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62.苦難の行軍

寒さ、飢餓、病魔、日満軍の包囲攻撃に勝ち抜きながら、新しい遊撃根拠地の開拓ために苦難の行軍を強行


▲ 1939年夏、樺甸密林の野営地での東北抗日連軍第3路軍の将兵たち(資料写真)

日帝の “3省連合討伐”

1937年 7月から始めた “3年粛清計画”に基づき、日帝は 5万名余の兵力を集中して 三江地区に対する 1年半の 間の “大討伐”を敢行した後、 “治安粛清”の重点を東南満地区においた。そして日帝は 1939年 10月から 1941年 3月までの 1年半の間の “3省連合討伐”を敢行した。今回の “大討伐”の主攻撃目標は、東北抗日連軍第 1路軍で、主な討伐区域は間島省と通化省全体、吉林省東部の盤石、樺甸、敦化、蛟河、舒蘭等と牡丹江省の寧安県だった。

今回、“大討伐”に参加した日満軍警はしめて 6万名、なかでも日本軍では関東軍独立守備隊第5、第9、第21、第7、 第8、第4等 6個大隊(後に第19、第20大隊が追加)だった。 その外に各大隊に 20個の無線電部隊と憲兵を配備、総計 6400人余りだった。 “討伐”に参加した満州軍は、第2軍管区歩兵第2旅、騎兵第2旅、第2教導隊、第8軍管区第1、 第2、第3混成旅、第8教導隊、第6軍管区 1個旅、第7軍管区 1個旅、第1軍管区歩兵第5団及び通信部隊と自動車隊など しめて 2万 5000人だった。 “討伐”に参加した警察隊は通化省警察隊(10個大隊)、間島省警察隊(5個“討伐”隊)、 吉林省警察隊(14個“討伐”隊)、牡丹江省警察隊、間島特設部隊、通化省の 9県、間島省の 5県、吉林省の盤石、樺甸、 敦化、蛟河、舒蘭などの県と牡丹江省の寧安県警察隊、 通化、間島、吉林 3省及び所属各県の警察組職と特別巡察組、 東辺道地区の各満州山林警察隊、満州新京警察学校学兵隊、満州営口海上警察隊の飛行機 2台、及び錦州、奉天、浜江 などの省の警察増員隊しめて 3万名余だった。

日帝は “3省連合大討伐”をおよそ 3段階で進行する計画を立てた。 1939年 10月から 1940年 4月までが第1段階で、 “討伐”の重点を通化省各県と吉林省樺甸県において、第1路軍総司令部と警衛旅及び第1方面軍を殲滅するというもの だった。 1940年 4月から 9月までが第2段階で、 “討伐”の重点を間島省安図、和龍、汪清、牡丹江省の寧安、東寧、 吉林省の舒蘭、浜江省の五常等におき、抗日連軍第1路軍第2方面軍、総司令部、警衛旅、第3方面軍を殲滅するというも のだった。1940年9月から 1941年3月までが第3段階で、 “討伐”の重点を間島省、特に牡丹江、間島、吉林3省辺境地区 と汪清、琿春、東寧、額穆の4県におき、抗日連軍第1路軍総司令部、警衛旅、第2方面軍と第3方面軍を殲滅するというものだった。

日帝は大掛かりな軍事 “討伐”と共に、 “討伐”区域で反動的な政策を実施し、抗日連軍に対する経済封鎖を断行、 抗日部隊に食糧一粒も入れられないようにした。日帝は通化、間島、吉林 3省に予備道として 20本余りを新しく建設、 100kmの電話線を新しく架設した。“討伐”期間に日帝は道路と鉄道の両側に農作物を植えることができないようにし、 山岸に畑を掘り起こすことができないようにした。鉄道と道路の両側に 50m以内の木を全部切ってしまい、鉄道と道路の 沿線に警衛隊を配置した。 1939年 10月から 1940年末までに日帝は抗日連軍密営 2085ヶ所を壊滅してしまった。

