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68.延辺での小部隊活動

党組織、反日団体新しく回復。日帝軍事施設を破壊。親日漢奸、走狗を殲滅。抗日連軍、新しい闘争を宣告


▲ 小部隊が使った開山屯ヨンドゥ峰の地下アジト

大量の小部隊、東北へ派遣

“小部隊活動は 1941年から始まったが、南営にあった第1路軍だけでも延辺に 7つの 小部隊を派遣しました。 小部隊の主な活動内容は、第一に既に破壊された党組織と 反日組職を回復することで、二番目にはソ連に入って行くことができずに残っている 部隊を探すことで、三番目には日本軍の警戒所を襲って軍事施設を破壊し、敵方の後 方を撹乱することで、四番目には民衆たちに抗日連軍が生きているということを伝え ることでした。

金日成の指揮した小部隊は、汪清皮溝から出た後、またいくつかの小部隊に分けら れ、各地へ進出しました。 金一、林春秋らは汪清地帯と天宝山地帯、 チョン・ムンソプと金ホンスは安図車廠子付近で、韓チャンボンと韓テリョ ンは長白県地帯、リュウ・ギョンスらは樺甸方向へそれぞれ進出し、活動を展開しま した。 リョ・ヨンジュン、 朴チャンチュンは東寧県老黒山地帯で活動 し、朴洛権らは寧安県牡丹江地帯で活動し、金ミョンジュ、金ビュンスらは琿春 一帯で活動しました。

当時、軍事情報の収集は非常に苦労しました。 例を挙げれば、1943年、老黒山へ進出 したリョ・ヨンジュン、朴チャンチュンなどは、日本の防御戦線を偵察するため直接変 装して日本 の飛行場にまで入り、情報を収集してソ連へ送りました。 その外にも彼らは 東寧一帯で敵の防御工事を偵察する過程で、防御工事に立てておいた大砲 が全てにせ物ということを知り、情報を適時に我軍の指揮部に送りました。1945年 8月、ソ連が日本に宣戦布告をした後、彼らは牡丹江まで出てソ連紅軍の 進軍路線を無線で指揮し、日本軍の後退路線を適時に無線で我 軍指揮部に知らせ、ソ連の飛行機が直接日本軍を消滅することを請け負ってくれました。

金ミョンジュも 1941年に金ビョンスとともに黒龍江省のウスリー江畔の虎林一帯に 小分隊活動を展開しに行ったが、 1943年と 1944年、二度にかけて茶条溝一帯に 入って来て長期的に居住しがら偵察活動に携わり、 1945年 8月には馬滴達 に出てソ連紅軍の侵攻路線を知らせてくれました。 かくしてリョ・ヨ ンジュン、金ミョンジュらはソ連遠東軍司令部の表彰を受けました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、小部隊活動についてこのように 説明しながら “小部隊活動は特定の歴史条件の下での決まった区域と規定さ れた時間内に東北抗日戦争を最後まで進行するための遊撃闘争の一形式だ。 小部隊 活動は日帝を徹底的に殲滅する上で大きな功績を挙げた”と述べた。

東北抗日連軍は、ソ連国内で野営政治軍事訓練を続ける一方、東南満地域で 広範な小部隊活動を展開し、各地に散らばっている抗日連軍部隊を回復整 頓し、東南満と朝鮮北部地域の人民群衆の抗日勢力を支援することで 革命勝利のための基礎を強化するために、 1941年 3月 20日から 5つの小部隊 を東北各地に派遣した。 なかでも一番早く東北に派遣された小部隊は金日成が率いる 第1小部隊と安吉が率いる第2小部隊だった。

“われらは金日成部隊だ!”

