xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

66.厳しい試練の中での悪戦苦闘

厳しい自然、極端な食糧難、奸悪な敵方との熾烈な攻防戦がもつれる試練に対抗


▲ 抗日連軍討伐に出た日帝侵略軍(資料写真)

2方面軍、逆境をくぐる

紅旗河戦闘で大勝をおさめた第2方面軍は翌日の 1940年 3月 26日、和龍県ファレン ラズで待ち伏せ戦を展開し、追撃して来る日本軍“討伐”隊を攻撃、40人余りを殲滅 した後、敵方を安図県に追い払った。安図県に到着した 2方面軍は 4月 29日、連続 して南道屯、韓家溝集団部落を襲って自衛団の武器と軍需物資を略奪した。何 日の後、第7団・呉白龍部隊は、マンボトンの満州警察と自衛団を襲い、何人かを殺 して武器と食糧を略奪した。

安図県内で何回も打撃を受けた日帝は、兵力を集中して 2方面軍の後を追った。 こ こに 2方面軍は敵方の “討伐”に対処する策略を研究するために 5月 2日、総指揮 ・金日成の主催の下、敦化県六松で今後の戦略戦術方針を研究する緊急会議を持っ た。 第2方面軍政治部主任・呂伯岐、副官長・畢書文などが今回の会議に参加した。 会議の後、呂伯岐は一部の部隊を従えて安図県山東屯、大荒溝、大馬鹿溝等の 日満軍基地を連続して襲った。 大馬鹿溝戦闘で呂伯岐は重傷を負い、既に主張を変 えて特設部隊の親分になった林水山(2月 24日、蒙江県皮溝で日本軍に投降)に 逮捕された後、やはり変節者になった。 こういうわけで呂伯岐が率いた部隊は解体されてしまった。

第2方面軍主力部隊は金日成の指揮の下に分散的な戦闘を展開した。7月 2日、敦化県 哈爾巴嶺基地を襲撃、7月 11日、第1路軍警衛旅旅長・朴徳范犯が警衛旅 と 2方面軍の一部の部隊を率いて和龍県ワリョングトンを不意打ち、日本軍20人余りを殺して 食糧を略奪した。 同日、 2方面軍の一部隊は、琿春県新安屯、二道溝を夜襲して 食糧と生活用品を略奪した。翌日の 7月 12日、他の一部隊は、安図県新興 部落を攻撃、日本軍 20人余りを殺害した...

我軍のこのような絶え間ない不意打ちと攻撃に、日帝はさらにしつこく飛びかかった。 ここに 2方面軍は 8月 10日、敦化県哈爾巴嶺で会議を開き、相応 した対策を講じた。 引き続き分散活動をする一方、立冬の後、部隊は長白山密林に撤退 して一時期休むことにした。

この時、第1路軍の派遣で地方工作に出た金在範ら 5人が銅仏寺で活動して変節漢の密告で逮捕、金在範が主張 を変えてしまった。警衛旅旅長・朴徳范が汪清県三家溝付近で逮捕され、やはり主張を変えてしまった。

この時期、魏拯民は病気が悪化し、やむを得ず部隊を去って樺甸県皮溝二道河子密林の野営地で治療に専念しなけ ればならなかった。 11月、 2方面軍 7団団長・呉白龍は、 17人の戦士たちを率いて皮溝に行き、魏拯民に会って 越冬物資などを渡した後、西北岔、大蒲柴河一帯で遊撃活動を展開した。

3方面軍、血の決戦へ

東北抗日連軍第1路軍第3方面軍は、第2次頭道溜河会議の後、樺甸、寧安、延辺一帯で主に活動する一方、蛟河、舒蘭、 五常等に出入りしながら転々とした。3方面軍は “強敵を避けながら弱い拠点を攻撃して機会をうかがい、殲滅・打撃を 加える”戦術を利用して、時には連合作戦、時には分散出撃で日本軍に甚大な打撃を与えた。

1940年 1月、 3方面軍のある部隊は延吉県ムハク洞で 50人余りの満州警察と交戦し、10名を殺害した。同月、崔賢が率い る 13団は、前後して延吉県四方台、敦化県大蒲柴河、官地等を襲って、日満軍に打撃を与えた。 3方面軍の一部の部隊と 東北抗日連軍第2路軍 5軍 2師は、 3方面軍指揮・陳翰章と 5軍 2師師長・陶浄非の引率の下、敦化一帯で活動した。1940年 春、 陳翰章の率いる部隊は敦化県牛心密林の野営地で 2000人余りの日満軍に包囲された。 敵方は飛行機まで動員して侵攻 した来た。今度の戦闘で我軍は 70人余りの死亡者を出した。 陳翰章も負傷した。 しかし陳翰章は負傷した身で引き続き部 隊を指揮し、包囲を突破した後、沙河沿一帯に移動した。続けて牛心の多くの密林の野営地が破壊され、被服工場の戦士たち が血生臭く惨殺された。裁縫針、食糧、野菜などを全部奪われ、後方基地を完全に喪失することになった。

