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65.紅旗河での大勝利

東北抗日連軍第1路軍、日帝“包囲討伐”で根拠地喪失。第2方面軍、紅旗河で前田部隊を殲滅



▲ 紅旗河戦闘遺蹟地碑石

▲ 紅旗河戦跡地現場で発見された <前田中隊激戦之地>碑石

頭道溜河会議

1939年になってから、日帝は東北に大量の部隊を増派し、“包囲討伐”を敢行した。 連続的で全面的な 侵攻は、抗日連軍に神代な損失をもたらした。 同時に日帝のがむしゃらな封鎖政策によって、抗日連軍 と群衆の間の連繋が断絶され、抗日連軍は深刻な食糧難に陥ることになった。 東南満の抗日闘争の形 勢は日増しに悪くなり始めた。

1939年 9月、抗日連軍第1路軍総部は、遼寧根拠地をあきらめて北へ移動、深山密林に入って宿営しなけ ればならなかった。 こうして根拠地を完全に喪失するようになった。 遊撃根拠地の喪失と共に遊撃区域も徐 々に縮小し、抗日連軍各部隊はやむを得ず長白山地区の高い密林地帯を転々としながら苦しい環境の中 で戦闘を続けるしかなかった。

こんな緊急の情勢下で、楊靖宇は樺甸県頭道溜河にある抗日連軍密営で 1939年 10月 1日から 5日まで第 1路軍主要指導幹部会議を召集した。楊靖宇、魏拯民、全光、方振声、徐哲、韓仁和、黄海峰らが今 度の会議に参加した。会議では根拠地を完全に喪失した状況でどうやって反“討伐”闘争を展開するかと言う 策略問題を巡り、注意深く討議した。 会議の参加者たちは厳しい形勢を客観的に分析した後、実力を保存し て殲滅的打撃を受けないために、各部隊たちを小部隊に分散させて活動する方針を制定した。 この方針に基 づき、各部隊の反“討伐”活動区域と戦闘任務を区分したが、第1方面軍ば亜范の指揮の下に蒙江、輝南、 金川、臨江などの県の隣接地帯で遊撃活動を展開し、第2方面軍は金日成の指揮の下に長白、撫松、樺甸、 延辺一帯で活動して、第3方面軍は二股に分け、一方は魏拯民の指揮の下に敦化、樺甸、 吉林地区で活動 し、他の一方は陳翰章の指揮の下に寧安、東寧、蛟河、五常等で遊撃戦を展開し、北満の兄弟部隊と連繋を 結ぶ事にした。楊靖宇は総司令部の警衛旅と 1方面軍一部部隊を直接指揮しながら各部隊と合同作戦をする事にした。

第1次頭道溜河会議の後、各部隊は機動的な小部隊活動を展開し、 日帝の拠点と “集団部落”を次々に襲い、食糧など緊要な必需品を解決した。 根拠地を喪失した不利な環境の中で、抗日連軍は神出鬼没にて敵を 主動的に攻撃、我が軍の勢力を守った。 敵方が記載した資料によっても、 1939年下半期に抗日連軍第1路軍は敵方と 276回の戦闘を 開き、我軍が主動的に敵を襲った回数は 177回だった。

楊靖宇が直接指揮する司令部部隊 400人余りの戦士たちが敵方と何回も接戦しながら、 第1次頭道溜河会議の精神を各部隊に伝達している時、予期せぬ事 が発生した。 東北抗日連軍第1路軍総司令員・楊靖宇が不幸にも戦死したのだ。 1940年 2 月 23日、 35歳の若き抗日名将・楊靖宇は、数百人にもなる敵方と一人残るまで争っ てから壮烈に戦死したのだ。