金日成は 29人に組職された第1小部隊を率いて 4月 9日、 野営訓練所を去った後、誰も 分からないように琿春、中ソ国境を越えて白頭山地帯に向けて進んだ。 今度の行軍で中共東南省委書記で抗日連軍第1路軍副総司令 である魏拯民を訪ねる、もしくはその消息を知ることが小部隊の主な任務の一つ だった。 しかし一ヶ月前の 3月 8日、樺甸県皮溝牡丹嶺二道河子密林の野営地 で、長白山を席捲しつつ日帝の肝胆を冷やした東北抗日連軍の優秀な指揮員 ・魏拯民が 32歳の若さで不幸にも既に他界したということを彼らはまだ知らなかった。

小部隊は敵方の厳しい封鎖線を避けながら、雪に覆われた山奥で行軍した。 だから行軍速度が速いわけはなかった。 部隊が老黒山を経てヘイシャズ ゴウに至った時、金日成は集団部落を奇襲して地方に残って活動している抗日連軍部隊 に私たちが来たことを知らせようと言った。

集団部落の城門歩哨幕でこくりこくりと居眠りしていた自衛団は、突然の怒号 にびっくりして我に返り、外を眺めたら、なぜか一群の “日本軍”が 立っているではないか。城門が開かれると寄り集まって来た “日本軍”の中の士官の服装を した者が歩哨を蹴飛ばした。

“馬鹿野郎!何というザマだ!こくりこくりと居眠りしながら、歩哨が務まると思っているのか!”

“はい、どうぞ死罪にして下さい...”

自衛団歩哨兵はおろおろしてすっかり取り乱していた。

“はやく隊長室へ案内しろ!”

“日本軍”の剣幕に動転した歩哨は、しきりに腰をぺこぺこしながら自衛団室へ案内した。

自衛団の連中が急に入って来た “日本軍”の御出ましに途方に暮れている時、壁 にかかっていた銃弾の詰まった鉄砲があっという間に次々と下ろされた。

"バカな奴らめ! われらは金日成部隊だ! 死にたくなければおとなしくしろ!“

雷鳴のような音に、自衛団はただぶるぶる震えるだけだった。 すべて 死んだと思っていた抗日連軍が天から下りたか地から湧いたか、自衛団は気が 抜けて目がうつろになっていた。

銃を一発も撃たずに集団部落を占領した小部隊は、群衆を集めておいて緒戦鼓動 活動を展開する一方、残っていた抗日部隊が消息を探知したが動静がなかった。 そこで 金日成は隊を率いて石頭河子を経て小汪清付近の皮溝に至った。

無線機まで携帯した小部隊が図佳線(図們−佳木斯)、京図線(新京−図們)鉄道と色々な分 岐点の大道の傍で活動するのは非常に危ない事だった。 金日成は朴徳山、 金チョルウなどに、こちらに残っていながら皮溝を根拠地として小城子、図們、 東寧、汪清一帯で敵情を調査し、群衆の中に政治組職活動 を展開し、抗日連軍と群衆との関係を回復することで革命の大衆的基盤 を堅固にするように指示した。 それ以外の隊員を従えた金日成は、 5月 12 日、図佳線を超えて汪清県の三岔溝、ダホンウェ、沙河子と敦化県の 黄泥河子を経て京図鉄道を無事に通過した後、再び敦化県二道河子、 三道河子を経て哈爾巴嶺の山腹に沿って安図県ハンチョング一帯に至った。 1年前に魏拯民と別れたところがまさしくそこだったのだ。

5月 20日、小部隊はさらに三小隊に分かれて魏拯民とその他の部隊の足跡を捜す事にした。 ドン・スンビン(漢族)が率いる一隊は、敦化県所在地付近の 二道河子、高麗帽子、柳水川、三道荒溝、四道荒溝、マホ、リュクグァソンなどで 魏拯民と第1路軍の分散した部隊たちの足跡を捜す任務を引き受け、リュウ・サ ムソン(リュウ・ギョンス)が率いる部隊は樺甸県東部の布爾哈、皮溝、 老金廠、ヒチュンジャン等で第1路軍総部とその他の部隊の足跡 を捜す任務を引き受けた。去年までにしてもそこには全光と 1路軍後方部の 密営があった。第3組は金日成が直接引き受け、安図県大甸子、大沙河、小沙河、 和龍県北部、撫松県東北一隊の広い地域を回りながら 各部隊と連絡を取って第1路軍を再びまとめようと考えた。