第3方面軍 15団団長・李龍雲が率いる一部隊は、延吉県に移動して来たが、ダニのようにくっつく敵方の追い討ちを 振り落とすことができなかった。 少なからぬ損失にあった李龍雲部隊は、やむを得ず汪清県に移動して、小部隊の遊 撃活動を続けるしかなかった。

1940年 5月、“敵方の ‘討伐’中心地・敦化県を迅速に離れよ”と言う 1路軍代理司令・魏拯民の命令を受けた陳翰章は、 部隊を率いて五常方面への遠征を始めた。 遠征の途中で 3方面軍は諸所で敵方の包囲攻撃と追い討ちを受けながらも、 敦化県サンハリョン 東崗で日本軍守備隊を奇襲し、30人余りを殺害、蛟河県から追撃して来る敵方を主動的に襲って日 本軍 13人、満州警官 14人を殺傷した。

6月初、部隊は遂に五常県内に入った。 6月 5日、3方面軍は五常県拉林河山林入口の警察隊・香水河子駐在所を夜襲して 日本軍 10人と満州警察4人を殺し、労動者 120人余りを解放した。 五常県に入った後、 3方面軍はリュドジョクザ、石頭河 子、辛家営子など満州根拠地を襲った。 6月 18日、五常県張家湾で日本軍守備隊 60人余り、満州警察30人余りと遭遇して 戦闘を開いた 3方面軍の一部隊は、10人の敵方を殺した後、包囲を突破した。 6月 25日には五常県冲河鎮を不意打ち、敵 30人余りを捕虜にして現金 8700円余りを略奪した。3方面軍 15団と 2路軍5軍 2師は、陳翰章と陶浄非の指揮の下に敦化、 蛟河、五常等で戦闘を展開しながら遠征する途中、隊伍が倍に増加した。

1940年 7月、陳翰章は 1路軍総部と分散作戦を展開している 3方面軍 13団と 14団及び隊伍を離れた戦士と負傷兵たちを捜 すために 130人の隊を率いて敦化へ出る途中、蛟河県の平地溝、平廠屯などの集団部落を攻撃した後、額穆の牡丹江三岔口 で敵方の包囲攻撃を受けるようになった。 我軍は決死的に反撃して包囲を突破したが、半分の兵力を失ってしまった。 そ こで敦化でのすべての計画をあきらめて、寧安県に移動した。

1940年 10月、陳翰章は残りの兵力 60人余りを率いて寧安県鏡泊湖南湖付近に まで行った。そこにはもともと 4ヶ月余り食いつなぐことができる食糧が 備蓄されていたはずたが、変節漢の密告により全て的に消却されてしまい、無かった。 そこで部隊は “内部には食糧がなく、外部からは救援 兵がない”困難に陥るようになった。しかし陳翰章はこれに屈服しなかった。 11月末 陳翰章と陶浄非は、行動計画を立てた後、遊撃戦を展開して食糧を解決することにした。 陳翰章は 40人余りの戦士を従えて出兵した。

1940年 12月 3日夜、陳翰章は寧安県黄家屯の道路建設工事現場 とコガンジャ集団部落を攻撃して武器と食糧、及び軍需物資を略奪した。 12月 5日にはブクホドの日帝伐木作業所を襲撃、食糧を略奪した。 しかし何回かの戦闘で我軍は多くの死亡者を出し、陳翰章の身近には僅かに 10 人余りの戦士が残っただけだった。そこで陳翰章は小湾溝密営に帰って一 時期休もうと考えた。

12月 6日夜、密営に帰って来る中隊内に変節漢ができて、陳翰章の身の上が 敵方に密告されてしまった。 敵方は直ちに部隊を動員して小湾溝密林の野営地を 囲んだ。 陳翰章は 10人余りの戦士を率いて敵方の包囲攻撃に対抗した。 死 んでも屈することができない我軍戦士たちは、敵方と 2時間余りの激戦を繰り広げ、何回も の攻撃を退けながら 10人余りの敵軍を撃殺した。 その間、我軍の戦士たちも一人二人と 倒れた。 敵方の包囲網はますます狭められた。 敵方は本営突破により陳翰章を捕らえ ようと試みたが、陳翰章は残った何人かの戦士たちに包囲網を突破させなが ら、自分は一番後ろから援護射撃しつつ撤退した。

