xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

59.日帝の皇民化政策(2)

“皇国臣民の宣誓”を諳んじ、天皇に忠誠誓う “創氏変更細則”を強要し、姓と名さえ奪われて


▲ 日帝警察署の調査を受けている朝鮮族の若者達

“皇国臣民の宣誓”

1940年 5月、溥儀は二度目の東京に呼ばれ、日本の天皇に拝謁した後、天皇が与えた天照大神を新京(長春)に 立てた建国神廟に持って来て “建国神”として祀るようにした。そして東北地方を完全に日本の版図に引き入れ、 東北の多くの民族人民を徹底的に日本臣民に転落させようとした。

毎朝の朝礼時間になると教職員と学生たちは運動場に集まり、日本皇宮と満州国帝宮に遥拝して日の丸を掲げ、 “皇国臣民宣誓” あるいは “国民訓”を暗誦して式を行うようにした。 正午には場所と授業時間にかかわらず日本 天皇と満州国皇帝の安寧を祈りながら日帝侵略者の “戦勝” 及び死亡者たちの “冥福”を祈る “正午の黙祷”を するようにした。 学生たちは神社の前を通る時には必ず帽子を脱いでお辞儀をしなければならず、これに違反さえ すれば散々に殴られ、最も品行が悪い学生として記録され、落第あるいは退学までさせた。たまには警察や憲兵に 告発して逮捕し、学生留置場に入れたりした。

“当時、私は吉林で勉強していたが、このような強要に対して怒りで頭が熱くなりました。休みになって延辺に来て見 たら、ここは吉林よりはるかに激しかったです。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、延辺は完全に日帝の皇民化政策の陰で苦しんだと指摘し、当時起っていた 状況を説明してくれた。

校庭では最初の始業ベルが鳴ると、学生たちを運動場に集合させた後 “宮城遥拝”をしなければならなかった。 先生が “天皇陛下に最敬礼”と叫ぶと学生たちは東を向いて “最敬礼”をする。 その次に “皇帝陛下に最敬礼”と 叫ぶと西の方に神経を向けて

1. 私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
2. 私共ハ互イニ心ヲ合ワセテ、天皇陛下二忠義ヲ尽シマス。
3. 私共ハ忍苦鍛練シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。

“皇国臣民の誓詞(成人向け)”は次のとおりだった。

1. 我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国二報ゼン。
2. 我等皇国臣民ハ互イニ信愛協カシ以テ団結ヲ固クセン。
3. 我等皇国臣民ハ忍苦鍛練力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣掲セン。

“皇国臣民の誓詞”が終わると天照大神に向けて黙祷しながら “大 東亜戦争でどうか勝利してください”と祈る。 朝礼が終わると教室に入って 級長が “日満旗に向けて敬礼!”と叫べば学生たちは日満国旗に 15度敬礼をする。 やっと元の場所に座って一日の授業を始めることができた。 昼休みになって お昼を食べる時には、弁当箱を机の上においた後、級長が “箸を取れ”と合図、 箸を指に挟み “箸を取れば天地の恩 恵と親と先祖の恩徳を心に刻みながら食べます”と唱えてからご飯を食べる。 食事が終 わって級長が再び “箸を取れ”と言えば箸を摘んで “ご馳走様”と唱える。

日本語使用と、こうした “誓い”のようなことを都市住民と農村農民たちにも強 要した。 “皇国臣民の誓詞”のようなことは 50歳以下の人なら必ず覚えなければな らなかったが、さもなくば通りに出ることを諦めなければならなかった。 日本警察は道端 に青壮年を立てておいて “お前、皇国臣民の 誓いを読め!”と言い付け、少しでもつっかえたり覚えることがで きない場合 “馬鹿野郎、ウチに帰れ!”と大声を出しながら頬をぶん 殴った後、家へ送り返して覚えさせた。 不服を言えば身分証を奪うが、 これは打たれる事よりもっと恐ろしかった。身分証がなければ外出することができ ないだけでなく、ともすると “共産匪賊”と看做されるからだ。 また奪われた身 分証を奪った巡使を尋ねて散々拝み倒してからやっと取り戻すことができた。そして 学校の入口を通ることも出来なかった一字無識の農民たちも生計のために日本語を 学び、“誓い”を覚えなければならなかった。

