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64.大沙河戦闘と寒葱嶺戦闘

“衛星楕円”戦術で敵を蹴散らした後、悪質な宮本 “討伐隊"を殲滅


▲ 大沙河戦跡記念碑

第3方面軍の設立

1939年 3月 11日、柳河付近の密林の野営地で一月ほど政治学習と軍事訓練をした東北抗日連軍第1路軍警衛旅と 少年鉄血団、2方面軍一部及び第2軍第4師は、総司令員・楊靖宇と東南満特委書記で副総司令官・魏拯民の引率下、 樺甸県北にある木箕河林場を攻撃した後、敦化、樺甸、安図、撫松など 4県の接境地帯にある重要な交通要衝地・ 大蒲柴河に進軍して行った。

日帝は、抗日連軍の活動を牽制するため、ここに野戦軍武器倉庫を建てて大量の武器と弾薬を保存していた。 この武器倉庫 を満州軍 1個営と満州警察 200人余りが守っていた。 敵方は部落の周りには土塀を積んでその外側にもまた高い木の垣根を立てた。 あまりに警戒が厳しいので、部落人たちもむやみに出入りすることができなかった。

大蒲柴河に抗日連軍と連携を結んでいるチャン・ヨンチュンと言う武装自衛団員がいた. 我軍はチャン・ヨンチュンを通じて 大蒲柴河に駐屯している主力部隊が外地へ “討伐”に出て、城中に楊靖宇と魏拯民が突入することで大蒲柴河を攻撃する ことを決めた。

4月 7日夕方 7時 30分、 第2軍 4師は山陰を下り、隠密に西大門側に近付いて隠れた。部隊が待ち伏せてからすぐに西大門の 外にいた満州軍の何人かが馬をひいて城中に入ろうとして、城門の外から大門を開けと叫んでいた。大門を開こうとしていた 時、歩哨が突然に抗日連軍が城門の外に待ち伏せていることを見つけ、 “共産軍が来た!”と叫んだ。

思いがけない事態に直面した我軍は、少しの猶予も許されなかった。指揮部の突撃命令とともに我軍の銃弾が西大門に向けて 雨のように飛んだ。我軍の激しい攻撃に耐えられなかった敵方は、西大門を捨てて市街地へ退いた。 西大門に突入して入って 行った我軍は、西側区域を完全に制圧した。 この時、警衛旅と少年鉄血団も、それぞれ東大門と南大門を突破して外地に突入 して行った。地方警察隊室、警察署、日本軍兵営はすぐに我軍の手に入った。戦闘で我軍は、満州警察部隊 200人余りと 日本警衛の藤田と満鮮拓殖出張所主任など日本人 20人余りを殲滅した。

引き続き陳翰章が率いる 2軍 5師と 5軍 2師 5団は、連合して延吉県を経て敦化、三道溝に進軍している途中、石頭河子付近 で日本軍 “討伐”隊と衝突、激戦を展開し、日満軍 32人を撃殺した。 4月末、 部隊は安図県チョングジャ “集団部落” を攻撃し、敵 6人を撃殺、銃 30丁余りと弾丸1500発余りを略奪した。 6月 5日には抗日連軍 2軍 4師 1団が安図県城の北、 ハンチョングを襲撃、 日本教導官を含む満州軍2個連 100人余りを全て捕虜にして、軽機関銃、銃、ピストルなどを略奪した。 その日 2軍 5師は五常県ラブリムハ山林警察隊を夜襲して 100人余りの労動者を解放し、食糧などを略奪した。

第1路軍総司令部を訪ねていた2方面軍の一部隊は、安図県迷魂陣で 5師・陳翰章部隊と会った後、漢陽溝にある魏拯民の 駐屯地ヘ来た。 こうして集まった部隊がすぐ天宝山戦闘を展開したのだ。

7月末、 第2軍 4師、5師は安図県漢陽溝で魏拯民の指揮の下、部隊を東北工に連軍第1路軍第3方面軍に改編した。 指揮に陳翰章、副指揮に侯国忠、参謀長に朴徳范が任命された。下に第13団、 第14団、 第15団を置いた。 兵力は 300人余りだった。

