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58.日帝の皇民化政策(1)

日帝、盧溝橋占領、北京包囲、全面的に侵略敢行。東北で政治経済文化のファッショ統治強化


▲ 学生達の神社参拝

盧溝橋事件

1937年 7月 7日、日本軍は軍事演習中だった兵士一人が失踪したということを口実に宛平県城に対する捜索を 無理に要求した。これを発端にして衝突が惹き起こされたが、日本軍は宋哲元の 29軍が抵抗して来ると、盧溝橋を 占領して北京を囲んだ。これはやや小さな偶発的な衝突であり、いくらでも現地交渉で解決することができたはずだ が、日帝は口実を探していたため、無理難題で日中戦争の導火線に火をつけたのだ。

日帝は盧溝橋事件に先立って、 1933年 1月の山海関攻略から始まって華北地区の侵入、熱河作戦による省所在地・承 徳の占領、秦皇島上陸、河北省東部地区への進撃など、軍事作戦を展開しながら中国に対する全面的な侵略を始めた。 蒋介石は日帝が満州を占領した後、侵略の魔の手を国内に伸ばしているにもかかわらず共産党に反対して労農紅軍を “討伐”することに血眼になり、積極的な抗戦対策を立てなかった。 むしろ膨大な軍事力を動員して瑞金にある中央 ソビエトを潰そうと、およそ 5回にわたって大規模な “討伐”作戦を展開した。

盧溝橋事件の後、軍部の圧力によって日本の近衛内閣を閣議で決定、 8月 13日、上海を攻撃するに至った。遂に中日 間の大戦争が勃発したのだ。 盧溝橋で鳴った銃声は、結局およそ 3000日間も中国を血の海とし、世界大戦の渦の中に 駆り立てて行く前奏曲になってしまった。 その後、日帝は広い中国の地で南京大虐殺を含む中国人民に対する無差別虐 殺をあちこちで敢行、 天人共怒する罪悪を犯しながら中国に対する日本の独占支配とアジアの盟主になる野獣の夢を遂 げようと動き出した。

盧溝橋事件が起きるや否や、中国共産党は “平津が危ない! 中華民族が危ない!”と叫び、一斉に<日本帝国主義と闘 って国を救う道だけが中華民族の生存の道だから、 “民族統一戦線の堅固な牙城を築いて、日本人たちの侵略に抵抗し よう”と全国に訴えた。 7月 15日には “国共合作の宣言”を国民党中央に伝えた。 西安事件をきっかけに蘆山で進行 された蒋介石と周恩来の談判は遂に結実し、国民党も正式に “中国共産党の宣言に対する談話”を発表、国共合作を基 礎とする抗日民族統一戦線が正式に形成されることとなった。その後、全民族的な抗戦が新しい局面を迎えることとなる。

全国的な抗日戦争の爆発は東北抗日闘争の戦略的任務に重大な変化をもたらした。日帝は中国内地に対する全面的な侵攻 を発動しながら、既に侵略した東北を彼らの重要な後方基地にしようとした。 かくして管内は抗日戦争の主要戦場に変 わってしまった。 5年もの間、独立的に東北の日本軍を牽制し、管内の主要戦場において合同して抗日軍を支持する作戦 になった。 全国的な抗日闘争の鼓舞の下、東北の多くの民族人民は団結して日帝に抵抗し、各地の抗日連軍も新しい抗 日闘争の高まりを形成して日帝に深刻な打撃を加えた。

“東北抗日連軍は全国的な抗日闘争の高まりに歩調を合わせ、日本軍に対して打撃を加えたが、これは東北での日本帝国 主義の殖民統治に大きな脅威を与えました。 抗日連軍によって日本帝国主義が東北を中国大陸を侵略する兵站基地にしよ うとする夢が破綻しました。” 延辺大学歴史学教授・朴昌c先生はこのように指摘しながら、 1936年 3月に制定した日帝の “1936年 4月から 1939年 3月までの満州国治安粛清計画大綱”を説明してくれた。

この粛清大綱によれば、日帝は東北を占領した後、東北を侵略拡大のための兵站基地にするために初年度(1936年 4月〜 1937年 3月)の “粛清”重点地区は浜江、吉林、間島、三江(合江) などの省とし、二年目(1937年 4月〜1938年 3月)は 初年度の “粛清”成果をさらに強固にして発展させる一方、東北全域に対する “粛清” 工作を拡大、三年目(1938年 4 月〜1939年 3月)には特殊地区に対する “徹底的な粛清”であった。 敵方は “集団部落”を建設して武人区域を作り、 経済封鎖を実施して抗日連軍と群衆たちの連携を断絶させる一方、警察、特務組職を強化して抗日武装を孤立させ、 赤化思想の根を断ち切ってしまおうとした。盧溝橋事件の後、日帝は “粛清計画”における戦略的な変更をしたが、そ の年第2期 “治安粛清工作要綱”に “治安粛清の主要地区を満州国東部地区、特に東辺道及び東部三角地帯〜長白山地区 とする”と明確にした。こんなわけで敵方は抗日連軍第1路軍を主要目標に決めた後、兵力を集中して “3強省(吉林、 通化、間島)討伐”などを敢行し、反日部隊を完全に殲滅してしまおうと試みた。