朝鮮族農民たちの皇民化を取り締まるために日帝は町に出入りする入口を監視した。 延吉県朝陽村には小針少佐が率いる 261隊があったが、彼らは常 に朝陽村に出入りする表通りの入口を守った。三峰洞の農民たちは朝陽村に 仕事をしに入って行く時は日本兵士たちの銃刀に塞がれた。日本人たちは 銃剣を農民たちの胸に突き付け、お決まりの手法で “皇国臣民の誓詞”を諳んじろ と叫んだ。もちろん、覚えることができなければ老若を問わず頬を殴られ るのはもちろん、町に入って行くことができないようにしたし、家へ戻されて 覚えて来ると町に入れるようにした。

日帝の強要により、大量の朝鮮青年たちは徴兵者、徴用者、保国隊として引き抜かれ、連れて 行かれたが、日本語が分からなければならないため、日本語講習所、朝鮮青年特別訓 練所を建て、日本語を無理やりに学ばせた。

“日帝は東北3省の朝鮮族集住地区で最も知識があって身体の良い人材を選び、(自分が食べ る米を持って行って) 舒蘭県マクソクに立てておいた訓練所に送リ、訓練させて 教官に養成した後、その人々をまた東北各地ノ農村に行かせテ訓練所を立てるようにし たが、農民たちは 1ヶ月の間死ぬほど殴られながら訓練した後、徴兵などに引き抜かれて 行かなければならなかったのです。” 朴昌c先生は自分が見て経験した事実 を打ち明けながら当時の状況を説明してくれた。

太平洋戦争を挑発した後、日帝はこのような愚行をさらに推進した。 間島省だけでも 1944年、日本語講習所が 452、学生 2万 5440名にもなったと言う。 1943年からは朝 鮮人青年たちに対していわゆる皇国臣民としての資質を高めて徴兵制度実施の基礎を 修めるという名目で、日本語学習を主にする訓練を前期と後期に分けてさせた。 前期に は主に学校に通うことができなかったとか小学校だけ通った青年たちを各県の訓練所 へ送り、 3ヶ月の間合宿させて 1年間は私宿させながら内務、訓育、学校教錬など を進めた。後期には舒蘭県国立中央青年特別訓練所に送り、何ヶ月か強制訓練させた。 こんな訓練は完全に軍事ファッショ的で、爆圧的な方法でジ進められた。 訓練が終わればもちろん強制徴兵に 遭わなければならなかった。

姓と名前さえ奪われる

日帝統治下で学校に通った人々は、今も “太鼓ビンタ”と言えば知らない 人はいない。太鼓ビンタと言うのは、一種の独特の体罰だった。 これは学生ひと りが失敗すると、その学生が属するクラス全体に強行する体罰であり、学生たちを二列に 向い合って立てておいて、お互いに頬を打つようにするのだった。 体操の時、たまに遅く出 るとか暗誦しなさいという課題文をまともに覚えることができなかったり、不注意に 朝鮮語を喋ったりすれば、すべてこうした体罰を受けなければならなかったが、学生たちは二 列に立ち向かって相手を容赦なく殴らなければならなかった。緩く殴ろうものなら、 教員は横から容赦なく叱責し、強く殴るようにしたが、一応殴られてみると相手に対しても 勢いよく殴るようになるのに、こうして教員がもういいというまで 殴れば、みんな顔がむくむく腫れるのが常だった。 それだけではなかった。 日本人教員た ちは学生たちに使い走りをさせながらも殴った。 “行って来なさい”と言っては殴り、 行って来れば“行って来たか?”といいながら殴ったと言う。

“いわゆる‘建国精神’という科目を設け、天照大神は国を作った神さまと鼓吹し、 軍人勅語、教育勅語、回覧訓民詔書、国本奠定詔書、時局詔書、建国10年詔書などを覚えながら天皇と日本に 忠誠を誓うように朝鮮人学生たちを脅迫しました。中学校は徹底的に日本語化、皇民化、兵営化、職業化させるのに 努力しました。” 朴昌c教授の指摘だ。

