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71.延辺が生んだ詩聖・尹東柱

不定の現実に純情の自我で応戦しながら、絶対的良心で奮闘した詩人


▲ 延専在学時代の尹東柱
この世を去る日まで空を仰ぎ見て
一点の恥もなきことを
木の葉を揺らす風にも
わたしの心は痛んだ
星をうたう心で
すべての逝くものたちを愛さなくては
そしてわたしに与えられてた道を
歩まなければ

今宵も星が風に吹かれた  

尹東柱の有名な “序詩”だ。 この詩によって、いやこの詩に匹敵する “星を数える夜”、“自画像”... など 有名な詩により、尹東柱は既に朝鮮文字を知る人なら誰もが知る詩人になった。 しかし今は世界が尹東柱に目を注いで いる。日本の名門大学である早稲田大学の教授・大村先生は、尹東柱の初期についてこのように言っている。

彼の作品はそれに対する何らの予備知識がなくても、誰でも感動するほど卓越している。易しい表現、よく理解出来る 詩語の駆使、 童謡的・童詩的である上、文学的香りが濃い彼の詩の中には、彼の純粋・純潔な心性がそのまま溶け、 混ざり染みこんでいる。 特に私が好きな “序詩”、“自画像”、“星を数える夜”のような詩は、世界的な名作と私は見る。

7月 6日、記者が尹東柱顕彰事業の一環として延吉に来て、しばらく居住している尹東柱の実の妹・尹恵媛女史と 呉ヒョンボム先生の邸宅を尋ねた時、尹女史の夫・呉ヒョンボム先生はおびただしい資料を探しながら、尹東柱が 9ヶ月 間通った事のある日本・同志社大学の校庭に建てた “尹東柱詩碑”除幕式の資料を見せてくれた。 彼を死へ追い遣った 日本にまで、その詩碑が建てられるようになったのだ。

延辺の息子

尹東柱は 1917年 12月 30日(旧暦 11月 7日)、満州国間島省和龍県明東村で本貫・坡平の尹ヨンソク氏と独立運動家で 教育家である圭巌・金躍淵先生の妹・金リョン氏の間の長男として生まれた。その時、明東村は金躍淵らの先覚者たち によって、既に民族の魂を覚ます教育運動の温床になっていた。 1925年に尹東柱はその有名な明東学校に入学して勉強 をするようになる。 少年時代の尹東柱は内気な印象だったが、義侠心と逞しさを持つ若者だった。

“兄は本当におしゃれでした。 制服は黄色でしたが、合わなければミシンで自ら直して着ました。それよりもいつも本 に囲まれている姿がもっと格好よかったです。兄の部屋の机にはいつもとても多くの本がさし込まれていましたが、 いつも創作をしていましたね。 いつも謄写機で何かを謄写していましたが、私は何にも判らないまま、横から謄写され て来る紙を受けとったりしてました。”


▲ 故郷明東村を尋ねた尹東柱の妹・尹恵媛女史(左から二番目)と夫の呉ヒョンボム先生(左端)

尹恵媛女史は延辺の訛りが多い物言いで、このように言いながら、尹東柱と一緒に暮らした幼い頃を思い浮かべる。

“私達は六歳の差だったが、今もとんぼを捕ってくれた姿が目に浮かびます。”

弟・妹たちを特別に愛した尹東柱は、いつも弟・妹たちを前に立たせておいて、歌を教えてくれたり、お話を真剣に聞かせて くれたりしたと尹女史は言う。

1931年 3月、明東小学校を卒業した後、尹東柱は大子の漢族学校に編入し、 1年間通って卒業した。 大子小学校を卒業した尹東柱は、龍井の恩真中学校に入学する。 尹東柱が龍井に行くようになると、 一家はそのまま龍井に引っ越してしまう。

龍井の移住先は、龍井街第2区 1洞 36号だった。 その時の尹東柱の趣味は多方面的だった。 サッカー選手として活躍したり、 夜には遅くまで校内雑誌を出そうとして謄写字を書いたりした。 2年生の時には弁論大会で優勝したこともある。 彼は数学も よく出来たし、特に幾何学が好きだった。