3方面軍が設立された後、魏拯民と陳翰章は部隊を導いて安図、敦化地区で連続して日満軍を撃破した。 その中でも第3方面軍 の戦闘は激しい戦いだった。

大沙河での激戦

大沙河は寒葱溝東北側、安図県所在地の西北に位置する大規模な集団部落だった。 部落は土塀で囲まれ、 部落の中にある警察詰め所の中には高い砲台があったが、敵方はそこに機関銃をかけておいて四方を見張っ ていた。 部落には警察 30人余りと武装自衛団数十人しかいなかったが、もし戦闘が起れば安図(松江)と明月 溝の敵方がすぐに到着することが出来、攻撃するには易しくないところだった。 ここに我軍は “衛星楕円戦術” 、 言い換えれば部落を囲んでその中に入った敵を救援するために駆けつけた援軍を討つ戦術を使う事にした。 すなわち安図と明月溝の敵を大沙河に引き入れて殲滅するというものだった。

8月 23日、魏拯民は 13団、15団と 2方面軍 9団の一部の部隊 300人余りの兵力を率いて四家店の通りの 西側の溝に約 2.5kmにわたり待ち伏せ、明月溝方面に来る敵の増援兵を討つ事にして、陳翰章が率いる 14団 と警衛連200人余りで大沙河集団部落を討った後、大沙河南側に待ち伏せ、安図県城から来る増援兵を襲う事にした。

日が暗くなると大沙河を攻撃する任務を引き受けた部隊は、大沙河部落の土塀の外で待ち伏せていた。 我軍の 計画によれば 0時に歩哨が交代する隙に乗じて、城中にいる潜伏隊の李ホンサンが城門を開いて出れば攻撃 する事になっていた。 ところが日が明るくなったのに、李ホンサンは影も見えなかった。 後でわかったことだが、 李ホンサンは意外にも前日夜にヤンチョグに仕事があって呼ばれていたのだ。

我軍は仕方なく日が明けて人々が水辺に出る機会に攻撃する事にした。 城中に井戸がないので、日が明けると 敵方は歩哨を撤収して水辺に住民たちを出した。

いよいよ日が明るくなった。我軍は大門が開かれて住民たちが水辺に出るのをじっと待っていた。 ところが この時思いがけない事がまた起ってしまった。 その戦闘に直接参加した事のある老抗日戦士・呂ヨンジュン氏は、 抗日闘争回想記 “峻厳な試練の中で”で、その時の情景をこのように書いている。

−だしぬけに日本警察の一人が大門の外に出た。 彼は私たちが菜園に待ち伏せているのを見て、ぷいと後ろ向き になり、部落の中に走って行った。

“それっ”

土塀に貼り付いていたある戦士が叫んだ。 その時、私も土塀に貼り付いていた。走った敵は後をちらりと振り返 ってから、また警察署の方へまっすぐに駆け付けて “共産党が来た!”と大声で叫んだ。 城門の北に隠れた戦 士がその男をすぐに撃ち殺した。 このせいで村の中では警報が鳴り、引き続き突入すると建物の中から敵が急い で出て来て砲台の中に入り、銃撃を始めた。陳翰章は戦闘命令を出し、各連の主たる攻撃方向を提示した。土塀 の外で待ち伏せていた戦士たちは、村の中に押し寄せるように入って行き、警察署周辺の砲台で機関銃を乱射し た。弾丸は目の前で雹のように飛び散った。 私たちは壁に貼り付き、警察署の方へ突進したが、表通りを渡るこ とができずに射撃戦線を避けて近所の民家に入った。 ここの家々は記者のように長々と並んだ家だったが、上 下の家の間には壁があった。敵は続けて射撃して来た。 私たちは民家の壁をくぐって出て砲台に登り射撃した。 しかし敵の弾丸は砲台の壁をくぐることができずに跳ね返るだけだった。