このように朝鮮族に対して天皇と日本に忠誠を尽くすように強要、日本人に徹底的に同化さ せようとした。 1943年太平洋戦争で次々に敗れるようになると、日帝は朝鮮族を 彼らの侵略戦争に駆り立てるために “学徒兵制度”を実施し、在学中の朝鮮族学生た ちを戦争に追い立てた。1944年 8月 23日には “女史挺身隊勤務令”を公布して 12才以上 40才未満の配偶者のいない朝鮮族の女性達を徴用して日本本土とその他戦争へと駆り立てた。

日帝は断髪令を出し、男子学生の場合、頭をくりくりに刈るようにし、女学生は おかっぱの髪をするようにした。 中学生たちは日本軍服飾で国防色統一制服に 戦闘帽を被り、足に脚はんを付け、胸には名札をつけるようにした。 中 学校に日本軍現役将校を、小学校には在郷軍人を配置して軍事訓練をさせた。そして 学生勤労奉仕という名目で輪番にて学生たちを強制労動に追い立て、女学生 と娘たちを誘い “慰安隊”へと転落させた。 教官たちは勝手に学生た ちを殴って罰を与えながら精神訓練と軍事訓練を強化した。 学生たちを全て “協和 青年団”や“在郷軍人”に加入させ、腕には腕章をはめて通わせた。

日帝は朝鮮という存在を完全に潰してしまうために朝鮮人の名前さえ奪う 策謀すら躊躇せず実施した。 1939年 11月 10日、日帝は “制令”として “朝鮮民事令” を改正し、朝鮮人の姓名制を廃止し、て日本式 “氏名制”を使うように規定、 12月 26日には “創氏変更細則”を公布してこれを実施するように強要した。 この法によれば朝鮮人は “金(金海)、 朴(密陽)、 崔(水原)、 李(閑山)” などの伝 統的な姓を捨てて、その代わりに “金海、新井、水原、牧山” のよ うな日本式の氏姓を付け、朝鮮人の名前を捨てて “ケンイチ、イチロー、ハルコ、ア キコ”のような日本式の名前を付けさせた。

凡そ創氏改名をしない人々の子どもに対する学校入学、転校を許容しなかったし、そ んな学生に対しては意図的に殴るようにした。 官庁ではそんな人々に関する文書を処理 しようとしなかったし、汽車駅や郵便局では貨物を扱ってもくれなかった。さらには “不穏 鮮人”と濡れ衣を着せて逮捕したり酷刑を加えるまでした。

もちろんこんな制度は朝鮮族たちの大きな反発を招いたが、その対価は刑罰と 獄中生活だけだった。犬にも劣る身の上を咎めて、ある人々は皮肉たっぷりに “犬の子”と姓を直した人々もいたが、戸籍係から手続拒絶に あったのはもちろん、要求どおりに姓と名を直さなかったと殴られるだけだった。

創氏改名さえ日本の人々のお金儲け穴数になった. 名前を直すほどの知識のない人々は 警察署に手続費 4円を払って名前を直してもらった。生活状況の良い人はお金 を出して簡単に名前を直すことができたが、貧しい人々は出すお金がなく、両手を 熱心にひたすら合わせるだけだった。 その時、20銭もあれば白米一俵を買うことができた し明太、ニシンみたいなものは二束を買うことができた。 だから 4円と言う のは貧しい朝鮮族たちにとっては生計をかける大金に違いなかった。 仕方なく警察署から 尋ねて来る前に先に姓と名を直した親戚を尋ね、彼らが直した 姓名を把握しておき、警察たちがちょっかいを出せば本籍を知らせて “あらかじ め把握しておいた日本姓をつける。警察が “お前の名前は何 だ?”と聞けば、やはり予め準備しておいた名前を言って災難を逃れた。

“政治的権利は言うまでも無く、最小限の生存条件さえ奪うこのような残忍で 悪辣この上ない皇民化策動を、日帝は彼らが敗北する 1945年 8月 15日まで 続けました。日帝のこのような奸悪な手段は、中日、 韓日間が民族の矛盾を激化させなが ら東北の多くの民族人民の日本帝国主義に対する恨みと反抗を招くだけでした。”

朴昌c教授の悲憤の力説だ。
Copyright(C) 朝鮮族ネット