陳翰章が死んでも屈しない相手と知った敵方は、我軍隊に向け て集中射撃を浴びせた。陳翰章は右手と胸部に敵弾を受けて倒れた。 やっとの思いで起き上がった 陳翰章は、大きな松に寄りかかって最後の弾丸がなくなるまで左手でピストルを振り回した。 一群の敵方が松をザッと取り囲んだ。一人が陳翰章の手からピストルを奪お うと飛びかかった。 陳翰章は怒りの眼差しで敵方をにらみつけながら、罵詈雑言を浴びせた。 凶悪な日本人は飛びかかり、短刀で陳翰章の目を抉った。

延辺出身の抗日名将・陳翰章は最後の瞬間まで屈服することなく敵方と争い、壮烈に戦死した。 その時、彼の年は 27歳だった。

戦略的な移動

1939年から 1940年にかけて進行した日帝の大規模、徹底的な “討伐”作戦で 東北抗日連軍は莫大な損失を被った。もともとの抗日遊撃根拠地が 全て破壊され、楊靖宇、 陳翰章など優秀な指揮員と勇ましい戦士たちが犠牲になった。 3万名余だった東北抗日連軍が 1941年には 2000人ほどしか残っていなかった。 東北抗日連軍第1路軍は 1000人にもならなかった。 敵方は 1路軍の 根を完全に断ち切るために、絶え間ない “大掃討”作戦を展開した。

敵方は、散らばっていた 1路軍の戦士ちを捜索逮捕するために、 1路軍各部 隊の活動区域を隅々まで探しながら厳格な “反問”と “大検挙”を実施した。 いわ ゆる “反問”と言うのは、行動が怪しい人物を見つけ次第、あらゆる拷問を加えな がら最後まで尋問するもので、 “大検挙”と言うのは、家ごとに捜索しながら 戸口と居民証を調査するものである。少しでも引っかかる者がいれば、“不良分子” として扱い、逮捕した。

1940年 11月、満州国間島省政府は、 “東満共産党組織を撲滅”するた め、 “特殊班”という専門機構を設立した。 各県の特殊班は各県の警防隊で指揮 ・管理した。同時に正規の “討伐”と並行して共産党組職を破壊したが、重点を 抗日交通員と地下工作者を捜索逮捕することに置いた。 1941年の初めになり、形勢は急 激に悪くなった。 抗日連軍と地方群衆組職の連繋が基本的に成り立 たなくなり、各部隊との連絡も完全に途絶してしまい、兵 力集中など軍事的行動をこれ以上続けることができなくなった。 食糧、衣服及 び軍需物資の補充を受ける源泉を完全に喪失するようになった。 根拠地がなくなり、山間 地帯に分散して活動している抗日連軍の戦士たちは極めて困難な状況に陥ってしまった。 そこで一部の弱い人々が恥も外聞もなく主張を変 え、部隊の足跡と秘密を敵に告発、抗日連軍はさらに大 きな困難に遭遇した。 その苦しみは魏拯民が 1940年 11月に党中央に送った報告書を 見れば見当がつく。魏拯民の報告書にはこんなくだりがある。

舵取りを失った海中の小船のように、両眼を失った子供のように、私たち はどうすればよいかも判らず東奔西走するだけだ。

東北抗日連軍の前には厳しい自然との闘い、恐ろしい病魔との闘い、極端な食糧難 との闘い、奸悪な敵方との熾烈な闘争が一度におそいかかる試練が迫って来 た。 このような情勢で抗戦を最後まで続けるには、遊撃運動の戦略を変更 しなければならなかった。

1940年 11月、 第2方面軍指揮・金日成は、敵方のしつこい包囲“討伐”を振り落とした後、 残った兵力を率いて琿春から国境を越えてソ連に入って行った。

1940年 9月 29日、1路軍警衛旅旅長・朴徳范は、汪清県 天橋嶺で日本“討伐”軍の特別工作組に逮捕された後変節、そして警衛旅 の主力が基本的に瓦解した。 そのうちの一部が国境を越えてソ連に入って行った。

第3方面軍 13団、 14団の一部は、崔賢、安吉の引率の下、琿春、 汪清、寧安、東寧一帯で活動している途中、 1941年春、 黒龍江省東寧県三岔口を経てソ連国境へ移った。

かくして 1941年春に至り、元延辺の第2軍出身抗日連軍生存部隊は、日帝の がむしゃらな “包囲討伐”をくぐり抜けて基本的にソ連国境地帯である ウラジオストク付近に至り、戦略的な変換を遂げ、抗日革命勢力を保存することになった。