交戦は熾烈だった。 敵陣を狙っていた金スハク隊長が片手に手榴弾を握って腹這いしながら進んだ。ある戦士も また金隊長の後に続いたが、彼の名前はよく憶えていない。

砲台の高さは 5mほどだった。二人の勇士は砲台の壁に貼り付いて手榴弾を投げ込んだ。 どころが手榴弾は塀 の中に入って行くことができずに地に落ちた。 敵方は大声で叫んで乱射した。 二人の勇士は地に落ちた手榴弾を 握り、再度投げ込もうとして、そのまま壮烈に犠牲になった。

敵の機関総帥が騒々しい爆破音に驚き、頭をすくめて座ってからまた持ち上げた瞬間だった。一線に待ち伏せてい た戦友たちが砲台の中に集中射撃を浴びせた。 誰の弾丸が命中したのか、敵の機関総帥に当たって反撃が止ん だ。 この瞬間、私たちは警察署の土壁を乗り越え、砲台の中に手榴弾を押し込んで警察署を襲った。 続いて大部隊 が入って来て、警察と自衛団の武装を解除し、大沙河を占領した...

戦闘全体は元の計画よりずっと遅くなった。 第3方面軍指揮・陳翰章は副指揮の侯国忠に 14団の一部の兵力を率 いて松江方面へ行き、敵の増援部隊を狙い撃ちすることを言い付けた。 狙い撃ち部隊は全速力で小沙河南側の小 高い山に向けて駆け付けた。 しかし時は既に遅かった。我軍の攻撃の急報を受けた安図県城の日本軍は、 9台の 自動車に分乗して、我軍が待ち伏せようとしていた峠を越えて来ていたのだ。 かくして敵方は有利な地形で我軍は 不利な地形で争わなければならなくなった。 敵弾が雨のように飛んで来たが、戦士たちは怒涛のように一斉に叫び 声を上げながら丘に出て、侯国忠副指揮と 14団・許チャジャン、政委・梁衡宇(朝鮮族)が犠牲になった。 指揮官 を失った我が軍は、死を恐れることなく一気に突進して行った。我軍は遂に小沙河の丘を占領し、日本人の指揮官や 数多くの敵兵を殺傷した。

蛇を穴から引っ張り出す

大沙河を討てば明月溝からすぐに出て来るだろうと見られた敵の増援部隊は、この日の昼には 来ず、柳樹村の南入り口に待ち伏せた部隊は一日中無駄足を踏んでしまった。 日が暮れた後、各部隊たちは柳樹村の集団部落を中心に近隣の 集団部落を分担して攻撃した後、一夜を明かした。 安吉、全東奎部隊が 柳樹村部落を討つ時、敵方の抵抗はかなり激しかった。 50人余りの警察 と自衛団は、反撃しながら頑として堪えたが、それから僅か 5分も経たないうちに 我軍は敵方を打ち破って部落を占領した。

崔賢部隊は、ドンリャントンを占領した。崔賢団長は、敵の警備電話を 利用して、蛇を穴から引っ張り出す事にした。そして安図県所在地、 明月溝など各所の警察署と駐在所に電話をして、“私たち抗日連軍は 既に大沙河と大醤缸、ドンヤントンを占領した。勇気が あったら戦いに来なさい!”と威嚇的に通告した。

夜の十二時になると果して増援兵を乗せた敵のトラック 6台がドンヤントンにやって来た。 歩哨線にいた戦士たちが敵方を見つけ、反撃した。 女性機関銃射撃手・許成淑は、 ある隊員に早く指揮部に行って知らせなさいと言って一人で機関銃を振 り回した。 この戦闘で部隊の女将軍と呼ばれながら愛された許成淑は不幸に も敵弾に当たって壮烈に戦死した。

敵の増援部隊は、我軍がもう足跡を隠してしまったと思い、松江の方へ引き上げた。 明くる日、我軍は再び前日に潜伏した地点で待ち伏せた。 松江か ら明月溝へ行く道は、この道しかないため、帰る敵方は必ずこの道を通るはずだった。

お昼時を少し回り、日本軍と朝鮮人 “特設部隊”、そして日本軍の家族数名を乗せた 大型軍用トラック 7台が安図県城の方から我軍の待ち伏せ場所へ疾走して来た。 そのうち 一台のトラックに座った敵方は、大沙河戦闘でどうにか生き残った敵方だった。 ト ラックは我軍の待ち伏せ場所の南側下端を経て 2.5kmほど疾走して来ている途中、先 頭のトラックが停止するとその後から付いて来たトラックが全部1ヶ所に集結した。

