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63.烏口江戦闘と天宝山戦闘

第2方面軍豆満江に出入りして日本軍の家を破壊。延辺人民故郷に帰り、自兵を熱烈に歓迎


▲ 由緒ある歴史の川、烏口江

烏口江戦闘

1939年 4月、東北抗日連軍第1路軍第2方面軍は長白県北大頂子会議の後、朝鮮の茂山地区へ進撃、大紅丹戦闘などを開けて 和龍県広坪付近でまんまと豆満江を渡った。 第2方面軍指揮・金日成は呉仲洽の第7団を烏口江の西側地帯 に配置し、自分は第8団と警衛連を率いて豆満江沿いに付いて東のオクドンゴル、フィプングドン一帯に進撃して来た。 部隊がフィプングドンに到着すると集団部落警察隊は合戦もせずに尻尾を巻いて逃げ出し、我軍は手軽く集団部落を占領し た。 我軍は和龍県広坪等を掃討しつつ 10余りの集団部落を続けて襲い、日満軍警を重ねて撃破、 多くの敵を殲滅 した。 我軍が行く先々で敵方を厳しく攻撃していることを知るようになった抗日群衆たちは、自分たちの自兵が故郷へ来た ことを熱烈に歓迎した。

各所で痛めつけられた日本軍は、大部分を動員して抗日連軍の後を追った。 我軍は追撃して来る敵をペムント付近で一網 打尽にする作戦を立てた後、豆満江上流の東京坪、大洞、ウォンボン等で活動している第7団さえ呼び入れて 百里坪北側のドンスゴルの端に集結させて置いた。

その時、百里坪には一番悪質な討伐隊 “靖安軍”1個連が駐屯していた。 敵方は抗日連軍部隊がフィプングドンで 群衆政治工作をしてから西の方に消えたという情報を入手した後、毎日ペムントン入口のサクムグ橋に行って機関銃を備え て 40人ずつ2隊に分かれて橋を守っていた。それだけでなく彼らは和龍県一帯の道路と村ごとにに厳重な警戒網を伸ばして いた。その時、華北戦線で特別に優秀な軍功を立てて天皇の表彰まで受けたという大野という者が “討伐大将”を引き受 けていた。この男は胸倉に阿修羅を入墨していて “阿修羅”を自称したりする猛者だった。

6月 10日夜明け 3時頃、ドンスゴルを出て我軍 300人余りは百里坪烏口江岸に至り、敵方を誘引するためグ ムゾムグル周囲の石を均した後、付近に待ち伏せた。 烏口江岸の大きな道を挟んで西側の丘の北と約 500m離れた地 点に 8団政委・朴徳山(金一)が率いる機関銃小隊と 8団を一列横隊に待ち伏せさせ、向こう側の密林地帯に呉仲洽の 7団 が警衛連を待ち伏せさせた。グムゾングルは烏口江から約 200m離れた道端にあった。

烏口江は青山里谷間にある海抜 1677mの枕峰西側のヤンエクリョンから東南に流れ出る川だ。 海蘭江は枕峰西北の ロリコ湖がその発源地帯であるが、烏口江発源地の北約 3kmの山越しにある。 烏口江は枕峰の西側から流れ出て約 25km流れて西馬鹿河と合流した後、ホンギ河と名前を変える。烏口江両岸は草原が生い茂っており、自動車道路がその傍で 伸びていた。 道の右側には山々が南北に横たわっていた。 待ち伏せ戦を展開するにはおあつらえ向きの地形だった。それ に戦士たちが皆、草に偽装していたから近くでも分かり難かった。

霧が徐々に晴れ始める朝遅く、万端の準備が出来た2人の戦士が百里坪の方へ下がっている途中、鉄砲を撃った。 遂に百里坪で日本軍 “討伐隊長” 大野が率いる靖安軍一個連が多くの機関銃を持って現われた。 時は午前 8時 頃だった。 烏口江を渡った敵軍は、入口でとどまり、周りの地形と動静を察してから表通りに沿って上って来た。 その時を金日成回顧録 “世紀と共に”(第7冊)でこのように描いている。

敵の隊が私たちの待ち伏せ圏に完全に立ち入った時、長い刀をさした日本の将校がなぜか溝のそばに来て歩みを止め、 怪しい痕跡があると大声を出しました。 多分、私たちの友人のうちの誰かがそこに足跡を残したようです。戦いを終わ らせて戦場を捜索する時、戦死した日本将校たちの胸をかきわけて見たが、溝のそばで私たちの足跡を最初に見つけた長 い刀をさしたその将校こそが、 “阿修羅”を自認する “討伐隊”隊長でした。

“阿修羅”が溝のそばで立ち上がる瞬間に私は射撃命令を出しました。私たちはアッという間に 200人余りの敵を殺害も しくは捕虜にしました。 “阿修羅”は鞘から軍刀を半分も抜くことができないまま溝のそばに倒れました...