日帝は軍事 “討伐”と共に “思想討伐”、“文化討伐”も敢行したが、“討伐”地区に大量の “宣撫”人員を派遣して “宣撫活動”をさせた。 同時に “討伐”地区に反共ビラと色情写真、淫らな書籍と刊行物を撒布して抗日連軍の思想を 腐食させて精神を誘惑させようとした。 抗日連軍内部を分裂させる目的で、日帝は抗日連軍高級将校を捕らえたり殺せば、 賞金を与えると決めた。 軍級幹部の場合 1万円、師級幹部の場合 5000円、団長、参謀長の場合 2000円、その他の将校は 1000円と賞金を決めた。 日帝の “討伐”は抗日連軍に甚大な打撃を与えた。 1939年 10月から 1940年末まで、日満軍に 殺された抗日軍民は 1170人余りになり、捕虜になった人は 900人余りになった。

日帝の “ダニ戦術”

1938年 11月 25日、抗日連軍第1路軍総司令部は、蒙江の南排子で第2軍第6師と合流した後、2軍 6師を正式に抗日連軍 第1路軍第2方面軍にで改編した。 金日成が指揮に任命されて呂伯岐が政委、林水山が参謀長で畢書文が副官に任命された。 直属警衛連連長に呉ペクリョン、第7団団長に呉仲洽、政委に朱在一、 第8団団長に孫長祥、政委に朴徳山、第9団団長に馬徳全、 第10団団長に徐ヨンが任命された。兵力は総計 500人余りだった。

“恵山事件”により幾多の地下組職が破壊されたので、 1938年、長白地区の反日革命運動は、大きな試練を経験するように なった。既に第2方面軍は金日成の指揮の下に長白山口に新しい抗日遊撃区を開拓するため、蒙江県南排子を離れて長白県 北大頂子へ進撃する行軍を始めた。 今度の行軍は敵方の追い討ちとともに厳しい自然、極端な食糧難、 恐ろしい病魔が一所に やって来た試練と難関に一貫して苦難の行軍だった。

その年には秋夕の前に初霜が降りたし、秋夕の後にはすぐに大雪が降り、初冬から大木も凍える厳しい寒さが差しこんだ。 部隊は出発直後から敵方の追い討ちに直面し、弱り目に崇り目で病魔と食糧難を受けるようになった。 元々は南排子から 北大頂子まで徒歩でおよそ六日もあれば到着出来る距離だったが、我軍はおおよそ 110日余りという大変な時間をかけて ようやく行軍を終えることができたから、その苦しみがいかほどのものかは言うまでもないだろう。行軍は敵方の絶え間ない 追い討ちと包囲の中で進行されたが、敵方は通信手段で飛行機まで飛ばしながら闘争に熱をあげた。 敵方ははじめからし つこくくっついて来て、相手が生活できなくしてしまう “ダニ戦術”を使った。 “ダニ戦術”は “討伐隊”を要所要所に あらかじめ配置しておいてから、抗日連軍が現われれば攻撃し、また一応見つけた抗日連軍に対しては食い下がって最後まで 付いて行きながら消滅するという戦術だった。 その戦術は抗日連軍にとって休むことも寝ることも食べることもできないよ うにしながら、追い回し、攻撃を受けながら途中で精根がつきてしまうことを狙うがむしゃらな戦術でもあった。

敵方はお互いに交代しながら我軍を攻撃した。 このような落とし穴の中に嵌った我が軍は、ダニのようにくっついて 離れない敵方のため困境に陥るのが常だった。 無鉄砲に追い討ちにだけ遭いながらジタバタしていると自滅するのは 自明だった。それで思い付いたのが “ジグザク戦法”だった。 “ジグザグ戦法”というのは、行軍をジグザグ方向にする ことだったが、方向転換するたびに振り返って座って守り、敵が現われれば機関銃で攻撃する戦術だった。“ジグザク戦法” は雪が積もった山地から後に従って来る敵方を打ち破るのに一番相応しい戦法だった。