しかし2ヶ月余りも捜したが、魏拯民と第1路軍の足跡を遂に見つけることができな かった。 7月 28日、3つの小隊は汪清県デドチョン付近に集結、朴徳山小隊と リュウ・サムソン小隊が残って図們、石硯、汪清付近の敵状 をずっと観察する事にし、金日成はその他の隊員を率いて情況を回復しようと野営に 帰った。 9月 14日、金日成は再び小部隊を率いて延辺に入り、汪清一帯 で活動する小分隊と合流した後、活動を展開している途中、 11月 12日、野営に帰っ た。 小部隊活動を展開しながら、彼らは 1路軍の残余部隊についての消息をたくさん 収集し、敵状も大量に把握した。彼らはまた、抗日団体と地方党組職も回復させ、 漢奸走狗たちと闘い、抗日連軍の威信を高めたりした。

神出鬼没

1941年 8月 25日、安吉が率いる第2小部隊の仲間 17人は国境を越えた後、汪清、 図們、延吉、琿春一帯で活動している途中、 10月 19日野営に帰った。

同年 7、8月には崔賢が率いる 10人余りの小部隊が国境を越えて汪清県 老黒山付近に到着した。 彼らの任務は羅子溝に建設されている 日本軍の簡易飛行場に関する施設を偵察することだった。彼らは昼は谷に隠れ、 夜は偵察活動を開始した。そして結局は飛行場の規模、編隊を把握した。彼ら はまた、群衆の協力の下、価値ある多くの敵情報を収集した。 小部隊は古い抗日根拠地 の公聴団員・崔ボンソンを指導して羅子溝に “京城写真館”を建て、 小部隊活動の連絡所として活用した。 この写真館を通じて 1941年から 1944年の間、日満軍の軍事施設、指導者達の撮影をしたりした。 このような資料は、その後 の延辺地区を解放する戦闘で重大な効果を発揮した。

小部隊は任務を完遂した後、 10月 19日、順調に南営に到着した。

1942年春、南野営総部はソ連方面との協商に従って、小部隊 を中ソ国境に派遣し、短期的な偵察任務を果すようにした。 このよう な偵察活動は、その後の対日作戦の需要から出発したものであった。

3月から 6つの小部隊を延辺に派遣して活動させた。 3月 20日、陶浄非 を隊長とする 5人の小部隊が東北に入って来て活動、8月、敵方との遭遇戦で陶浄非と ヒョク・ザシンが戦死した。 李青が率いる小部隊 12人は中ソ国境 を越えた後、寧安、東京城一帯で活動している途中、全て野営に 帰った。 4月 27日、崔賢が率いる 10人小部隊は野営を去った後、 汪清、図們、延吉等で活動しながら満州と朝鮮の鉄道交通図などを収集し、 百草溝一帯で抗日宣伝を行った。 小部隊は大柳水溝で北哈塘警察 で特務 4人を銃殺、当地の群衆たちの不安を解消した。小部 隊は群衆との関係を密接にした後、11月 11日野営に帰った。

