し、連続して大きな勝利をおさめた。

ソ連で野営訓練をしていた抗日連軍教導旅は、大反攻の準備として思想政治活動を強化すると同時に、 軍事訓練を急いだ。野営指揮部ではソ連側と交渉し、ソ連の出兵とともに連合作戦する具体的な方案を制定、 まず東北で活動している小部隊は、続いて敵方の情報を収集しながら、指定した場所から敵の背後遊撃戦を 展開する事にした。 次に、抗日連軍落下傘部隊を敵の背後に派遣し、戦術的な偵察任務を執行しながら ソ連紅軍と連合作戦をするようにした。 同時に、抗日連軍の主力部隊は、どんな時にもソ連の極東軍とともに 東北に進軍する万端の準備を整える事にした。

6月 2日、野営訓練所で中共東北党組織特別支部と抗日連軍教導旅旅部の主催下に、東北反攻における 動員大会が開かれた。 大会では全ての将兵たちに総反攻戦闘に投入する準備を整えることを訴えると同時に、 東北党組織と抗日連軍は必ず中国共産党政治路線の指導の下に今度の戦闘に臨み、抗日連軍を拡大して 抗日武装闘争を展開、全民族的な統一戦線を形成しつつ、東北抗日救国会組織と抗日連軍党組織を回復して、 各地の党組織を指導するという行動綱領を定めた。

7月 26日、中国、イギリス、アメリカは “ポツダム宣言”を発表、 日本軍国主義を永遠に廃し、日本の軍隊を永遠 に解体、日本の戦争犯罪者たちを厳重に懲罰、 日本は必ず奪った朝鮮、中国の満州、 台湾、彭湖諸島などの 領土を放棄しなければならないと宣布した。

7月 29日、日本の軍国主義政府は “ポツダム宣言”を拒絶した。

7月末、 東北抗日連軍教導旅と中共東北党組織特別支部は全体会議を開き、改編を進行、 現有の隊員たち を二つに分け、一部は金日成の引率下に朝鮮へ反撃することとし、一部は周保中の引率下に東北へ進撃する 事にした。 会議ではまた中共東北委員会(中共遼吉黒臨時委員会ともいう)を設立した。 周保中が書記に、 馮仲雲、張寿鎮、ロ・ドンセン、カン・シンテ、金光侠、王効明、ペン・シロ、王明貴、王イルチ、リュウ・アンレ、 王キュンが委員になった。 東北委員会の機関は長春に置き、東北各地の党組織を指導して委員会傘下に長 春、ハルピン、瀋陽、延辺など 12の地区委員会を置いた。 中共延辺地区委員会委員はカン・シンテ、朴ラクク ォン、崔ミョンソクで、カン・シンテが書記を引き受けた。

7月、東北抗日連軍教導旅のソ連極東紅旗軍独立歩兵 88旅は、ソ連極東軍第2方面軍に編入された。

1945年 8月 8日、ソ連政府は遂に日本に対する宣戦布告をした。 明くる日の 8月 9日、中共主席・毛沢東は 沿岸でソ連の対日宣伝布告に対して歓迎を示し、 “日本の侵略者に対する最後の一戦”と言う声明を発表、 朱徳総司令は 8月 10日から連続して 7回も大反攻の命令を発送した。

8月 9日、ソ連極東地帯の紅軍 3個方面軍 150万の大軍は、進攻を発動した。東北抗日連軍の各部隊は統一 作戦計画によってソ連紅軍と連合して進撃を開始した。なかでも一部は先遣部隊として選ばれ、落下傘部隊に 編入されたり、道案内に出た。そして東北各地で遊撃戦をしながら、偵察の任務を執行した小部隊は、敵の背 後で撹乱活動を積極的に展開する一方、ソ連紅軍の爆撃機と連合して、敵の位置と爆撃地点を無線で指示し、 爆撃の正確性を確保してくれた。敵の背後で地下工作をした抗日連軍の将兵たちも、それぞれに大衆を組織し て武装部隊を組織した。 このような積極的な活動により、ソ連紅軍は非常に早い速度で日本関東軍を撃破し、東 北を解放することができた。

侵略者の脳天にとどめを刺す

“7月のある日、 司令部から私とチョン・ムンウクそしてワッシャー青年の三人が急に呼ばれました。 私たちは選抜さ れたのだと思って、戦闘態勢を整えて駆け付けたんです。”