その年の冬は記録的な豪雪で、前の人が雪を押し固めながら道を作ってやっと行軍することができた。 いくら元気な隊員 でも 50〜60mも歩けば息が上がって座り込むほどだった。ある所は雪がとても深く、身を転がして道を作らなければならない ほどで、ある所は雪穴を掘って通らなければならなかった。 敵方は我軍が作ったジクザク道を付いて来るしかなかった。

我軍の “ジグザグ戦法”

7団団長・呉仲洽は行軍縦隊の一番後でジグザク模様に道が折れる場所ごとに、機関銃を携帯した戦闘小哨を配置し、 敵方が近付くと射撃するようにした。 敵方が死骸を処理する間に待ち伏せ打撃隊を移動させ、敵方がまた近付けばまた攻撃させた。

敵方は我軍が作った道を付いて来るので、毎度攻撃される羽目になってしまった。我軍は遂に主導権を握って敵を攻撃出 来るようになった。 その間に我軍は臨江県 腰溝集団部落襲撃戦、蟻河付近戦闘、王家店襲撃戦を含む限りない戦闘 を続けながら 1939年の初めに長白県 七道溝に至った。 敵方はますます多くの “討伐”隊を送り込んで来た。敵機が我軍 の行方を調べるためによく飛んで来るため、焚き火も満足に起こすことが出来ず、常に寒さに震えなければならなかった。 それに絶え間ない行軍が続き、歩きながら眠る時もあった。 そんなある日、我軍の行方を探知した敵機が、地上部隊に連絡 して “討伐隊”を行軍縦隊に蜂の大群のように飛びかからせた。前も敵、後も敵で、空にも敵だった。切迫した状況に第2方 面軍指揮の金日成は、前から飛びかかる敵は機関銃小隊が打ち破り、後から飛びかかる敵は7団が阻み、残りの隊員たちは側 面突破で包囲の中から抜けるようにした。

このような方法で危機を免れたが、依然としてはらはらするような綱渡り状態だったのは言うまでもない。ここで、大きな 兵力の集団行軍が多くの面において不便であると気付いた部隊は、分散行動に移ることを決めた。 部隊は三つの方向に分 散する事にした。 指揮・金日成が警衛連と機関銃小隊を率いて青峰密林の野営地を経て加載水の方向に出て呉仲洽の 7団が 長白県上崗区一帯、 8団とその他の部隊が撫松県東崗一帯へ出る事にした。

部隊が分散すると集中攻撃の被害は減ったものの、食糧難だけはどうにもならなかった。金日成は部隊を率いて空腹を抑 えつつ青峰の方向に行軍した。食べ物がなく、全部隊が餓死の脅威に晒されるようになった。 そうするうちに青峰付近で 突然に、刈り取られる前の粟畑を見つけた。 目前に一杯に広がる粟の穂を見て、隊員たちは感激の涙を流した。

地形を見ると春に部隊が新太子密林の野営地に行きながら種を蒔いた粟畑だった。 去年の春、部隊の戦士たちがここを通 った時だった。 急に現われた軍人たちを見て、春の種蒔きをしようとして畑で働いた農民たちがそそくさとどこかへ逃げ てしまった。 どうやら、抗日連軍を日本軍“討伐”隊と思って逃げたようだった。 畑の主が秋になって食べ物を収穫出 来るようにしようと、粟を植えてやった。 ところがその畑の粟が収穫をしないままそのまま残っていたのだ。