5月 13日、朴徳山が率いる 11人小部隊は無線電発射機を携帯して国境を越えた後、綏芬 大甸子、汪清、図們、牡丹江、長春−図們鉄道沿線で活動し ながら敵状を偵察、6月 24日、天宝山に至った。 6月 25日、 グァク・ジサンが何人かの隊 員たちを率いて樺甸県皮溝に入っり、越冬準備をして朴徳山、姜渭龍 、金ホンス、李ドイクら 4人が開山屯一帯に行って、切れていた群衆との関係を回復した。 小部隊が本営に帰った後、姜渭龍らは開山屯一帯 に残り、親戚関係を利用して引き続き反日組職を回復させると同時に、ヨントゥ峰の アジトを拠点として朝鮮・会寧の飛行場の情況、飛行回数と規律を偵察した。 ヨントゥ峰は今の龍井市開山屯鎮子洞村の西南 6kmの所 にある峰だ。 この峰の北側の山腹には抗日小部隊時期に小部隊員たちが拠点にしていた 秘密アジトの旧跡があった。 この秘密アジトについて “龍井県近現代遺蹟地調査票”(1984年 5月、 第72ページ)の記録には次のように書かれている。

秘密アジトは開山屯鎮子洞村第2屯南側 8里のヨントゥ峰の北側に ある人道の西にあり、坂道の入口の南 1500mの所に位置している。 秘密アジトが残っている跡を見れば、南北の長さが 5m、東西の幅は 3mで 東、西、南側は石で積んだ壁、北は土で積んだ壁だ。 南側壁は一番高いところで 80cmにしかならない。

このヨントゥ峰抗日アジトは老戦士である姜渭龍が抗日連軍小部隊活動基地に利用したのだ。 1944年以後には池チョムサンが統括し、土地 改革の時には金キリョンが使った。1959年、朝鮮抗日戦跡踏査団が元々の家の材木を持って行った。 1960年 6月末に子洞管理区で牧畜場に使うた めにここを開墾し、元々の風景は消えた。 今はただ崩れた土壁だけが残っている。

5月 29日、安吉が率いる 12人小部隊は、国境を越えた後、汪清県 綏芬大甸子、羅子溝の東南方向へ動きながら偵察活動をする一方、農民たちの中に 潜入して東北抗日連軍の情況、独ソ戦争の状況などを宣伝しなが ら、抗日戦争に対する必勝の信念を植え付けた。 11月 5日、小部隊は無事に本 営に到着した。 7月 17日には柴世栄が 8人小部隊を率いて国境を越えて来て活動して から移り、 11月中旬には金ユンホが 5名小隊を率いて越えて来て活動、続いて安吉、 崔賢らもまた小部隊を率いて汪清、延吉等 で活動している途中、1943年春に本営に帰った。

“総体的にこの時期、南営から派遣した小部隊は、苦しい地下闘争を続けながら抗日連軍の 残余部隊を捜し、党組織を回復するために全力を尽くしながら汪清県依蘭溝 に 1つの中共区委と共青団区委を回復させ、額穆県ナムデチャンに 1つの党小組、寧安県東部と開山屯 に反日会などの組職を作りました。 小部隊はまた汪清県羅子溝、十里坪、汪清駅、図們ブクデドン、 明月溝南山屯等に秘密連絡員と連絡拠点を置き、日満軍の政治・経済動態と軍事情報 を収集させ、敵方の警戒所を襲って親日派走狗を殺害しながら抗日連軍が 生きていて敵方と新しい闘争を展開しているということを誇示しました。” 小部隊活動についての 朴昌c先生の指摘だ。

1943年以後、東北抗日連軍は、小部隊活動を中止して東北で活動していた極少数の抗日連軍 を除いた大多数の隊員たちを野営に集結させ、軍事訓練を強化した。 1941年 6月 22日、ナチスドイツはソ連との不可侵条約を破り、侵略戦争を起こ し、日本は真珠湾を襲うことで太平洋戦争を起した。 何年間もの熾烈な戦闘 を経て、第2次世界大戦の東西戦線には大きな変化が生じた。 ソ連でのスター リングラードの戦いの勝利をターニングポイントとして、ソ連軍は戦略的な防 御から戦略的な進攻へ突入した。そしてヨーロッパでのドイツの敗北は不可避 になった。 太平洋戦争でもアメリカは強い反撃を見せながら日本の敗色を強めて行った。 このような情勢の下で、東北抗日連軍は対日作戦の準備を急ぐようになったのだ。
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