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60.血と涙の移民生活

騙されて強制移住させられて来た朝鮮族移住民 “出荷”任務。完遂出来なければ勤労奉仕に回される


▲ 間島開拓民部落の全景

日帝の強制移民

“朝鮮族の東北への大量移住は 1931年 ‘9.18’事変以後から 1945年の光復までの 14年間で、 この時期を総括して強制移民の時期と言えます。 この 14年をさらに 3つの時期に細分することが出来、 1931年から 1936年までは ‘統制移民’の時期、1937年から 1940年までは ‘集団移民’の期、 1941年か ら 1945年までは ‘開拓移民’の時期となります。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生の日帝の強制移民についての分析だった。

1931年から 1936年までの統制移民の時期に、日帝は東北での彼らの殖民統治が基本的に確立されると、 東北の農業資源をさらに略奪するために朝鮮の破産農民たちを大量に東北に移住させた。 1936年 8月、 日本関東軍は傀儡満州国政府を動かして、いわゆる “在満朝鮮人指導要綱”を制定した。 この要綱によれ ば、朝鮮から毎年 1万世帯 5万名余の朝鮮破産農民を東北に移住させ、朝鮮人移民の移住区域を間島及 び東辺道の 23県(1938年には 19県を追加して 39県)に制限して中ソ国境に居住している朝鮮人農民を強圧 的に指定した区域に移住させるというものだった。 同年 9月には朝鮮のソウルに朝鮮移民経営機構である “鮮満拓殖会社”を設立し、傀儡満州国の新京(長春)にその執行会社である “満鮮拓殖有限株式会社”を設 立した後、新しい移住民と既住民たちに対する統制と集結、彼らに対する “自作農創定計画”を実施した。 1937年 3月から満鮮拓殖会社は延辺地区の汪清、延吉、安図そして遼寧省営口地区に 2339戸、1万 214 9人の移民を収容し、 35の集団部落を建てた。 そして北満、特に中ソ国境地帯に散在している、もしくは流浪 している朝鮮人たちを “国防と治安の必要”として営口、柳河、寛甸など 5つの地区に集中させた後、 10の集 団部落を建立して 1016戸の 4338人を収容した。

1937年、日帝は水田耕作を主としている朝鮮南部の京畿道の 6つの道から 2500との農家を移民に選定して 間島省と奉天省営口県区域に強制的に移住させ、 1938年 7月には南満と北満に 16の移民県を増やした。 1939年 12月には 39県にだけ移住するようにした規定を撤収し、東北全域をすべて移民地点に定めた。 19 40年 8月まで満鮮拓殖会社では 1万 3897戸の 6万 1421名の “集団、 集合移民”を受け入れ、東北各地に 230戸の集団部落を建立した。 朝鮮族移住民は 1940年から北満を中心に 6450戸、 1941年には 2725戸、 1942年には 3462戸が移住して来たが、 1942年 12月末まで東北の朝鮮族人口は 151万 6000人、 1943年 6月には 163万 3220人、 1944年 4月には 165万 8572人、 同年 9月には 175万 492人、1945年光復まで に約 210万名に増加した。

1940年 6月、日本人移民経営を担当した満州拓殖会社と満鮮拓殖会社を合併して “満 州拓殖公社”に改編し、東北域内の移住民と移住事業を統一的に管理した。 特に 1941年からは日々に拡がる彼らの侵略戦争の需要を満足させるために “農地造成計 画”、 “緊急農地造成計画”を立てて東遼河、第2松花江地区を主とする東北 墾地の大小耕地を開墾することに狂奔した。

朝鮮族の移住民が増加するに従い、東北地区の水田耕作も速かに拡大したが、1935 年以前、東北の水田面積は 3万 5353ha、米生産量は 8万 3517トンであったのが、 1940年には水田面積が 8万 9134ha、米生産量 16万 5589トン、 1944年には水田面積がやや縮まり 8万 1108haだったが 米生産量は 19万 124トンに増加した。

野蛮な “糧穀出荷制”

