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70.敵の心臓部へ入る(2)

日本軍の身なりで敵軍と敵兵営を徘徊。敵軍と共に夜を明かしながらも死境を避ける


▲ 老抗日戦士・呂ヨンジュン(右側)さんと金セギュンさんの当時の姿

草むらの中に伏せて21時間

“1943年、私は再び新しい任務を帯びて老黒山に入って行くことになりました。 周保中がチョン・ムンウクを送って私と 一緒に活動させました。 今回、私たちは敵方の武力配置情況を偵察して軍事施設を撮影しなければならなかったのです。”

老抗日戦士・呂ヨンジュンは、その時の情景が目に明るく浮び上がるようだった。 窓べで遠い空を眺める老眼が特に輝いた。

呂ヨンジュンとチョン・ムンウクは先に黒瞎子溝飛行場を偵察した。 山から望遠鏡で見下ろすと、滑走路のそばに何の飛行機 なのか分からないものがあった。 四方に固定歩哨を立て、巡邏兵が何分間隔かで行ったり来たりしたため、昼までにその飛行 機に近付くことができなかった。 夜に手を打つしかなかった。 二人は夜の帳が垂れるのを隠れて待ちながら敵方の動静を観察した。 巡邏兵たちは槍を付けた鉄砲を掲げつつ規則的に決まった区間まで行ったり来たりした。後ろ向きになって行く隙を突けば良さ そうだった。

日が暗くなると二人はひそかに飛行場に近付いた。 敵の巡察兵がこちらの飛行機のあるところまで来て、あちらの方へ後ろ向き になる瞬間、二人はネズミのように素早く防水布を被せておいた飛行機の下に隠れた。 飛行機を手で触って見ると、それは木で 作ったにせ物の飛行機だった。 次の飛行機へ移った。 このように 6台の飛行機をすべて手で触って見た。 4台が木で作った にせ物の飛行機だった。

最後の飛行機まですべて偵察し、防水布の下から出ようとする時であった。 黒い影がヌッと現われた。敵の巡邏兵だった。 見つかってしまえば、もちろん逃げることは出来なかった。咄嗟に二人は素早く防水布で身をくるみながら伏せた。 いかに素早く行動したのか、カサリという音さえなかった。 巡察兵はとぼとぼ歩いて来たら懐中電灯で防水布の周りを眺め、 ふんふんと鼻歌まで歌っていた。 巡察兵の足下に伏せた二人は引き金に指をかけたまま隠れたまま息を潜めていた。 変わった状況もないと思った巡察兵は、あちらの方へドサドサと走って行った。 敵兵の後を眺めながら二人は防水布をこっそり かけて、ネズミのようにササッとすり抜け、山道に入った。

地下のアジトで使っている虎の洞窟まで来ると、既に日が明るくなっていた。 夜明けの露に下着までぐっすり濡れ、 水びたしになった二人は、早々と乾いた服に着替えて新しい干草を敷いた和やかな床に横になった。 しばらくしてムクリと 起きたら、もう日中だった。 外を眺めたら空は雲一つなく清く晴れている。

“明日の天気はどうだろうか?”
“今日よりは良さそうだが...”
“それでは今夜に敵兵営に入って行き、隠れてから明日の昼に写真を撮るか?”
“それがいいね”

二人はこのように計画を立てた後、写真機を持って出発した。 日本軍の兵営は虎の洞窟から 15km離れた山間に納まっていたが、 鉄条網で周囲を囲っていた。 鉄条網の中は雑草が茂っていた。 鉄条網の下に這って入り込んだ二人は、兵室正面の草むらの中 に伏せた。薮蚊がやっと獲物にありついたとばかりに群がって来て、刺しまくった。 顔や手足が蚊にひどく刺され、ボコボコに なった。 虫まで這って来て刺し、その痛みに耐えるのは何とも辛かった。 動いてはいけないので、口をぎゅっとかんで蚊と虫 の洗礼を受けなければならなかった。 ところが蚊や虫に刺されるよりもっと辛かったのが、急に出そうになる咳だった。 喉が いがらっぽくなるとすぐに “あっさり!”と声が出てしまうようで、冷汗が全身にベットリと出た。 そこで、あらかじめ準備 しておいたタバコを少し取って口に入れるしかなかった。すると咳は不思議にも喉で止まってしまったのだった。

日がやがて明るくなった。呼子の音が鼓膜をたたいた。 兵室から飛び出す敵兵の靴の音、将校達の豚のような怒鳴り声がすぐ傍 で聞こえた。 二人は敵方とわずか 100m余り離れていた。 草一束を軽く揺するだけでも敵に見つかりそうだった。

