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67.ソ連での野営訓練

中共東北党組織特別支部設立、抗日連軍再編野営地で爆破、落下傘、放火、タンク対策訓練を強行


▲ ハバロフスク野営訓練所での東北抗日連軍将兵たち。前列左側二番目から李兆麟、王一知、周保中、金日成

中共東北党組織特別支部局設立

優勢な敵方との絶え間ない戦闘で莫大な損失を受けた抗日連軍は、無謀な犠牲を避け、現有勢力を保存して 政治、 軍事的資質を高める一方、勢力を不断に伸ばして抗日闘争を最後まで完遂するため、 1940年末から大 部隊を続々とソ連国内に移動させた後、野営訓練を展開した。 野営訓練には東北抗日連軍各軍で活動した 金日成、崔庸健、金策、安吉、姜信泰ら多くの朝鮮族指揮員たちと戦闘員たちが参加した。 彼らは他の抗日連 軍隊員とともに南北二つの野営地に分かれて訓練しつつ、随時に小部隊を東北各地に派遣した。

“ソ連に入って行って2ヶ所に野営訓練基地を設置したが、1ヶ所は A営(北営)、他の1ヶ所は B営(南営)と呼び ました。 先に入って行ったのが北営で、ナコロフスクの中間地にある地方でした。 A営の南は黒龍江と近くにあ ったが、黒龍江をロシア語でアムール江と呼ぶので、その最初の字を取って、A営と呼びました。 ここには第2路軍の 総部と第3路軍の総部が入って来て、密林の野営地を作りました。 第1路軍は双城子とウラジオストクの中間地帯に ある場所に行って、密林の野営地を取ったが、その場所の名前をブスイロフと呼んだので、最初の字を取って B営 と呼びました。

軍事訓練の内容はこれからの反攻に備え、一般軍事活動だけではなく空中落下、無線戦など先進的な特殊技術 も学習しました。

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生の野営訓練についての紹介だった。

老抗日戦士・呂リョンジュン氏は、抗日闘争回想記 “峻厳な試練の中で”で、 “その頃、私が聞いたところによれば、 1路軍の 500人余りと 2路軍の一部を合わせて 700人余りが第1野営訓練所に行き、 2路軍の大部分と 3路軍のし めて 1000人余りが第2野営訓練所に行ったと言う”と明らかにしている。 野営訓練に参加した将兵たちの半分が 朝鮮族だったと言う。

延辺の少年・少女たちで組職された南野営には、東北抗日連軍第1路軍第2方面軍、 第3方面軍、警衛旅が配属さ れたが、 “実力を集中させて幹部を保存し、整頓を進行して部隊を分散させて活動する”と言う方針を通達するために、 南野営の部隊を再編し、党組織を完璧にした。 1941年 3月、 国境を越えて来た 1路軍部隊を 1路軍第1支隊とし て引き受けた。 下に二つの大隊を置いた。 南野営に一緒に駐屯していた 2路軍 5軍を 2路軍第5支隊に改編、 柴世栄が中共南野営委員会を建立して李青を書記に、柴世栄、 金日成、朴徳山を委員に、崔賢、金ユンホを候 補委員に選んだ。

北野営でも党組織を新しくつくり、部隊を再編した。

1941年 4月 13日、ソ連と日本は “日ソ中立条約”を締結した。 これにより大部隊を動員して中国内に入って活動 するのを中止せよと言うソ連側の要求に従い、抗日連軍は小部隊を東北に派遣し、任務を執行するようにした他、 大部隊は南北野営訓練所に残って政治、 軍事訓練をした。

1942年 8月、 南北野営訓練所と東北で活動している抗日連軍部隊を統一的に抗日連軍矯導旅に改編、 名目上 はソ連極東軍に隷属させた。 正式番号はソ連極東紅旗軍独立88旅で、対外番号は 8416軍の独立性を確保して いた。 周保中が矯導旅旅長を引き受け、張寿(李兆麟)が政委を引き受けた。 下に 4つの営と 2つの連を置いたが、 1路軍を柱として第1営を編成、金日成が営長を引き受け、安吉が政委を引き受けた。 2路軍第2支隊を柱として 第2営を編成、王効明が営長を引き受け、姜信泰が政委を引き受けた。 3路軍を柱に第3営を編成、許亨植が 営長を引き受け、金策が政委を引き受けた。 第2路軍第5支隊を柱に第4営を編成、柴世栄が営長を引き受け、 李青が政委を引き受けた。 旅、営の副職はソ連側から派遣した人員が受け持った。

1942年 9月 13日、中共東北抗日連軍全党大会を召集し、正式に中共東北党組織特別支部局を設立した。 会議で特別支部局第1期執行委員と候補委員を選挙した。周保中、張寿、 崔石泉(崔庸健)、 金日成、 金京石、 彭施魯、王明貴、金策、王効明、安吉、李青が執行委員に当選し、王一知、沈泰山が候補委員に当選した。 書記に崔石泉、副書記に金日成、金京石が当選した。中共東北党組織特別支部局は、中共抗日矯導旅委員会 と東北党組織の最高指導機関だった。その後、東北党組織は統一したつながりを持つようになり、東北抗日連軍 は統一的な指揮を持つことになった。

野営政治軍事訓練

戦闘が頻繁で、それまで軍事訓練や政治、文化学習がまともにできなかった抗日連軍の隊員たちにとって、 今回の野営訓練はまことに意味深い日々だったはずだ。野営に参加した大部分の隊員たちの文化水準は 高くなかった。 彼らの中には、文盲ややっと自分の名前が書ける程度の者が 30%にもなった。

