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61.“老嶺会議”と “恵山事件”

堕落分子・卑怯分子、敵に投降して党組織と抗日連軍、甚大な破壊を受ける


▲ 出戦を控えた抗日連軍戦士たち

“第1次老嶺会議”

“盧溝橋事件”の後、抗日連軍第1路軍は、勇敢に戦って日帝の絶え間ない “討伐”を粉砕したが、抗日遊撃根拠地 も大きく破壊され、抗日連軍も大きな損失を見るようになった。 このような情勢の下、中共南満省委書記で抗日 連軍第1路軍総政治部主任である魏拯民は、全国的な抗日戦争が勃発した後の国内外の形勢と東北抗戦の新しい形勢 を研究した後、1路軍の闘争方針と任務を定めようと総司令員・楊靖宇と会合することを企てた。 そこで楊靖宇は 第1軍軍部及び直属部隊を率いて桓仁から北上して集安に至り、魏拯民は第2軍の主力部隊を率いて南下し、集安の老嶺で会う事にした。

1938年 5月上旬、魏拯民部隊と楊靖宇が従えた第1軍軍部が、集安の老嶺山口で合流した。 5月 11日から 6月 1日 まで五道溝密営で中共南満省委と抗日連軍第1路軍軍政幹部会議が召集された。この会議をいわゆる “第1次老嶺会 議”と言う。 会議には楊靖宇、魏拯民、楊俊恒、韓仁和、黄海峰、陳スミョン、徐哲、呂伯岐、伊俊山、宋茂 など 10人余りが参加した。 会議では全国と東南満の闘争形勢を分析し、抗日遊撃戦争の経験教訓を総括、“実力を 保存しながら敵方の全面的な侵攻を粉砕” する方針と策略を採択、 今後の遊撃運動の方向問題を討議したりした。 会議で楊靖宇が管内の八路軍と連携する問題と東北抗日連軍各部隊の合同作戦の問題を提起した。楊靖宇の提議によっ て党中央と八路軍と連携を継続して推進するために、再度西征することに決定、第1軍第3師が西征を先行する事にした。 その後を引き継いで第1軍第1、 第2師が従う事にした。 各抗日部隊との合同作戦のために第2軍第4師、第6師は続いて通化 地区で遊撃活動を展開する事とし、第5師は依然と綏寧地区で活動しながら吉東、北満地区抗日連軍と連絡工作をすることとした。

第1路軍改編

老嶺会議の精神に基づき、第1路軍各部隊は初歩的な成果をおさめたが、楊靖宇が率いる西部遠征部隊が、 動くや否や敵の大包囲に入って筆舌に尽くせぬ苦しみを経験している時、第1軍第1師師長・程斌が敵に投降した。 元々、楊靖宇が第1群軍部と直属部隊を従えて桓仁を去った後、本渓、桓仁、寛甸、鳳城一帯の闘争形勢は急激に悪化 していた。 敵方の軍事“討伐”、経済封鎖、政治誘惑の酷い政策によって抗日隊中の辛抱できなかった人々が、動揺し てしまったのだ。 1938年 2月 13日、日帝の “長島工作組”と “黒崎遊撃隊”が急に桓仁県牛毛溝西岔の密営を襲った。 南満省委宣伝部印刷主任バン・チェら 5人が戦闘の中で犠牲となり、第1軍参謀長・安光勲が逮捕された後、変節してしま った。安光勲は主張を変えた後、敵方に第1軍の重要な機密を提供した。 安光勲の公述によって敵方は 2月 25日、 桓仁県ツムタイズで第1軍政治部宣伝課長兼、南満省委秘書処編集主任・朴世昌を逮捕した。 3月 6日には桓仁県牛毛大山 で南満省委青年部長で抗日救国青年団南満総会書記のリュウ・ジャゴンを殺害した。