日中になると草の帽子を被った二人は、そっと座ったまま、写真機を敵の兵営、兵站品倉庫、病院などに向け、シャッターを カチャカチャ押した。 無事に写真を撮った後、二人はまた草むらの中に伏せた。今からは日が暗くなるのを待たなければなら なかった。 それは退屈なこと筆舌に尽くしがたい辛抱だった。 草むらは風一つ吹かず、空は容赦なく直射日光を降らせた。 蒸し風呂の中に納まったように熱気がカッと押し寄せ、すぐに汗びっしょりになってしまった。 それに虫がまたやって来て、 ハエも飛びかかって来て、全身が麻痺状態になってしまった。 一日中、水一滴も飲めず、後で舌先までが乾き、口をまともに開く ことすら出来なかった。 こんな中でぶっ通しで 21時間耐えなければならなかった。

ようやく日が暗くなった。 兵営の前を行ったり来たりしながら歩哨に出ていた敵兵達も、陣中に戻ったのか、姿が見えなかった。 二人は棒切れのように鈍くなった足をひきながら無事に帰路についた。

敵方とともに夜を明かす

“1945年 5月、私とチョン・ムンウクは図們一帯を偵察せよという任務を受け、再び国境を越えました。 ところが大荒溝 の峠を越して涼水村に行くはずが、道を聞き誤って汪清の十里坪の後山に入り込んでしまいました。”

ソ連のバルコフニチャで国境を越えた二人は、三叉河を渡った。盤嶺、労爺嶺の密林を突き抜け、大荒溝峠を越えた後、 垂直に涼水に入るつもりであった。 ところが労爺嶺(海抜 1477m)でつい山道を間違え、汪清のようなところへ入ってしま った。 よく見ると、十里坪の後山だった。 二人があきれて見合わせていると、どこからか人の声が聞こえて来た。 腰を素 早く低めて眺めると、十里坪の平原を黄金色に覆いながら日本軍が入って来ていた。汪清に対する偵察任務は受けなかったが、 偵察兵として敵の軍事的な動きを見て、避けるわけにはいかなかった。

“われらは敵方の武力配置と防御陣地を偵察する行動計画を立てた後、十里坪平原をまっすぐに進みながら日本軍の防御陣地を 偵察し、汪清市街地に入って市内全景まで写真を撮りました。 それからは新興の方向へ抜けて三道溝の南側に入りました。 そこは石硯へ通じる唯一の道だったのです。”

老抗日戦士・呂ヨンジュンは時間、地点などを実に正確に指摘した。

そこは石硯に通じる唯一の道だった。 レールに沿って行こうとすると、伽耶河を四回も渡らなければならず、鉄橋の外には 橋がなく、荷車や自動車は通ることができなかった。 それで敵は 1943年からここに防御陣地を建設し、民衆が接近すること も出来ないようにした。 しかし二人は日本軍の身なりをしていたから、歩哨線を越えて 10kmになる防御線を簡単にパスする ことができた。敵は味方と思ったのか、全く気にする様子もなかった。

外から見ると防御線を広くめぐらし、いつでも戦いそうな雰囲気だったが、実は内部はガランと空いていた。谷間の入口の砲 陣地には鉄製の大砲は一つもなく、全てが竿に防水布を被せたにせ物だった。

秋嶺に着いた二人は、焚き火をくべて、濡れた服を脱いで乾かしながら、冷ややかな 5月の山奥で一夜を明かした。 空が明 るくなった後、横を見た二人は驚いた。 楔のように打っておいた日本軍の陣幕があちこちに散らばっているではないか。 やっと二人は敵方の “保護”の中で一夜を明かしたということが分かった。 幸いに霧が山裾にまで降りていて、敵方がま だ状況を把握出来ていなかった。 霧の中をかきわけながら二人の偵察兵は稲妻のように山の端を越えた。

“あの時、我々は毎日昼 12時になると必ず本部に無線で連絡しました。何の軍隊で、兵力はどれだけで、番号はどうなの か等をしっかりと把握しなければならなかったでしょう。 たまには盛んに電報を打っていたら日本人たちが飛びかかって 来て、そそくさとアンテナを仕舞って逃げたりしたんです。 また風体が日本人みたいなので民衆の誤解を受ける時もあっ たが、民衆は ‘おや、日本の奴がいつのまにかロシア語をすべて学んだな’などと憎しみの目を向けたりしたんです。 とにかくその日、我々はシンキ洞の後山まで無事に来たのです。”

呂ヨンジュンは以前に図們で地下工作をした記憶を辿ってシンキ洞の後山の岩がある所まで下がった。 この岩は前は絶壁 で裏は秋嶺の山道につながっている、とても奇妙な岩だった。 主峰の後に平らなところがあり、そこに納まれば誰も見つ けることができなかった。

二人はその場所に身を隠して夜を過ごし、昼には主峰に上がって隠れつつ望遠鏡で図們市内を見下ろした。

“10年余り前に木こりを装って車に座り、道端にビラを撒きながら過ぎ去った道であり、飴売りに変装して通り過ぎた路 地を手軽く捜してみることができました。 目に焼き付いた道だったし、哀愁が残っている町並みだったのです。”