野営地は深山密林の中に建設された。戦士たちは自分たちの手で兵営を建て、訓練場を整え、食糧倉庫、 被服倉庫、 病院、 仕立て所、 講義室、 兵器修理所などを立てた。 畑を掘り起こして野菜も作り、狩り、 漁も して食生活を改善した。 本格的な野営訓練に入ると、戦士たちは日課表によって緊張しながらも愉快に軍事 訓練と学習、 文化娯楽活動をした。

政治学習は隊員たちの文化水準によってつの組に分かれて行ったが、文化水準の高い隊員たちは、自主的 に学習して討論を主とし、文化水準の低い隊員たちは主として講義を受けた。 長期間は遊撃戦争中で学習を まともにすることが出来なかったので、隊員たちは乾天慈雨に会ったように学習に熱を上げた。周保中、張寿、 馮仲雲など抗日連軍のリーダーたちは、頻繁に野営訓練所に訪ねて来て報告会を開き、管内で戦っている八路 軍の戦闘功績を紹介したり 1941年 1月 7日に発生した皖南事変の経過と皖南事変後の中国共産党の態度を詳 しく知らせ、隊員たちの抗日闘志をさらに引き立てた。 戦士たちはマルクス・レーニン主義の基本原理と “ソ連 共産党の歴史”、 “毛沢東の持久戦を論ずる”、 “党の風紀を直そう”、 周恩来の “独ソ戦争と反ファッショ闘争 を論ずる”、朱徳の “東方民族反ファッショ統一戦線を建立しよう” 及び 1936年のソ連憲法などを体系的に学習し、 “中国民族解放戦争の歴史的段階及び勝利の条件”、 “全国抗日戦争の形勢”、 “東北遊撃運動の発展前途” などの問題について熱烈な討論をしたりした。 金日成は朝鮮族の将兵たちに “朝鮮革命家たちは朝鮮をよく知 らなければならない”と言う題目の演説をした。学習を経て、隊員たちはマルクス・レーニン主義理論の水準を高 め、愛国主義とインターナショナリズム精神を発揚して反ファッショ戦争の終局的勝利を果たすため、身を捨てて 戦う準備を整えた。

文化水準を高めるために識者組を編成し、文盲退治をする一方、漢語をよく知らない朝鮮族戦士たちに朝鮮語 政治課目特別班を設け、朝鮮語で政治課目を講義したが、金日成など高位級幹部たちが親しく講義した。 そし て漢語組をつくり、漢語を教え、一部の人々にはロシア語を学ばせたりした。戦士たちは張り紙をして講演会を 開き、娯楽漫会を開くなど、多種多様な活動を活発に開いて文化水準を高めた。

軍事課目は主に隊列訓練、射撃、槍撃術、偵察、歩哨、伝達などの内容だった。 一部の隊員たちは航空と無 線戦技術を学習し、落下傘、スキー、渡江、爆破などの訓練もした。

1941年 6月 22日、ナチスドイツは信義を忘れてソ連を不意に侵攻、12月 7日に日本は真珠港を不意に襲って太平 洋戦争を発動した。 12月 8日、 アメリカとイギリスは日本に宣戦布告をした。 12月 11日、 日本の同盟国である ドイツもアメリカに宣戦布告をした。 そして第2次世界大戦はより一層拡がり、前後して 60ヶ国と地区、20億人以 上に達する人口がこの戦争のるつぼの中に巻き込まれた。このような情勢に直面した抗日連軍の将兵達は、ソ 連紅軍と肩を並べて、ドイツ侵略者と日本侵略者を退ける戦争に突入、強力に反撃することとした。 野営団委員 会では敵を殲滅する技術をさらに磨かなければならないという要求を提起、軍事訓練を急いだ。 そして爆破、落 下傘、放火、タンク対策などの課目をさらに伸ばして、毎日 8時間ずつぶっ通しで訓練に突入した。

矯導旅では、小部隊を集め、東北地方に隊員たちを派遣する一方、ソ連極東軍司令部で頒布した “歩兵訓練大 綱”に従って戦時の需要と東北遊撃戦争の実際に結び付けた体系的な現代化軍事訓練を計画的に進行し、 一部の特殊技術と機能も学んだ。

1942年 9月末から 10月初まで、矯導旅では航空陸戦大訓練を行い、朝鮮族戦士たちを網羅した多くの男性隊 員たちと 20人余りの女性隊員を参加させたが、特に女性隊員たちが沈着・勇敢に訓練に臨み、総教官の称賛 を常に受けていた。周保中旅長は、自分の日記にこれらの女戦士たちを中国航空落下傘技術の歴史の重要な 1ページとして書かれるだろうとして、彼女たちの名前をいちいち記録したりしたが、その中に朝鮮族の女性隊員 が10名いた。 金チャンオク、李ミョンスン、金オクスン、金ペクムン、リュウ・ミョンオック、 チョン・マングム、金スンヒ、チャン・キョンスク、朴ソンオク、李ヨンスクだった。

夏季には水泳も学び、渡江訓練も強行したし、冬季にはスキーの練習をし、倦まず弛まず努力した甲斐あって、 水に立ち入れば誰もが急流を渡ることが出来るようになり、スキーを使えば 50kmほどは軽く走ることができるよう になった。 部隊は 100km離れたところに宿営地を決め、スキーを使って捜索、待ち伏せ、不意の襲撃、部隊内部 での偵察、実弾射撃のような総合軍事訓練も常に行った。

野営政治軍事訓練を経た東北抗日連軍の朝鮮族指揮員と戦闘員たちは、その後、抗日闘争の終局的勝利のた めに大きな貢献をした。
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