日帝は “満州農業移民 100万戸計画”を操作して 20年間に日本人 100万戸、 500万 名を東北に移民させる事にした。 この計画によって日帝統治者たちは移住朝鮮人を統 制して集結させ、朝鮮農民を強制的に東北地方に移住させる外、満州政府と結託 して朝鮮人農民たちが掘り起こした土地をむやみに略奪して日本開拓団に与 えた。 1936年 8月から 1941年 3月まで、傀儡満州国政府と “満拓”で略奪した 土地面積は延辺で 1207.6ha、牡丹江省で 17万 3850ha、安東省で 2102haに もなった。人口の少ない開拓団が多くの土地を占めていて、一部の 土地を朝鮮人農家と漢族農家に小作させた。そして朝鮮 人農民とその他色々な民族の農民たちは、日本開拓団の小作農に転落した。 特に “7.7”事変の後、日帝は農民に対する高利貸搾取を拡大した。 そして多くの農民 たちは借金を返すことができず、自作農から日帝植民地会社の小作 農に転落するしかなくなった。

日帝はいわゆる “糧穀出荷制”と “食糧配給制”で東北の多くの民族 が住む事が出来なくしてしまった。 “糧穀出荷”というのは、農民た ちが一年中苦労して作って収穫した穀類を最大限に略奪するために強制 的に実施するものであり、太平洋戦争を始めた後には “決戦徴収方 策”を実施し、東北の食糧を徹底的に取り立てようとした。さらには武力で 農民たちを脅迫し、食糧を奪ったりした。 朝鮮族にはいわゆる “報恩出荷”で、食糧をさらに献上するように強要し、水田を耕作する朝 鮮族は米を全て捧げた後、雑穀を買って食べるようにさせた。日帝は最大限に生 産物持ち出し、最低限度に民衆の配給を抑え、侵略戦争の需要を満足させよ うとやりたい放題に暴れ狂った。

満州国官吏と警察たちは、出荷期間になると農家に出向き、あらゆる家を調べ回りながら 、どこかに食糧を隠していないか捜索するのが常だった。 村役場の官吏や警察たちは、家ごとに捜し回りながら米や米櫃を捜して甚だしくは 棒に米の検査計を付けて意の野中、木陰、靴箱、屋根、便所ま で捜したが、一旦、食糧を隠したことが露見すると、散々に殴って連行して行った。 延吉県九水河に住む朴老人の日帝出 荷についての口述を “お話−中国朝鮮族歴史”(朴チュンサン、金チョルス)でこのように書いている。.

村には 33戸が住んでいた。 収穫が終われば村役場と駐在所の巡査たちが出て来て、出荷量を家毎に決めて、 いつまでに納めろと指示した。 飢え死にしても果さなければならなかったが、 果すことができなければ監獄に入れられるだけだった。大東亜戦争が勃発した 後、さらに過酷になったが、一度納めればそれで終わりなのではなく、 二度も三度も、余裕がある限り納めなければならなかった。 巡査たちがすべて持ち去ってしまうと、食べ物がなくなってしまうので、 村人たちは巡査たちの目を避けて谷間へ行き、キムチ甕のように穴 を掘って米櫃を入れて置いた。 米櫃に栗、とうもろこし、豆、麦、 きび などの穀物をたっぷりと入れ、蓋をしてからは土で隠した後、 草木で目隠しをしておいたが、そうして初めて駐在所の巡査や村役場 の役人たちの捜索を免れて、何とか冬を過ごし、春には種蒔きが出来た。 ところが、出荷を果すことが出来ずに打たれて拘留された人がいた。 小作 をする人々は二番目の供出どころか、最初の供出すらも果す能力がなかった。

その時、村にチョン・チョガムという両班がいたが、既に七十の峠を越していた。ある時、 その両班の家で出荷を果すことが出来ず、駐在所の日本人巡査がその 両班に気を付けの姿勢をさせ、皮手袋をはめた手で顔をめちゃめちゃに 殴り飛ばした。 出荷を完遂出来なかったとか食糧を隠したことがばれて殴られる ぐらいは、それでもマシな方で、それより恐ろしいことは勤 労奉仕に駆り立てられることだった。日帝は出荷を果すことができなかった人と 食糧を隠した人々を勤労奉仕に送ったが、村役場の事務員が分隊長になって 人々を連れて行った。 勤労奉仕に連れて行かれた人々のうち、生きて帰って来た人もい るが、帰って来られずに死んだ人が多かった... 勤労奉仕に出て死んだ人があ まりにも多かったので、勤労奉仕に出るくらいなら皆死ぬと言って、どれだけ涙を流したか分から ない。