楊靖宇の犠牲は 1路軍の闘争形勢に急な逆転をもたらした。 敵方は “満州治安の 癌”を根治すると騒ぎ立てながら、さらに激しい “討伐”を展開した。 ここに 1 路軍の重責を一人の肩に担うことになった魏拯民は、1940年 3月 13日から 15日ま で、再度、樺甸県頭道溜河で中共南満省委と抗日連軍第1路軍の主要指導幹 部会議を召集した。 魏拯民、全光、徐哲、韓仁和、朴徳范、李明山、 陳スミョン(司令部秘書)、金広学(第1方面軍政治部主任)、金柏山(警衛旅第3団団長)、 黄海峰(警衛旅第1団政委)、金チェボムらが会議に参加した。 会議では地方党組職が厳重に破壊され、地方群衆活動が薄弱である問題を解決す るため、部隊内の優秀な幹部を地方に派遣す ることで、各階層の中から群衆を動員して反日団体を組織する事にし、連絡員を ソ連に派遣して中央(国際党駐在中共代表)と連携を結ぶ事にした。 全光 が地方党活動の全面的な責任を負う事にした。 会議では金チェボムら 5人で構成された 延辺地方事業委員会を構成、 東南地区に下って地方活動を開拓する事にした。 会議では また、長白山地区で長期的な “討伐”を受けて甚大な損失を見た情況で、第1路軍主力部隊を 長図線鉄道以北へ進軍させ、穆陵、五常、寧安、汪清等で小部隊の分散遊撃活動をするように決めた。 その外に 1路軍指導部を新しく構成した。 中共東南満省委書記・魏拯民が 1路軍の総指揮を 引き受けた。全光が東南満省委員会兼第1路軍地方事業部長、軍需処長を、韓 仁和が省委委員兼第1路軍軍部参謀、警衛旅政委を、徐哲が省委委員兼 軍議処処長を、金チェボムが省委候補委員にそれぞれ任命された。

当時の形勢がどれだけ血生臭く危険だったかについては、魏拯民が共産国際駐在 中共代表団に 1940年 4月と 1940年 7月に送った報告書だけ見ても分かる。 1940年 4月の報告書で魏拯民はこのように述べている。 “私 たちはまるで大海の中で舵取りを失った小さな船のようであり、両眼を失った幼い子供 みたいだ。” 7月 1日の報告では “今年、我軍の食糧及び用品は非常に欠乏する。 村落と小 さな都市を襲ってのみ食糧問題を解決することができる。 冒険を冒して村落を攻撃しなけ れば他の方法がない。 しかし襲撃はいつも予測できない負傷と犠牲を伴うものだ。”

第2次頭道溜河会議の精神に基づいて 1路軍は魏拯民の統一的な指揮 の下に直ちに分散活動に入った。韓仁和は警衛旅を率いて通化、東満、 吉林、寧安方面に出て、全光は部隊を率いて南満へ移動した。 第2 方面軍は金日成の指揮の下に長白、臨江、安図、和龍、延吉、敦化等を 歩き回った。第3方面軍は陳翰章の指揮の下、蛟河、舒蘭、五常、寧安 一帯で動いた。

“討伐隊”を誘引

烏口江戦闘の後、第2方面軍は 1939年 11月、敦化方面に遠征して 12月 17日に馬号付近の六松を襲い、そこを守っていた山林警察隊を殲滅し、 部隊を拡充した。六松戦闘で 7団団長・呉仲洽が壮烈に戦死した。 12月 24日にはギシンザに行って、そこの山林隊を攻撃し、 多くの軍需物資を略奪した。 1940年の初め、 第2方面軍 は再び安図県と和龍県の県境に進出したが、敵方は第2方面軍を殲滅するた めに和龍県警察“討伐”大隊及び前田中隊を出動させ、追撃するようにした。 3月 11 日、 2方面軍は安図県大馬鹿溝森林警察隊を突然襲撃し、敵 10人余りを殺傷し、 現金 1万元余りと多くの鉄砲と弾薬、食糧を略奪した。 我軍は 140 人余りの木材所の労働者たちを動員して略奪物を積み込んでまんまとその場を離れた。.

部隊の行方を隠すために一部の戦士たちに軍需物資を運んで来た労動者たちを連れ、 また大馬鹿溝へ行き、雪の上に足跡を大きく残すようにし、主力部隊は通り 過ぎた足跡を消しながら反対方向に去った。花拉子から 2.5kmほど離れている 紅旗河の西北方向、大馬鹿溝の上流である 735高地の一峡谷に至った主力部隊は、 今度の戦闘の勝利を慶祝しながら十分に休息した。

大馬鹿溝山林警察隊が襲撃されたという噂を聞いて、怒り心頭に達した 日帝は、三道溝に上岡を衛首とする戦闘司令所を設置し、前田中隊、 赤堀部隊、山根中隊などを動員して第2方面軍を追撃した。 ところが 抗日連軍の足跡に付いて行った討伐隊は、足跡がまた大馬鹿溝の方へ行ったの を見てそそくさと大馬鹿溝で行って見たが、抗日連軍は影もなかった。 続けて何日か捜索したが、抗日連軍はどこにも見つけられず、 赤堀部隊と山根中隊は戻り、前田中隊だけがずっと残って山奥を捜索した。