老抗日戦士・呂ヨンジュンは机の上に置かれている望遠鏡を揚げて見せながら感慨無量で言った。

“あの時 5年間の偵察活動をしながら初めて考え出した方法が一つありました。 望遠鏡を写真機のレンズの前に輪ゴムで縛 り付けて、遠距離目標を目の前に引き付けて写す方法です。 こうして私たちは図們一帯の全景を何回も撮りました。 図們 一帯の地形図も完成したんです。 これらはその後、ソ連紅軍の延辺解放に大きな手助けになったんです。”

二人の偵察兵は図們に対する地形偵察を終えた後、日が暗くなると涼水村後山を越えて大荒溝の方へ行った。 一度も通って 見た事がない慣れぬ土地だから、夜道を歩いている途中、道からちょっと離れた茂みの中に入っては寝るということを繰り 返し、 60戸余りになる集団部落の前で寝た。 日が明るくなってからやっと状況が分かった二人は、そそくさと山に上がっ たが、いつのまにか自衛団や警察の追い討ちに遭ってしまった。敵は大声を出しながら、止まらなければ撃つぞと脅した。

二人の偵察兵は山に上がる途中、木が密生しているところから斜めに出た。そうとも知らず、敵は山の端に垂直に上がった。 こうして再び危ない峠を乗り越えた。

真っ青な斧五本

二人の偵察兵は、一日中歩き、日暮れに狭い谷間に入った。しばらく行って谷間の果てまで辿りついて見ると、 山の麓に丸太小屋一軒があった。 かなり低い煙突で夕べの煙がモクモクと出ていた。 二人は林の中に隠れ、盛ん に動静を観察した。 家から一人の老人が出て、おそるおそる四方をよく見た後、薪を抱いて入って行った。

既に山に入ってしまった以上、この家で一夜泊るしかないと思った二人の偵察兵は、林の中から出て主人を呼びなが ら門をバタリと開けて入って行った。 家は一間だったが、先ほど薪を抱いて入った老人は台所の下に座ってセロハン 袋にガラスの破片を掻き集めていた。老人はキョトンとして突然の客を見つめた。

二人は素早く家を掃いて見た。 卓袱台に大瓶が置かれていたが、その中に入っているものはどう見てもお酒のようだっ た。真っ青に刃が立った斧五本が、老人が座っている壁にきちんと立てられていた。 一人なのかと聞くと、もう一人が いると言った。 食べ物を取りに村に下りたが、多分明日の朝にでも戻るという。一夜泊りたいというと、快く承知して くれた。 老人は主人に言いつけられて山奥に入って来て、池を掘りながら歳月を過ごす人だと紹介して来た。

“ところであの瓶の中は何ですか?”
“主人が健康のためにとくれたお酒ですよ。”

老人は酒ビンをこっそり眺めてから、ふざけた言い方をした。 あのお酒一服さえ飲めば、ぐっすりと寝られるよう だったが、そんなわけにも行かなかった。 不幸はいつでもちょっとした気の緩みから出て来るものだから。 二人は 二度と酒ビンを眺めなかった。 退屈な夜を交代で寝ながら明かした。

朝になると他の老人が来た。 彼は二人の偵察兵と酒ビンを交互に見てから、ここで泊まったお客さんたちなのかとい ぶかしそうに聞いて来た。 そうだと答えると、頭を横に振る。元々いた老人が這うような声で言った。

“見るからに地下工作員みたいだが、あのお酒を飲まなくてよかった。人を捕まえる酒ですからね。あのじいさんは、 やつらの言付けを受けてここ来て池を掘るふりをしながら専門的に人を捕らえることを仕事にしているんです。地下 工作員たちがもしあのお酒を飲んで酔えば、あの斧で首を切るんです。 あなたたち、昨夜にお酒を飲んでいたら、 斧に切られたお化けになるところでしたよ。”

二人は背筋が寒くなった。老人たちは悪辣な特務警察だったのだ。

“私にも若いあんたらみたいな息子がいたが、遊撃隊に行った後、消息が途絶えてしまった。やつらは息子に会ったら 帰順させなさいとここに送ったのです。 若者達を見ると息子を見るような気持ちですよ。日本人は負けることは負けるんでしょう?”

“日本人たちは間もなく破れます。 国内からは毛主席が率いる八路軍が出て、後からスターリンが率いるソ連紅軍が出 れば、日本人たちはひとたまりもなく敗れるでしょう。”

“そんな日が早く来たら... とにかくあの老人が告げ口しに行ったみたいだから、早く行きなさい。”

二つの偵察兵は、老人に深くお辞儀して丁寧に挨拶をした後、谷間を脱してそそくさと樹林の中に入って行った。 ここからぶっ通しで五日間、山道を歩いて任務を無事に果して本部に帰った。

“私たちが命をかけて偵察して捧げた正確な情報があったから、その後対日戦争でソ連紅軍は易々と日本人たちを打 ち破ることができたんです。 どれだけ多くの戦友たちが名前も残すことができなかったまま山奥草地の怨魂になったか 知れないですね。 小分隊活動は東北戦線で卓越した役目を果たしました。 小分隊の隊員たちは本当に光復のために生命 を賭けて闘いました。”

老抗日戦士・呂ヨンジュンの誇らしい言葉だ。
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