隊員たちは雪の中で一束二束と刈り取った粟で粥を作って食べた。

しかしその粟さえ、すぐになくなってしまった。これから食糧を求めることができる方法は、青峰密林の野営地に行って じゃがいもを一つづつもらって来ることだけだった。 しかし敵方の追い討ちを受けながらじゃがいも畑に着いて見ると、 じゃがいもはもうすべて取り込んでしまい、なかった。 “討伐隊”はいつの間にか後にまで付いて来て、機関銃を乱射し た。 部隊は谷間を捨てて原野の方へ降りた後、日が暮れた隙に乗じて強行軍で遠くへと抜けた。

強行軍の途中、森林部隊の兵営に出会い、突撃して見ると、敵はもうすべて逃げてしまって、つい先ほどまで食べ物を 食べた席がそのままあった。 隊員たちは食卓の上に満載の食べ物をリュックサックに詰め込んだ後、追い掛けて来る敵 方を欺いて逃げたが、再び追い討ちされてしまった。 敵方は乾パン一つ食べる時間も与えずに付きまとった。

日中に堂々と平原を通る

指揮・金日成は部隊にとって追撃して来る敵をそのままにして一回りするには丁度良いブフムル原野をぐるぐる と回るようにした。 一回りした時、新しい “討伐隊”が現われて我軍と後に従った本来の敵軍の間に挟まった。 お互いに連携のない二つの群れの敵が重なって追撃する怪異な事が起ったのだ。 この時に乗じて部隊員たちは白い布 で身をくるみながらまんまと横へ抜けた後、林の中に隠れてしまった。

一番後から追撃して来た敵方は、前の隊伍が抗日連軍だと思って射撃を加えた。ここに敵方は同士討ちにより多くの 死者を出す死闘を始めてしまった。

今度は敵方が深山にだけ注意を向けた隙に乗じて、我軍は敵方の視線が届きにくい野山に出ることに決めた。 ところが、行軍が苦しくなるほど逃走者が出るのが深刻な問題だった。 逃走者たちは次々に敵に投降した後、 抗日連軍の足跡を告げ口してまた追い討ち、あるいは包囲されるようにした。

深山を捨てて加載水を通るようになったが、そこはだだっ広い原野だった。 しかし敵方は砲台から我軍をじろ じろ見下ろしながらも触れることができなかった。 主力が山に行っているので、部落には兵力がほとんど残って いない上、我軍の勢いがあまりにも堂々としていたので飛びかかる意欲を出すことができなかったのだ。 我軍は日中 に原野を堂々と通り、樹林地帯に入って行き、ご飯もこしらえて食べて休息もできた。

樹林地帯を脱し、さらに行軍している時、敵方が後から追撃して来るのを発見した。 数日後、斥候兵たちが前にも 敵がいると知らせて来た。 後から追って来るのは日本軍で、前から向かって来るのは満州国部隊だった。 我軍は少ない兵力で後を牽制させた後、何も知らずに向かって来ている満州軍部隊を打ち破りながら包囲を突破 しようと作戦を立てた後、戦闘に突入した。警衛連長・呉白龍が先頭に立って部隊を率いて向かって来る 敵方に向けて機関銃射撃を浴びせた。 満州国部隊は数十人の死傷者を出すと、すごい部隊を相手にしてしまった と思ってリュックサックや荷物を全てほうり出し、尻尾を巻いて退却した。 我軍は敵方が投げたリュックサック で食べ物を集め背負い、破れた履き物まで履き替え、大きな道に出会うまで猛追撃した。

遂に分散行軍した各部隊が 3ヶ月もの苦しい行軍を経て、北大頂子で再合流するようになった。北大頂子はいちめん の祝祭ムードになった。 100日余りの間も死地で苦労してから再会した隊員たちは、お互いに抱き締めて笑って寝転 びながらねぎらい合った。

1939年 4月、 金日成の主催により、長白県北大頂子で抗日連軍第1路軍第2方面軍指導幹部会議を召集した。 会議では半年間の遊撃活動の経験教訓を総括して、今後の活動方向を研究、 必要な時には兵力を集中して 敵を攻撃することに決めた。
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