1941年から住民たちの食糧標準を最大限制限する “配給制”を全面的に実施した。 そして朝鮮人農民は血の汗を流して稲作をしたが、米は一粒も口に入れることが出来ず 納めさせられ、その代わりに麦、 じゃがいも、 とうもろこしのような雑穀を炊いて 食事をした。 都市の住民たちも同じだった。 市民が米のご飯を食べて 密偵や走狗にばれれば、 “経済犯”として懲罰を受けた。

騙されて来た移民たち

-満州は土地が多く、農業がよくできる。
-資金はもちろん初年度の食糧、種子などを先貸してくれる。
-牛、車、農機具も先貸してくれる。
-何年か真面目に働けば自作農になることができる。
-今すぐ住む家まで建てておいて、貴方たちを待つ...

満鮮拓殖会社のこのような宣伝を聞いて、朝鮮の破産農民たちは土地が沢山あり、肥沃であると いう満州へ行き、一旗揚げようとばかりに、馴染んだ故郷の山河を後にした。 しか し、いざ指定してくれた目的地に到着して見れば、家まで建てておいて待つなどというのは 真っ赤な嘘だった。

“やつらに騙されたな!”

激怒することこの上なかったが、後の祭りだった。そして泣く泣く 土地を耕すしかなかった。 彼らはやむを得ず漢族農民の家に頼って暮すとか、ほとんど はみすぼらしい精米所のようなところを借りて手入れして住まなければならなかった。

故郷を離れる時までは、満州の果てしない大平原のどこかで田を開き、稲作をする のだろうと思った。 ところが大多数の農民たちがいざ到着すると、その場所は、 地税の高い山里の中だった。満鮮拓殖会社で初年度の種子と食糧、生活費用を 先貸ししてくれた。 しかしその年の秋に種子の値段と先貸ししたお金、そしてその利子 まで返さなければならなかった。返す能力が無いと明確に判っていながらも 移民たちは春の種蒔きに出ざるを得なかった。

朝鮮族の集団移民についてのドキュメンタリー写真撮影を目的に、 5年間深層調査を続けて 来た撮影家・李グァンピョン氏が初めて明らかにしたところによれば、満鮮拓殖会社で は 1935年旧暦 3月、延吉県 南哈莫塘に江原道と咸鏡南道の 200世帯の農民たちを詐欺で引き入れ、試験的に朝鮮族集団移民部落を建てたと言 う。 満鮮拓殖会社のこのような宣伝に乗った朝鮮族農民たちが、どうしてこれだけなものであろうか。 1937年春から慶尚北道の聞慶、尚州、奉化、安東、麗川等だけでも 400〜500戸が汪清県同新郷、太陽村等に移民として来たし、羅子溝には 1937年秋から 1938年春まで 600戸、 1940年に 100戸が騙されて入って来た。

今、延吉に暮している今年 83歳の蔡ドシクさんの故郷は、慶尚北道に あったが、故郷に一家親戚が 70戸余りもあった。 良心を早く亡くした蔡ドシクさんは、伯父 と共に農業をしている時、一旗揚げようと 1938年 2月 27日朝、 故郷を発ったと言う。 今も汽車駅まで見送りに来た伯父が、去る汽車を 眺めながら座りこんで泣いていた姿が目に浮ぶと言う。 汽車には蔡ドシクさんのよう に故郷を離れた人々で一杯になった。 汽車が出発すると、列車の中はすすり泣きの海に なってしまった。

涙と溜息を一杯に積んだ汽車は、秋風嶺を越えておよそ 50時間を走り、3月 1日朝 には図們に着いた。 そこで少し立ち止まった汽車は、さらに走って、朝 9時頃に大 興溝に到着した。 大興溝で一日休み、 3月 2日早朝にトラックに乗って雪が白く積もった 山里を 100km余りも走り、 それも 50kmにもなる無人の大地を経て 目的地である四道河子集団部落に到着した。 集団部落の周りには高い土壁が 積まれており、外側には一筋の堀が掘ってあり、東西南北4ヶ所に大門を 作り、警察の監視下で自衛団員たちが歩哨に立っていた。