一方、 2方面軍は敵方を誘き出した後、しばらく花拉子密営で休息していたが、 3月 25日、また大馬鹿溝方向へ進出した。 その時、我軍の宿営地からあまり離れていない 所に敵方の通う道があったが、大馬鹿溝方向に行こうとするとその道を渡らなけれ ばならなかった。 我軍は足跡を調べることができないようにするために、その道の上に 横たわっている枯れ木を踏んで道を渡った後、雪の中を通った。 部隊が過ぎ去った 後、二人の戦士が後に続いて雪の上の足跡を消してしまった。 この時、農民の身なり の二人が突然現われた。 彼らは日本軍に捕らえられた当地の農民たちだった。 二人の農民は花拉子の谷間に敵の“討伐隊”が 170人余りがいて、 その下には靖安軍 300人余りがいるということを知らせてくれた。 この情報に接した 2 方面軍指揮・金日成は、追撃して来る敵方を紅旗河の谷間で殲滅する作戦を立てた。

3月といっても、長白山地帯はまだ積雪が腰まであった。 これは敵味方双方 の行動いずれにも差し支えになった。 ところが敵方の行軍速度が我軍より もっと早かった。 我軍が先に新しい雪道を探し出すと、敵方はその後をちょろちょろ付 いて来たからで、敵と我が軍の距離が 5〜7.5km位に近くなった。

紅旗河上流の大馬鹿溝河はいくつかのせせらぎに分かれていた。その一つのせせらぎ に至ると、日が暗くなり始めた。戦士たちをゆっくりと休ませなければ闘うことがで きないと思った指揮部では、木材所の労働者たちが使って捨てた空家に入っ て行ってぐっすり休むように指示した。敵方の鼻先で荷物を投げ出して寝るなどというのは、本来なら 話にもならないが、戦場で鍛錬された戦士たちはリュックサックを下ろすや否やいびきをかき始めた。

翌日、行軍を始めた我軍は小馬鹿溝の方へ稜線に沿って歩いている途中、谷 間に落ちた。 その時を金日成回顧録 “世紀と共に”(第7冊)ではこのように描い ている。

...その谷間の両側は妙な形でした。 上流に向けて、右側には 3兄弟 のようにできた 3つの峰がありました。 待ち伏せ陣地としては素晴らしい所でした。 谷間の左側に も峰がありました。 その峰にやや小さい樹林があったが、それも私たちに有利な地形 でした。 私は指揮官の打ち合わせを開いて簡単な戦闘組職を作りました。谷間の右側 にある 3つの峰には、機関銃小隊と警衛中隊を配置して、遠くの峰の外れに は 7連隊と 8連隊を配置する事にしました。 そうして各部隊はわざわ ざ下方へおりてから、高地に上って来る足跡を消しながら、指定された場所に待 ち伏せ、誘引隊は足跡を大きく残しながらずっと谷間の最初の高地の北を占め、敵方の退路 を遮断するようにしました。 誘引隊は谷間の端にまで雪、歩哨隊の任務を遂行するように しました...

その日は天気が急に暖かくなったので、日だまりでは雪が溶けて道がジュクジュクだった。 2方面 軍の戦士たちは、雪の中に身を隠し、敵方が入って来ることだけを待った。 正午も過ぎ、 日が上がって暖かくなった時、敵が現われた。 先に現われたのは 10人近くになる 敵の斥侯兵だった。彼らは雪の上の足跡に付いて歩き、 待ち伏せ圏の中にやって来た。 斥候兵たちの後には尖兵達が現われた。 尖 兵達が最後の高地の前を通り過ぎる時、軍刀を差した将校が入って来た。 “討伐”隊長の前田だった。 “討伐”隊の頭が待ち伏せ圏の中に深く入っていた。

前田は歩くのを止めて、雪の上に残った足跡と谷間の妙な地形を注意深く察しました。

私は彼が谷間の上に斥候隊を派遣するか、部隊を後に引く工夫をするのではないかと思いました。 しかし 10日余りも山岳地帯を歩き、無駄足ばかり踏んだため、疲労困憊していた前田は、 冷徹に考えて判断しなければならないその運命的な時にボウッとして油断しているようでした。 前田が一本の木の下に立っているのを見て、通り過ぎた部下将校たちがその横に集まって来ました。 前田は軍刀をついて立ち、彼らに何やら指示を与えました。その間に敵の基本隊は完全に待 ち伏せ圏の中に入りました。

私はこの絶好の機会を逃さず、射撃信号を出しました。...