老抗日戦士・呂ヨンジュン氏は、その時の痛快だった場面を思い浮かべながら楽しく話した。

“今回、牡丹江一帯に出なければなりません。 行った後、先に偵察し、戦争が始まれば敵方と共に移動しながら無 線で敵の移動方向を知らせてもらいたい。”

司令部の命令だった。 三人の偵察兵は、軍礼をあげた後、司令部を出て直ちに敵の背後へ入って行った。

戦争直前の牡丹江市内は、昼も夜も戒厳状態になっていた。 三人の偵察兵は、敵方の兵営と飛行場を偵察して敵 の動きを随時に指揮部に報告した。 その時携帯した無線機は、簡便ながらも出力が大きく、送受信がよくできた。

“私は電報を打ったり受けたりしない時には、放送に注意を傾けました。 戦争の場で無線手の有利な点と 言えば、他人より情報をいつも先に知ることが出来る点ですね。 放送を通じてソ連政府が日本に宣戦布告 をした情報を知った私たちは、大喜びしました。ソ連紅軍が遂に国境を超えたのです。我々は痛快に日本軍 を叩きまくりました。”

牡丹江一帯に集結していた日本軍は、蜂蜜瓶の口に集まって来る蟻ののようにウヨウヨと南山に登った。 三人の偵察兵は敵方と 500m離れた地点で電線司令部に無線を打ち、すぐに他の地点に移った。 山の端 の樹の下に集まった三人は興奮した心情で腕時計をチラチラと見た。敵状信号を発射した時刻から正確に 2時間 50分が経つと、空が崩れるかと思うような轟音が聞こえた。ソ連側の空から戦闘機と爆撃機が編隊 を組んで飛んで来たのだ。どんなに壮快な場面だったことか。手を振りながら三人は嬉しい心情で空の銀燕たちを眺めた。

飛行機は彼らの軍事地図を見て暗号で知らせた牡丹江南山を一度旋回した後、機首を下げながら容赦なく 銃撃し、爆弾を投下した。 それからはまた機首を持ち上げて空高く舞い上がった。

“グァン!”
“トルルック、トルルック...”
“グァン!グァン!...”

日本軍が蟻のように群れている南山は、たちまち火炎に包まれ、阿鼻叫喚になった。 銃弾と砲弾が 不具戴天の敵・日本侵略軍の脳天に容赦なく降り注いだのだった。 敵方は機関銃弾に当たって倒れ、 爆弾に当たっては死んでいた。 遠くから望遠鏡でこのような場面を見下ろす偵察兵たちの胸は痛快で、 嬉しさは言い尽くせなかった。

南山で生き残った敵方と牡丹江市内に残っていた敵方は、混乱状態に陥ってどぎまぎしている途中、 今度は海林方向へ逃げ始めた。偵察兵たちは無線機を持って追い掛けながら、随時に変化する敵状を司令部に報告した。

敵方は自動車に乗って逃げていた。 そこで偵察兵たちは山道を上って走った。 手の甲と顔面が木の枝 に突かれて裂け、血だらけになったが、彼らは痛いとは思わなかった。いや、痛いわけがなかった。 目と 鼻の先で逃げまどう敵を全滅させなければならないからだ。

やがて、呂ヨンジュンが崖を下りた時、つい、岩に膝小僧をぶつけた。 目の前が暗くなるほどの痛みだっ たが、彼は歯を食いしばって崖を下りた。 足を踏み出すたびに、激しい痛みに襲われた。 しかし彼は平然 としてひき続き進んだ。 やつらを追い掛け、再び脳天に爆弾と銃撃を加えてやらなければならなかったからだ。 もうすぐ私たちが勝利するのだという思いが先に立ち、待っているのが痛みではなく死であったとしても痛快に 感じたことであろう。

三人はまた高い山の端を登った。山頂に上がった後、木々にアンテナを渡しかけて縛り、茂みの中に無線機 を装着した。ワッシャーが叢の中に伏せ歩哨に立ち、チョン・ムンウクと呂ヨンジュンは無線機の前にうずくま って敵状を報告する一方、司令部の新しい指示を待った。

“日本帝国主義の無条件降伏。 各小分隊は主力部隊と連合して敗残兵を追撃せよ。”

呂ヨンジュンは耳に着けたレシーバを脱ぎ捨てながら叫んだ。

“ムンウク、 日本が降伏した! ワッシャー、 日本帝国主義が降伏したのです!”
“何、それは本当か?!”
“本当ですよ!”