ハバロフクス会議

1935年、共産国際中共代表団の “6.3指示”精神に基づき、 1936年 1月 9日、中共満州省委 が撤廃された後、東北には今まで党の統一的な指導機構がなかった。 共産国際中 共代表団もモスクワに駐在していたため、直接的に東北の党組織と抗日武装 活動を指導することができなかった。 1939年から東北抗日遊撃戦争は非常に厳しい 状況に置かれるようになったが、依然と中共中央の統一的な指導を受けることができ なかった。 そこで魏拯民、周保中、馮仲雲など東北抗日連軍のリーダーたち は手紙を書いたり人を派遣あるいは直接ソ連に渡ってソ連方面の経 路を通じて党中央に状況報告を伝達した。

1939年 9月、中共北満省委常務委員・馮仲雲は、ハバロ フスクに到着してソ連遠東解放部門と交渉、ソ連方面の協力 で北満、吉東会議を召集、吉東と北満の党組織を統一して 2路軍、3路軍の合 併と統一をはかろうとした。ソ連側から馮仲雲の建議を受け、 政治、組職、軍事上で東北抗日連軍を支援する事にした。 ここに 1940年 1月 24日 から 2月 5日まで、ソ連国内のハバロフスクで中共吉東省委と北満省委代表連席会議が召集 された。この会議をいわゆる“第1次ハバロフスクフ会議”と言う。 会議には中共吉東省委責任者で東北抗日連軍第2路軍総指揮・周保中、 北満省委常務委員で宣伝部長である馮仲雲、抗日連軍第3路軍軍長・趙尚志などが参加し た。 会議が開かれる時、中共東満省委第1路軍軍部が破壊されたため、代表を派遣 することができなかった。

会議で東北抗日遊撃戦争の経験教訓を総括した後、部隊編制は必ず情勢の流れに 適応しなければならないという問題を討論して “実力を保存して徐々に編制を 作らなければならない”と言う会議方針に基づき、各路軍を 10の支隊に減 らす事にした。 同時に中共北満党組織、中共吉東等組織、東北抗日連軍の代表は、 ソ連極東軍政当局と国際共産党の支援の下に、抗日連軍はソ連の一部必要な援助を 受けるが、東北抗日連軍に対する中国共産党の指導を必ず堅持し、東北抗日連軍の独 立性を確保しなければならないという協議をした。 会議では東北の抗日遊撃運動 と中共党組織を分離させることについての提案を否決した。 会議では “東北抗日救国運 動に関する新しい提綱草案” などの文件を採択した。

1940年夏、ドイツが西欧を飲み込むと、日本はアジアと太平洋地区に対する覇権 を掌握するために暗躍した。1940年 9月 27日、ドイツ、イタリア、日本は “三国同盟条約”を締結した。 ファッショ諸国の結盟は、ソ連にとって ヨーロッパと極東辺界を随時に侵略される危険を感じさせた。ソ連当局は 極東の国勢に特別な関心を払いながら、1940年 9月末、 東北抗日連軍のリーダーたち である楊靖宇、魏拯民、周保中、趙尚志、王効明、張寿、馮仲雲、 柴世栄、李青などに通知を出して “今年 12月に党と遊撃隊幹 部会議を召集し、党組織と目先の遊撃運動に関するすべての問題を解決しようと思 う”と述べた。

1路軍では楊靖宇が既に戦死し、魏拯民が重病で治療中だったので、2方面軍指揮・ 金日成、1路軍総部軍議処長・徐哲、3方面軍・安吉など 3人が東南満省委と 1路軍 の正式代表として会議に参加するようになった。

そして 1940年 12月下旬から、1941年 1月上旬まで二回目のハバロフスク 会議、すなわち満州全党代表大会が開かれた。会議には周保中、崔庸健、李青、王効明、柴世栄、 金策、 金日成、徐哲、張寿、馮仲雲など 11人が参加した。会議は中共中央 の代表が参加しない状況の下で、東北抗日連軍の組職編制に関する重要な決議を行った。 東北抗日闘争を統一的に指導するため、会議では東北抗日総司令部 を構成して周保中を総司令に、張寿を副総司令に、魏拯民を政治委員 に推薦すると指摘した。 会議ではまた周保中、張寿、崔庸健で東北党臨時指導機構 、すなわち “三人団”を組織した。今度の会議は中共中央と 連繋を結ぼうとしたが、客観的原因により目的を果たすことができず、総司令 部を建立する問題が提起されて決議までしたが、情況の変化によりそのま ま実現することができなかった。

会議では東北の各抗日部隊がソ連国内に撤退した情況で、小 部隊を東北域内に派遣して遊撃活動を展開する上で重要な策をもたらした。 この会議では全国の形勢をより正確に見越し、長期的に闘争を展開する問題を提起し、 “環境がいくら厳しくても党の指導の下、団結して抗日連軍 の旗印を高く掲げ、最後の勝利を掴むまで抗日を堅持しなければなら ない”と訴えた。
Copyright(C) 朝鮮族ネット