羅子溝に移民した農家は、 1937年秋には 150戸、1938年 3月には 450戸だったが、全体で 6つの集団部落に分かれて暮したと言う。 集団部落と集団部落の間は 3〜5km になったが、後には移民があまりにも多く、漢族部落に分けられるような形で暮すように なった。

蔡ドシクさん一家は、漢族の家の傍の部屋に住んだが、 6平米にしかならない部屋に六人家族 が入った。 狭い部屋に多様な家財道具をおいたので、手足を伸ばす場所もなかった。 まず最初にしなければならなかったのは、春の種蒔き前に家を建てることだった。

3月末から凍った土地を掘って柱を建てた。 ところが 4月初になっても土地が溶けず、 壁を積むことができなかった。 土皮を作っていたのでは種蒔き以前に家を作ることは無理だったので、 大きめの土の塊を取って来ては、積み上げて壁を積んだ。 4〜5日の間に 部落全体に土作りの家々が立てられた。 こんな家に家族をおいて、筵で門をつけ て引っ越しをした。

引っ越して来た初日の夜には、六人家族が久し振りにゆっくりと休むことができた。 家族は 暖かかったが、粗末な土作りの家なので、全体的に寒く、粗塗りができ なかった壁からは寒風がどんどん入って来た。 あいにくにも その晩に春の雪が降り、風も吹いた。 部屋の中に雪が入って来て、覆った布団 がじめじめと濡れた。 それでもこれがマイホームなのだと思うと、寒さは感じなかった。

春の種蒔きが始まった。 満鮮拓殖会社で春蒔き前に家毎に牛を一匹ずつ貸し付けてくれる事 にしたが、牛たちをまだ仕込むことが出来なかった。 何とか調達して来た牛たちの中には、 幼過ぎて、まだ作業には使えない牛もあった。 仕方なく4、5軒づつ集まって 乾田への種蒔きを共同作業する一方、田を耕した。堰を作って水を集め、田 に水を引き込んだ。 蔡ドシクさんの家では土地が充分な広さではあったが、 種蒔きを適時に出来る状態ではなく、家族がくわとシャベルで土地を掘り、五穀と野菜を 植えた。 まさに星を追って出て行き、月を追って戻って来るように、 必死になって仕事に励んだ。 仕事がつらくて水や土が体に合わずに病気にかかる人が多くなった。 農繁期が 終わった 7月には、少なからぬ人々が病気にかかって苦しんだ。その時に死んだ人も 少なくなかった。

夏に麦を少し収穫した。 秋には稲、栗、 とうもろこし、 きび、 豆、 じゃがいもなども 取り入れた。

1941年から生活が多少安定したが、日帝が太平洋戦争を挑発するようになると統 制はさらにひどくなった。 “出荷”制が実施されてからは、日本人たちが白米を全部 持って行くため、節日や宴のような祝いにも白米の見物すらすることができな かった。 以前にはそれでも家畜を売っては子供達の月謝を払い、石鹸、塩などを 買うことができたが、既に餌がなくなり、家畜を飼うこともできなくなった。

1943年夏には害虫が繁殖し、穀食葉がすべてかじられてしまった。山の麓に植えた穀物 は熊やイノシシが侵入し、全て荒らされてしまったせいで、その年の農業はほとんど全滅になってしまった。 そのためその年の “出荷”任務を果すことが出来なかった。 すると日帝は警察を動員して家々を捜索し、食糧を全て略奪して行った。 米のご飯を食べたり、白米を隠しておいたことが見つかれば、警察署に引かれて行って 鞭打たれるのが常だった。 村に金ヨンシクという人がいたが、米のご飯を食べて警察 に見付かり、3ヶ月の間も留置場で生活をした。

“出荷”を捧げればお金をくれることはしたが、そのお金で借金を返した後、布や履物 を買うお金もなかった。 そして “出荷”量によって布地をくれる事になったが それさえ官吏が踏み倒すことが多く、農民たちにはほとんど役に立たなかった。 1944年に入ると、着る服がなく、布団を切り刻んで服を作って着た。 木綿の布地を合わせて夏服を作って着た。 ある家では女達が外出するためのス カートがなく、スカート一つを切り分けてはいた。 その年の冬に権ドチャンと いう 27歳の青年が薄着のまま木を切り出しに行ったまま、凍死したという。

蔡ドシクさんが経験した移民朝鮮族たちの惨めな生活は、その頃は行く先々で起こっていた。
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