チョン・ムンウクとワッシャーは耳を疑いながら呂ヨンジュンの方へあたふたと駆けて来て、 電報紙を引っ張った。二人は電報紙を目を大きく開けて何度も見て、歓声を挙げて飛び上がった。 三人は山の端で抱き合い、ぴょんぴょん飛び上がったり声を枯らして叫んだりした。

“抗日戦争勝利万歳!”
“中国共産党万歳!”
“ソ連紅軍万歳!”

目からは自分も分からないほどに涙が流れた。 この日のためにどれだけ多くの死境をかきわけ て来たことか、この日のためにどれだけ多くの私たちの戦士たちが戦場の露と消えたことか。 のどが詰まって胸が張り裂けそうになり、三人はいつまでも叫び走り回っていた。

我に返った三人の偵察兵は、ようやく無線機を持って敗残兵を追撃しながら進み始めた。

10日後に戦線司令部から撤収せよとの命令が出た。三人の偵察兵は山から下り、勝利の凱歌を呼びながら部隊に帰った。

日本の無条件降伏

ソ連が日本に宣戦布告をした後、日本軍は 8月 10日、第1方面軍司令部を牡丹江 から敦化に移して来て、第3軍と第5軍の 24万の兵力を佳木斯、東寧 から琿春辺境及び延辺各県の要害地に配置、最後まで抵抗しようと試みた。

ソ連極東軍は東北抗日連軍との連合により、二股に分かれて延辺に進撃し、延 辺各地の日本軍へ進攻した。

一つはソ連極東軍第25集団軍で、琿春の春化、長嶺子、敬信 から日本軍の防御線を突破した後、10日に琿春県所在地を占領して 11日に大盤嶺 に到着した。日本関東軍 112師団は大盤嶺の険しい地形を 利用して、頑強に抵抗して来た。 ソ連紅軍は二日間に 100台のタン クを消失させつつ激戦を展開したが、大盤嶺を突破することができなかった。 8月 12日、ソ連紅軍は 60台の飛行機を動員して日本軍の陣地に向けて壊滅的な 爆撃を加えた。これには日本守備軍は白旗をあげるしかなかった。 大盤嶺を突破したソ連紅軍は遂に図們方向に進攻することができた。

図們・後安山で再び日本軍の頑強な抵抗を受けたソ連紅軍は、二日間の猛攻を 繰り広げて、結局日本軍を打ち破り、 8月 17日、図們を解放した。

他の一隊は、ソ連極東軍第5集団軍で、 8月 10日、東寧、 綏芬河など国境地帯の重要都市を落した後、汪清県羅子溝方面に 進軍、11日から 14日まで羅子溝から東大子、石頭河子、 太平嶺などで戦闘を繰り広げ、日本軍を撃破、羅子溝を占領した後、敦化、延吉方向に 進撃して行った。

東大子の戦闘はとても激しかった。 日本軍の頑強な抵抗にソ連紅軍 は二日間も激戦を続けなければならなかった。 今度の戦闘でソ連紅軍は日本 軍少将以下 1000人余りを殺害もしくは捕虜にした。 他の一隊の進攻部隊である 366 師と 187師は協同作戦して日本関東軍一大隊を壊滅させた後、石頭河子の防御基地を占領、 14日、直撃を止めずに太平嶺に到着し、半日の間の激戦を展開して関東軍 128師団 の師団長以下 600人余りを撃殺し、2000人余りを捕虜にした。

1945年 8月 15日、歴史的瞬間は遂に訪れた。 日本の天皇はラジオ を通じて “停戦詔書”を宣読、日本の無条件降伏を宣布した。

しかし関東軍の中の頑固派たちはこれに不服で、投降しないばかりか各地で頑として抵抗した。 15日、ソ連軍サブチンコフ少将が指揮する機械化部隊第10軍 の先遣隊と歩兵 39軍、戦車部隊 359旅などは、協同作戦して汪清県所在地 を占領した後、日本軍第127師団の吉清嶺防衛線を 突破、 8月 18日に延吉が遂に解放された。 8月 19日には龍井 と敦化、 8月 20日には和龍が解放された。

ソ連紅軍は延辺で 7回の大きな戦闘を展開する中で甚大な犠牲を払いながらも 日本軍と満州軍を 4万名余り殺害し、3万名余りを捕虜にした。

ソ連紅軍は延辺を含む東北地帯への出戦は、東北で 14年間の植民統治をし て来た日帝にとっては壊滅的な打撃であったといえる。
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