同級生であるとともに従兄弟でもある宋夢奎が北京に発ち、文益換が平壌・崇実中学校に行くと、尹東柱は両親を説得して 1935年 9月、平壌・崇実中学校に移転することとなる。 しかし神社参拜問題で崇実中学校が廃校になると、龍井へまた帰って 来て日本人が経営する光明学院中学部 4年生に編入される。 この頃、延吉で発行された “カトリック少年”誌に東柱という 筆名で “ひよこ”、“ほうき”、“うそつき” など童謡・童詩を発表したのだ。

延禧専門学校時代

中学校卒業予備生になると尹東柱は、進学問題で深刻な悩みに陥るようになる。 自分の意とは違い、父が医科大学 志望を勧めたのだ。 しかし既に文学への固い信念を持ってしまった尹東柱は、自分の固執を折ることができなかった のだ。 遂にはハンストまで行う激しい対立を父と繰り広げるしかなかった。そして 1938年 4月 9日、従兄弟の宋夢奎 とともに青雲の志を抱いて延禧専門学校に入ることになった。.

故郷である延辺を去って延禧専門学校文科に入学し、尹東柱は世界の文学と接するようになり、立派な師匠たちによる 学問が世界そして民族意識の高い影響を受けるようになる。 尹東柱の関心分野は歴史、文化そして文学、美術、音楽に かけて多方面だった。

しかし太平洋戦争が起こると、すべての状況が変わってしまった。多くの人々が戦場に引かれて行き、戦争物資需給の ための搾取の手が四方八方に伸び、延禧専門学校も影響を避けることが出来なかった。 卒業を目前に控え、尹東柱の思い は非常に複雑になった。 進学、 時局に対する不安などは尹東柱を非常に苦しめた。 尹東柱の年譜を見れば、 1941年 5月 以後、代表作とされる多くの作品が書かれている。

この頃、尹東柱は非常に慎重で無口な性分で読書にだけ没頭し、国内外の多くの文人に凝っていた。 読書と共に彼は創作 の筆を緩めるようなことはなかった。 浮び上がる随想を何日・何週間ずつ練りながら整え、完全な作品が成り立った時には 筆を持って書き下ろした。そのため彼の作品は再び手直しする部分があまりなかったと言う。

延禧専門学校卒業を控え、尹東柱が何か意味深いことをと思って作ったのが自筆詩集3部だった。 それは 77部限定版で出刊 するためのものだった。この詩集は 19編で作られたが、 1941年 11月 5日付で “星を数える夜”が最後の作品になっており、 詩集の序文の代わりに書いた “序詩”が 11月 20日付けになっていた。 尹東柱はこの詩集3部を延禧専門英文科教授だった李 ヨンハ先生と後輩だったチョン・ビョンウク君、そして自分へと分けた。 詩集の題目は “空と風と星と詩”という比較的長い 題目だった。 尹東柱はこの詩集をチョン・ビョンウクに与えて、詩集の題目が長くなった理由をこのように明らかにした。

“‘序詩’が出来る前には詩集の名前を ‘病院’にしようかと思った。今、世の中はいちめん患者だらけではないか?”そう いって表紙に鉛筆で “病院”と書き入れてくれた。

この詩集を受けた李ヨンハ教授は “悲しい族属”、“十字架”などの作品は検閲をパスしにくそうだから、出版を保留して 時を待ちなさいという忠告を与えた。 日本留学を控えた尹東柱の身近を心配してのことだった。

後に尹東柱自身が持ったものと、李ヨンハ教授が持った詩集は、行方がはっきりしなくなってチョン・ビョンウクが持った 詩集が母の用箪の中に深く隠されていて、結局、光復の後、韓国の正音社によって日の目を見るようになった。