“長島工作班”は撹乱を目的に変節漢・安光勲、胡国臣らに何回も第1師師長・程斌に投降を勧誘する手紙を書くよう にした。 一方 “黒崎遊撃隊”は軍事的侵攻を加えて来た。 敵方は 6月 8日、第1師根拠地のポソクハにまで侵攻し て来た。 程斌は部隊を従えて観戦、桓仁、本渓に移動しながら何回も敵方の打撃を受けた。 6月 29日、 程斌は本渓 で “長島工作班”の投降書を受け付けた後、投降に断固として反対した 1師 6団政委・李鉄秀、1師政治部保安連政委・ 金ジョンハなど指揮員たちを鉄砲で撃ち殺し、荷受 29人と一緒に敵方に投降した。 こういうわけで第1軍は深刻な難局 にぶつかってしまった。 第1軍はもちろん、全般的な抗日連軍第1路軍の軍部署、部隊建制、指揮員たちの活動経路と部 隊の活動区域、戦略戦術、軍需物資の源泉、所属部隊の番号、密林の野営地設置の秘密などをよく知っている程斌の変節 は 1軍にとっては実に致命的な打撃に違いなかった。 程斌は投降の後、言うまでもなくこの全ての事柄を敵方にいちい ち教えた。 程斌の投降により、 1軍の西部遠征計画はさらに困難に陥るようになった。 程斌の投降で重大な損失を受け た中共南満省委と東北抗日連軍第1路軍は、 1938年 7月中旬、 楊靖宇、 魏拯民、方振声、伊俊山、徐哲、韓仁和、黄海峰、 楊俊恒、呂伯岐, 孫ムソン、李フンソなどが参加した中、再び集安の老嶺で緊急会議を開催、程斌が主張を変えた後の情勢 に基づいて 1路軍の全般的な抗日闘争について再度研究した。会議では一部の隊を残して老嶺山口で引き続き遊撃戦を堅持 するように、各主力部隊は龍江山脈の河里と樺甸、蒙江など山岳地帯に移動しながら西部遠征計画を取り消す事にした。 会議ではまた第1路軍の軍と師の体制を廃止して、総司令部の統一的な指導の下に一つの警衛旅と 3つの方面軍で再編成し、 各部隊の作戦地域を新たに区分することに関する重要な決定をした。1938年 7月末、 元第 1、2軍教導団と 2軍独立旅を合 併して、司令部警衛旅に編成、 楊靖宇の直属指導を受けるようにした。 旅長を方振声が引き受け、政委を韓仁和が引き受 けた。 独立旅の兵力はしめて 500人余りだったが、主に金川、蒙江、集安一帯で活動する事にした。 同年 8月、 50人余り になった少年鉄血隊を集め、総司令部の活動に密接に関わらせるようにした。 8月、 第1軍 2師と 2軍の部分的兵力で金川 県黒瞎子溝で第1方面軍を編成した。 指揮に゙亜范、政治部主任に伊俊山、参謀長に尹夏太が引き受け、下に一個団と一つの 機関銃組を置いた。 兵力は約 250人、集安、臨江、通化、金川、輝南、蒙江等で活動した。 11月、 蒙江県南排子で元第2 軍 6師で第2方面軍を編成した。 指揮に金日成、政治部主任に呂伯岐、参謀長を林水山が引き受けた。 下に 2個団と 1つの 警衛旅を置いた。 兵力は 350人余り、 長白、撫松、蒙江、臨江、和龍、安図、延吉、琿春、汪清等で活動した。 1939年 7月末、敦化県海溝(今の安図県内)で元第2軍 4、5師が合併して第3方面軍を編成した。 指揮に陳翰章、副指揮に侯 国忠、参謀長を朴徳范が引き受けた。 下に 3個団と 1つの警衛旅を置いた。 兵力は 300人余り、延吉、汪清、 琿春、敦 化、額穆、蛟河、寧安、五常、舒蘭等で活動した。

“恵山事件”

中共党員である権永壁は、 1935年、祖国光復会が設立された後、金日成の指示によって 30人余りの政治工作員たちとと もに長白県に派遣され、長白県祖国光復会を組織、祖国光復会の優秀な会員たちを中国共産党に受け入れて党組織建設に 拍車をかけた。続いて 1937年、中共長白県委を建設、第一人者である県委書記を引き受けた。 7月、 長白県 十七道溝で 第1回中共長白県委員会を召集、 群衆を動員して抗日連軍の抗日闘争に合流し、日満軍の兵屯計画を破壊するなど、 闘争方向を明確にした。