我軍の機関銃、銃が一斉に火を噴いた。 ある者は自動車の上で死に、ある者は飛び降りて 撃たれて死んだ。 わずか何十分かの間に敵の主力は殲滅され、生き 残った敵方は大混乱に陥った。残った者も道路西側の窪みに待ち伏せた我軍の 集中射撃によって袋のねずみになった。 引き続き我軍の突撃信号が鳴った。

戦闘が終わった後、ごちゃごちゃに散らばった敵軍の死骸を数えてみると、100体余りだった。 宮本は運転室から出ることも出来ないまま死んだ。

この2日間の戦闘で、第3方面軍は、敵 250人余りを殺傷もしくは捕虜にして、 7丁の軽機関銃と 700丁余りの銃、ピストル及び色々な大砲と大量の軍需物品を略奪した。

寒葱嶺待ち伏せ戦

大沙河戦闘の後、第3方面軍は部隊の食糧とその他の兵站品を解決するために寒葱嶺 で敵方を待ち伏せ襲撃することをに計画した。ポワキを通じて 9月 25日に日本軍・松島部隊が敦化からテポシハへ “秋期討伐”に出るという情 報を掴んだ後、第3方面軍の主力部と第5軍第2師政治部主任である陶浄非部隊 しめて 500人余りは、 9月 24日(旧暦 8月 12日) 寒葱嶺南側坂のコヘルで 待ち伏せ戦を展開する作戦を立て、第3方面軍指揮・陳翰章と参謀長・朴徳范 の引率の下、目的地に向けて強行軍した。

この日は一日中雨が降ったが、たまに霧までかかって東西を見分けにくかった。 敵方は もとの通りに両側200m幅の草木を全部切ってしまい、相当な開放地帯を作ってしまったが、 その長さが約 50kmにもなった。それだけでなく 寒葱嶺とその道端の高地ごとには高い砲台まで積み上げ、駐屯し ながら日夜で我軍の行動を警戒していた。 部隊は秋雨と霧を利用して寒葱嶺 のヨチァズから北に 7.5km離れた寒葱嶺南側麓の狭くて長い谷間のコヘル付近に到着した。 ここは山が険しく、樹林が生い茂り、待ち伏せ戦を展開するのに適した場所だった。 敦化から大蒲柴河へ通じる道路は、まさにこの谷間に沿ってくねくね伸びていた。

陳翰章は一牌の戦士たちを従えて小さな峰で戦闘を指揮した。 25日昼時頃、遂に 敵軍が現われた。彼らは日本軍少将・松島が率いる “討伐隊” だった。彼らは12台のトラックに乗って来ていた。その中には 50名余りの満州警察 を乗せた 2台のトラックもあった。 彼らの自動車が我軍の待 ち伏せ圏内に完全に立ち入った。

“ダン!”

射撃命令を知らせる信号銃声が山谷間に響いた。 戦士たちは彼らに向けて猛射撃を 浴びせた。戦士たちが投げた手榴弾は弧を描いて飛び、敵軍の頭上で連続して炸裂した。 敵の自動車は一つ一つ砲煙の中に包まれてしまった。

しかし相手の抵抗も手強かった。 敵軍は勢力を組織して対応し始めた。 我軍は砲撃を何台かの自動車にだけ集中した後、松島少将を射殺した。 松島少将は自動車から降りることもできないまま無数の銃弾を受けた。 敵の防御線が崩れ始め、生き残った敵は逃げ始めた。 後から来た敵軍のトラックも、方向を変えてやって来た道へと逃げ出した。 突撃喇叭音が 鳴ると、我軍は混乱に陥った敵陣へ猛虎のように突進した。 猛烈な激 戦を通じて我軍は敵の主力を基本的に殲滅してしまった。生き残った敵方は尻尾を巻いて逃げて行った。

この戦闘で我軍は松島少将を含む日本軍 100人余りを殺害し、自動 車 1台を燃やし、機関銃 4丁、銃100丁余り、弾丸70箱余りを略奪した。
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