日帝監獄の露になっても

1942年 26歳の尹東柱は遂に日本に渡り、東京・立教大学に入学した。しかし植民地人の屈辱を抱いて支配国に渡って学問を 探求するということは苦痛だったし、果てしない自責と恐れ多い心に苦しむ日常だった。 そんな日常の中でも創作の筆を おくことなく、“気楽に書かれた詩”などがこの時に作り出された。

同時に日帝が火をつけた太平洋戦争の炎は、アメリカの大々的な反撃によりいっそう激化し、負傷者と死骸の 積まれた車が絶えることなく日本へ向かい出し、日本国内はいちめん不安に陥った。非常事態の日帝は、 朝鮮半島で徴兵制度と学徒兵制度を実施し、 40万人余りの朝鮮青年たちを戦争の生けにえとして追い払った。 その狂乱的な時局に始まった尹東柱の留学生活は、自ずから、孤独と寂しさを伴うしかなかった。

1942年夏、延辺に帰って来た尹東柱は “これからはハングルの印刷が皆消えるはずだから、何でもいい、楽譜でも いいから買って集めておきなさい”と頼んだと言う。 それほど時代的状況を切迫するように感じたが、結果的には尹 東柱の予言が適中してしまった。

再び日本に渡った尹東柱は、同志社大学英文科に転校、アパートに下宿を決めた。 彼は相変わらず読書に夢中になり ながら詩唱作に精進した。六畳の畳部屋で夜の更けるのも知らず、寒さに耐えながら詩を書く事が、その時の尹東柱の日常だった。

1942年、冬休みに家へ戻らずに 1943年 7月 14日、同志社大学で一学期を終え、従兄弟・宋夢奎とともに帰郷する直前、 尹東柱は “京都朝鮮人学生民族主義グループ事件”に巻き込まれ、突然逮捕された。 遅ればせながら公開された日本警察 の思想犯を扱った極秘文書 “特別月報”によれば、日本警察の尹東柱に対する調査記録は “要察人物”として注目されて いた宋夢奎が独立運動のための秘密結社の中心人物で、尹東柱は彼に同調したことになっていた。 結局二人は 12月 6日、 検査局に引き渡され、年を越して 1944年 2月 22日に起訴された。 裁判は分離して進行され、 3月 4日、 尹東柱は懲役 2年を宣告された。 いわゆる尹東柱の違法行為と言うのは、植民地の良心ある若者として適切に立たなければならない席に 立つための当たり前の自己発現にもかかわらず、尹東柱は曖昧で悪辣極まりない日帝の法により処罰されたのだ。 結局、 尹東柱は福岡刑務所に送致され、非人間的な獄苦を経験しなければならなかった。 そうするうちに民族解放の日を 6ヶ月後 に控えて、 1945年 2月 16日、 29歳の若さで生涯の幕を閉じることとなる。 彼の死因については、日帝の生体実験の実験台 にされたからというのが主たる主張だ。

一握りの灰に変わり、尹東柱の遺骸が帰って来る日、彼の家族たちは豆満江辺朝鮮の上三峰駅まで出迎えに行った。

葬礼は 3月初旬、 吹雪のひどい日に行われた。 家の前庭で挙行された葬式では、延禧専門学校卒業の頃の校内雑誌 “文友” に発表された “自画像”と “新しい道”が朗読された。 葬地は龍井東山だった。 延辺は 4月初にやっと雪解けするので、 5月の暖かい日を待って家族たちは尹東柱の畝に群れをなして花を植えた。 端午の頃、祖父と父が急いで “詩人尹東柱之墓” という木碑を立てた。 このようにして故郷に帰って来た尹東柱に、家族たちが初めて詩人という呼称を付けてくれたのだ。

不滅の詩人

尹東柱の初の詩集“空と風と星と詩”が刊行されたのは 1946年だ。 最初に 77部限定版で延禧専門卒業記念で出版しようとし ていたものが、 7年も経って初めて日の目を見たのだ。