艱難辛苦の日々、長白県委は県全体の各級の党組織と党の外郭組職、広範な人民群衆を組職、指導して抗日を宣伝し、 抗日連軍を支援するなど、活動を活発に展開した。

長白県委のこのような革命活動は、敵方に大きな脅威となった。 敵方は “長白特務工作大隊”を編成し、四方に特務 を派遣して情報を探知した。 敵方に引っかかった金泰国は警察署に引かれて行って拷問され、権永壁が 十七道溝にいる ということを全てそっくりそのまま喋ってしまった。 9月のある深い夜、朝鮮恵山の日本警察は密かに十七道溝に侵入し、 権永壁と徐応珍を逮捕した。 “恵山事件”はこうして幕を開けた。 金泰国の告発により、権永壁、李梯淳、朴寅鎮、徐応珍 、朴禄金など幾多の核心人物が検挙された。 第1次の検挙を通じて敵方は、長白一帯の指導核心人物たちを大部分拘束し、捜 査の幅を広げて西間島全域と鴨緑江対岸の甲山一帯にまで魔の手を伸ばした。そして長白県委と長白県祖国光復会は麻痺状態 になるか解体された状態になってしまった。 その後、馬東煕と張曽烈が逮捕され、馬東煕は組職の秘密を守るために舌を自ら 切って闘争を続けた。一方、張曽烈は拷問を何度も受けつつ、自分が知っている密林の野営地と地下組職を全て白状してし まった。 彼は自分が関与した組職をすべて公開し、長白県の上崗区と中崗区で自分と連携を結んでいた革命組職の指導核 心メンバーをすべて公開、抗日部隊と密林の野営地の位置までも知らせてしまった。 そして警察たちを連れて 十九道溝の 基地にまで来て、池泰環ど開九を逮捕した。゙開九も張曽烈のように主張を変えてしまった。゙開九は歩哨隊がある干巴 河子密林の野営地に警察を案内し、歩哨隊員全員が犠牲になった。

今回の事件で幾多の中共党員、祖国光復会会員、反日関係者が逮捕されたが、日帝によって “有罪判決”を受けた人だけ でも 167名にもなる。 日帝はこれらの “罪”を 158ページの判決書で列挙、全員が “治安維持法違反”で、その外に住宅 侵入、強盗、 殺人、殺人未遂、放火、公文書毀損、郵便法違反、電信法違反、銃砲火薬類取締違反、出版法違反、陸軍刑法違 反、軍旗保管法違反、犯人を隠して庇護した罪など、出来る限り重くするため、可能な罪名を全て書いた。今回の事件を通じ て、敵方に押収されたものでは、機関紙 “火田民”第1号から 7号まで、 秘密出版物 “朝鮮共産主義者の 任務”、“同志よ 団結しろ!”、 “日中戦争と 朝鮮青年の 任務”、 “国際ニュース”、 “社会主義とは何か”その他 10種類余り、武器と してはピストル、 弾薬、 短刀などだった。 このような罪目で日帝は 1941年 8月 28日、 167人に対して判決を下したが、権 永壁ら 6人を死刑に、 朴クムチョルら 4人を無期懲役に処した。 その外に 15年懲役に 4人、 13年懲役に 6人、 12年懲 役に 9人、 10年懲役に 18人、 8年懲役に 14人、 7年懲役に 7人、 6年懲役に 4人、 5年懲役に 8人、 4年懲役に 10人、 3年 6ヶ月懲役に 7人、 3年懲役に 48人、 2年 6ヶ月懲役に 5人、 2年懲役に 16人が言い渡された。

“恵山事件により、結局、中共長白県委と祖国光復会の指導機関は徹底的な破壊にあうようになりました。 これは今後、 抗日連軍の軍事活動に重大な影響を与えました。” 延辺大学歴史学教授・朴昌c先生の指摘だ。
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