烏口江の岸はあっという間に日本軍の死骸でごちゃごちゃになった。 最初の一撃で倒れた大野隊長は、生き延びようと してグムゾングルへ這って行ったが、そこに待ち伏せていた我軍戦士たちによって殺された。 引き続き突撃喇叭音が鳴 った。抗日連軍の戦士たちは、勢い良く敵陣へ肉薄して行った。何人かが我が軍の戦士たちにつかまった。 今度の戦闘 で我軍は日本軍指導官以下 50人余りを殲滅し、大部分を捕虜にした。 戦利品は機関銃 4丁、銃100丁余りで、我軍は 1 人の犠牲もなかった。

烏口江戦闘の勝利は延辺人民たちを大いに鼓舞してくれた。 抗日群衆たちは戦闘の勝利を熱烈に歓呼し、多くの若者 達が抗日連軍に参加しようと急いで部隊を尋ねて来た。

天宝山戦闘

6月 29日、第2方面軍第9団は第2軍 4師、5師の部分的部隊とともに天宝山を襲う目的で 300人余りの兵力を集結させ た。朴徳范(4師参謀長)、崔賢(4師 1団団長)、馬徳全(第2方面軍 9団団長)は部隊を率いて 30日夕方、三方から天宝山を囲んだ。

“9.18”事変の後、天宝山鉱山は日本侵略者たちの延辺の地下資源を略奪する主な基地だった。 かくして彼らはここ に日本守備隊と満州軍、警察部隊及び満州武装自衛団を駐屯させ、警備を強化した。 しかし今は一部の部隊を抗日連軍 “討伐”のために牛心山に出動させていたので、鉱山には兵力がいくらもなかった。山頂から見下ろすと、四隅に探照燈 が明るくともっていて、暗闇の中で鉱山村が一望出来た。 正門には夜勤の労動者たちが出ていた。 部隊は二組に分かれ 、一方は天宝山部落を攻撃、他の一方は鉱山を攻撃する事にした。

4師 1団の戦士たちは、出勤する労動者たちに付いて鉱山に至り、番兵を倒した後、あっという間に鉱山区域へ突入した。 瞬く間に鉱山にいる警察は全て生け捕り、日本軍守備隊と交戦した。敵の抵抗は頑強だった。 戦闘計画全般に影響を与え ないようにするため、少数の戦士たちを残し敵軍と続けて闘うようににして、大部分の戦士たちは鉱山の設備を破壊し、 鉱山事務所を襲うようにした。 鉱山事務所を占領した戦士たちは、斧で金庫錠を壊し、大量の満州貨幣を捜し出して麻袋 に詰め込んだ後、事務室に火をつけた。

他の一方の戦士たちは、帰宅する労動者たちに付いて天宝山の村まで下り、日本の資本家たちが経営する商店、食料品店 、薬屋などを襲って大量の食糧、布地、薬品、履物などを略奪した。警察署に突入した戦士たちは、留置場の門を壊し、 閉じこめられていた労動者たちを救い出した。

我軍は戦闘で鉱山保衛団団長・吉田を含む 15人の日本人を殲滅し、20丁余りの鉄砲を略奪した。 戦闘の終わった後、我 軍は鉱山に火をつけて労動者たちの協力で略奪品を運び出したが、その中から 50人余りが自発的に抗日連軍に加入した。 イムドンジャに到着した後、生け捕った敵軍のうち悪質分子5人をその場で殺害し、一部の戦利品を当地の人々と荷物を 背負って来た労動者たちに分けてやった。

天宝山戦闘で我軍は敵方に甚大な打撃を与え、敵の統計によると今度の戦闘で彼らの受けた損失は 80万円以上に達した。 その後、天宝山鉱山は 1年間も生産を中止しなければならなかった。

明くる日、イムドンジャ樹林の中で行軍していると、歩哨線から連絡兵が駆けて来て、敵情を知らせた。天宝谷に向けて 老頭溝の方に 200人余りの日本軍が集まっているというものだった。攻め寄せる敵方は関東軍精鋭部隊であり、最新武器 を装備していた。

我軍は休息を諦めてすぐに撤収した。 日の暗くなるまで敵方は和龍県十里坪に撤退し、我軍を続いて追撃した。 日が暗 くなると敵方は谷と川端に宿営地を決めて、あちこちに焚き火を焚いた。

我軍は先に少数の隊員たちで夜に敵方の宿営地を襲った後、湿原へ誘い出して殲滅するという作戦を立てた。 暗い夜、 10人余りの戦士たちが多くの牌の襲撃組に分けられ、敵陣に突入して番兵を倒し、天幕に近付いて機関銃を振り回した。 あちこちで敵方の悲鳴が上がった。 敵方は隊を収めた後、山に上がって乱射したが、襲撃隊員たちは既に敵の射撃圏内 から脱して帰路についていた。

翌朝、日の上る頃だった。敵方は再度、山頂へ突撃して来た。 しかしこの山頂には敵を誘引する小分隊がいるだけで、 大部隊は樹林を経て湿原に出ており、いなかった。 小分隊は敵方を誘引しながら機動的に湿原へと撤退した。 行く先に は死の湿原が拡がっているとも知らない敵方は、 “突撃!”と叫びながら狂ったように追撃して来た。 しかし湿原に入 った日本人たちは、罠に嵌ってしまった。脛までズブズブと嵌る湿原でじたばたするだけで、どうすることも出来なかった。

急に湿原の向こうから6丁の機関銃が復讐の火を噴き出した。湿原に捕まった日本人たちはどうすることも出来ずに弾を受 けるしかなかった。最後の一人まで倒した後、我軍は勝利の凱歌を上げながら悠々と森林の中に消えた。
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