ソウルで尹東柱の詩集が出版されたという消息とともに、ある詩稿をすべて持って来なさいという便りが尹一柱から来ると、 尹恵媛女史と呉ヒョンボムさんは、尹東柱が延禧専門学校に通う時、家に持って来ていて3巻の習作ノートと幾多のス クラップと写真を取り揃えてソウルへと発った。途中、スクラップと写真の入った包みは失い、習作ノートのみをやっと保全 してから行った。 1948年 12月 31日、 初刊本詩集には鄭芝溶の序文、“序詩”を含めた 31編の遺稿作品、 普段、 近しく過ごした詩人ユ・ヨンの追悼詩とカン・チョジュンの発文が順に収録された。 その後 1968年刊行された増補版詩集は 5部に分かれており、 1部には尹東柱が卒業記念に出版しようとしていた慈善詩集 “空と風と星と詩”をそのまま掲載し、 2部には東京時代に書いた詩 5編、 3部には習作期の作品、 4部には童謡、 5部には散文 5編が載せられた。 しかしこのよう な状況を延辺では全く知らず、 1984年に延辺に行って来た韓国ソウルの延世大学校名誉博士・玄ボンハク氏から初めて詩人 の身の上が延辺に突然紹介されるようになる。 その後、尹東柱の詩集 “空と風と星と詩”を読んで大きな感動を受けたとい う日本の早稲田大学教授・大村先生が、東京日比谷のある喫茶店で尹一柱さんに会い、龍井にある尹東柱墓所がある場所 の略図を得て、とうとう延辺に来て尹東柱墓所を尋ねることとなり、不滅の詩人尹東柱が完全な姿で延辺に現われることとな った。 故郷は尹東柱により大きく揺れた。延辺の生んだ尹東柱が世界的な詩人であるとは夢にも思っていなかったから、それ もそのはずだった。

1980年代中頃から、尹東柱は毎年韓国で “愛される詩人”、“好きな詩人”の最高位に選ばれており、その勢いは世界へ波及 している。 尹東柱の詩集は毎年一番よく売れる本になっている。 尹東柱と尹東柱の詩を研究して修士、博士になった人だけ でも、既に 30〜40人になると言う。

“定本尹東柱全集”の著者・洪チャンハクさんは、 “尹東柱は変節と裏切りに苦しんで来た私たちの現代精神史の中心で、 民族的良心と矜持を象徴して来た、数少ない人物中のひとりだ”と言っている。 延辺大学・権チョル教授は、“尹東柱の詩 はまさに同胞に対する真摯な愛と激情を盛った歌だ”と言い、延辺大学・金ホウン教授は “彼の詩は自我省察と悔悟を通じて、 いつも真実に復帰してその存在論的苦悩を純粋で純潔な心情の透明な叙情で綴ることにより、私たちに暖かい慰安と美しい叡智、 そして私たちの力を悟らせてくれたところにその感動の秘密がある... 文益換牧師の言葉どおり、今日彼を回想することだけでも、 私たち全員の魂が清らかになる。 また彼の歌は白衣同胞の幾多の子供、若者達が口をそろえて諳んじるものになった。とにかく 延辺の地に詩心の根を下ろし、自分の潔白で犠牲的な自我で、口元に吹き付ける風すら辛がり、星を歌う心で死んで行く者達を 愛しながら祖国と民族のための祭壇に自分の若い身を静かに捧げたその美しい詩編の数々は、一筋の明るい星明かりであり、 私たちの青少年が生きる鏡になるでしょう。”

“私は今も ‘イレッスムドゥン’(こうしました)、‘チョレッスムドゥン’(ああしました)という延辺訛りをよく使い ます。 私たちは延辺人です。 尹東柱も延辺人です。” 尹恵媛女史の言葉だ。

そうだ。 尹東柱は愛の溢れる延辺の息子−朝鮮族詩人だ。 しかし尹東柱は延辺の詩人であるだけではない。 尹東柱はもう 世界的詩人として世人の前に乗り出した。 尹東柱により延辺と私たちの同胞は、さらに大きな矜持と誇りを感じるだろう。
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