金日成回顧録での描写だ。

日帝 “鬼の過ち”と嘆く

金日成の射撃命令とともに山河を包む銃声が山谷間に響いた。 我軍は 一斉に命中弾を浴びせた。 機関銃が火を噴き、手榴弾が流星のように敵方の 中に飛んだ。前田はすぐに銃弾を受けて倒れた。 不意の とばっちりを受けた敵方はどぎまぎしてばかりで、あっという間に半分 の兵力を失ってしまった。

“討伐隊”部隊長・和泉は、やっとの思いで隊を収拾し、北の高地にいる我軍に向けて 突撃しようとした。 この時、向かい側の麓の樹林の中に待ち伏せていた我軍が 彼らに向けて猛烈に射撃した。 猛烈な交差射撃は彼らの陣営をただちに修羅場にしてしまった。 生き残った連中は、隠れる場所を捜そうとして右往左往した。

敵方が混乱に陥った時、我軍の突撃喇叭の音が大馬鹿溝の谷間にこだました。我軍の戦士たち は待ち伏せ地点から稲妻のように走って出て叫び声を上げながら敵に向けて肉薄して行った。 死に物狂いで暴れた敵も、ついびっくり仰天して両手を上げて 出て来た。戦士たちは降伏する敵の武器を解除した。

戦闘は 2方面軍の大勝利で終わった。 我軍は前田中隊長以下 100人余りを殺害し、 30人余りを捕虜にした。 そして機関銃 5丁、銃 87丁、 ピストル 12丁、無電機 1台、弾丸数万発を略奪した。

この日 3kmほど距離を置いて前田部隊の後を付いて来た靖安軍 300人余りは、 日本人たちが倒れるのを目にしながらも敢えて飛びかかる意欲を出 すことができず、ただめくらめっぽう乱射するだけだった。我軍が略奪した 5丁の機関銃で靖安軍に向けて威嚇射撃を浴びせると、彼らは暗がりに紛れて尻尾を巻いて逃げてしまった。

紅旗河戦闘について、日帝の警察雑誌は “一帯どうしたというのか。討伐にお いては千軍万馬の長年の名将である前田隊長、このような術策に嵌ったことなど ない討伐の王である前田隊長が、意外にもこんな窮地に落ちてしまったことに対し て、いろいろな批判の余地があるかも知れないが、これは要するによく言う鬼の過ちとす るしか、言葉を捜し出すことができない...”と嘆いた。

歴史学者・金チョルスさんは、紅旗河戦闘遺跡地を踏査する中、 1982年 4月、 紅旗河戦闘が起こった場所に日帝時代に立てた碑石があったが “文化大革命”の時に爆発してしまったということを、ある林山作業員 から聞いた。そして爆破してしまったという碑石の破片を捜そうと 現場へ行き、草地を隅々まで探し、結局、碑石の破片3個を見つけた。 そ れを合わせて見ると、一部が足らなかったものの、刻まれた文は完全に残っていた。 そこには “前田中隊激戦之地”と刻まれていた。

以前には紅旗河戦闘跡地を訪ねようとすれば徒歩で行ったが、今は車が通れる 林道が完備している。また、去る一時期には “前田中隊激戦之地”碑石を建てた場所に 板切れに “紅旗河戦跡地”と書かれた木看板がうら寂しく立てられたが、 今は “洪旗河戦闘遺跡地”と見ての通りに刻まれた大理石の碑石 が格好よく建てられた。碑石の後面にはこんな文が朝漢文字で刻まれている。

1940年 3月 25日、金日成将軍はここで抗日武装部隊を指揮し、誘引待ち伏せ戦で 日本の“前田警察討伐隊”を殲滅した。

和龍県人民政府 延辺大学民族研究所建立

洪旗河戦闘で勝利を収めた抗日連軍第1路軍第2方面軍は、安図県の 車廠子、敦化県のソハパルリョンと、琿春県内に進出し、敵方の “包囲討伐”を撃破し続けることで、敵方に深刻な打撃を与え、抗日連軍の 威力を誇示した。
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