日帝は抗日連軍と人民大衆との血縁的関係を切断するために、1936年に至って東北地区に既に 1万 3451個の集団部落を 建設し、保甲連座法を実施した。 1938年の統計によると、日帝が東北に警察署 1233ヶ所、 警察駐在所 3651ヶ所、 交番 1630ヶ所も設置、警察は 10万名に達した。 延辺地区には 32の警察署と 153の駐在所、 55の交番、 10の森林 警察署を設置したが、警察総数は 4230人余りに達した。 1940年の統計によると延辺地区に 319個の自衛団があったが、 自衛団には 1万 8131人がいた。 警察と自衛団は “経済犯”、 “刑事犯”、 “思想犯”、 “国事犯” などの罪 目を着せて罪のない人民をでたらめに逮捕し、刑罰を加え、徒刑を言い渡したり虐殺したりした。

日帝の文化ファッショ的統治

日帝は政治経済面のみならず文化面でもファッショ的な奴隷化教育と民族同化政策を敢行した。盧溝橋事件の後、 日帝は各種の手段を利用して “日満一体”、“共存共栄”、“天皇至上”、“王道楽土” など反動思想を鼓吹した。 1938年 1月 1日、偽満州国はいわゆる “新学制”を実施し、日本語を “国語”として民族奴隷化教育を強制するに至る。

朝鮮民族に対する日帝の政治的圧迫も血生臭いことこの上なかった。彼らは朝鮮族に至るところで “皇民化運動 ”を進行させ、どんな場所でも本来の民族文字と言語を使うことを禁止させた。 また強迫的な手段で “創氏改名”を 実施し、朝鮮族が本来の民族の姓名を持つ権利さえ剥奪した。 諸所に “神社”を建て、朝鮮族を日本の “鮮族” として “神社参拝”を強制し、朝鮮民族の文化と伝統を喪失させ、朝鮮民族を彼らが自在に酷使し踏み躪る “亡 国奴隷”にしようとした。

日帝のこのような意図は、教育に顕著に現われた。 日帝は “朝鮮教育令”を頒布し、いわゆる “一視同仁”、“内 鮮一体”、 “内鮮共学”として朝鮮族を欺瞞した。日帝は “噴火同価の見せかけの下に朝鮮語と朝鮮の歴史を抹 殺し、日本語と日本の歴史に対する教育をさらに強化した。 また日本文化と生活様式を朝鮮族の青年たちに強要 することで、朝鮮民族の伝統文化と教育を破壊し、民族意識を抹殺しながら、ひいては朝鮮民族を徹底的に日本人 に同化させようと画策した。日帝は “国民らしい性格の涵養”のために、 高等普通学校と女子高等初等学校では “国民らしい性格を涵養し、国語を上達させるために”という教科書を必須で学ばなければならないと強制すると同 時に、教科書を通じて日本の人物、詩歌、風俗、地方の特性を知らせ、天皇崇拝と軍国主義で一貫した内容を吹 き込んだ。 日帝が作った教科書には次のような内容があった。

我が国はアジア州の東北に位置しており、日本列島と朝鮮半島で成り立つ。 その他に満州国から借りた関東州 と諸国から任された南洋諸島がある... 我が国には景色の良い所が多い。その中でも富士山、金剛山、瀬戸内海 は広く知られている。 9千万の国民が優に万世一系の天皇を奉じ、各々その業に邁進する。 世界に国は多いが、 我が国ほどの所がまたとない。

朝鮮語または “朝鮮語及び漢文”科目の教育方法は、日本語教育に準ずるとか日本語と連繋させ、場合によって は日本語で教えるようにした。 教科書の内容もできるだけ簡単で易しいものを選んで入れ、それすらも日本文化と 植民地政策が満載のものだった。朝鮮の人文、詩歌、文学作品、風俗、地方の特色などの事項はほとんどなかっ た。教科書には大抵、こんな内容の文が載せられた。

一植木

福童は 四月四日朝に 学校の裏の家の 老人に会って挨拶をした。
老人“昨日、お前達は何であんなに早く学校に集まったのか。”
福童“昨日は 神武天皇祭日でした。 私達は早く集まって、先生に付いて 学校の林に行って来ました。”
老人“それでは 植木をしに行って来たのか。.”
福童“はい、学校では 神武天皇祭日を植木日と 定め、毎年その日、 学校林に行って木を植えます。”
老人“それは本当に良い事だ。朝鮮はどこに行っても赤い 山が多いから。”...

歴史と地理教育も朝鮮史と朝鮮地理の科目を各学校から完全に排除し、代わりに初等学校の高学年に日本 史と日本地理を設置して教え、中等学校にて “歴史地理”科目を設置して教えることで、朝鮮の青少年たちの 歴史意識と民族意識を抹殺しようとした。 教科書にはこのような内容が記述されたりもした。

...この頃朝鮮には新羅、 百済、 高句麗の 3国があり、これを 三韓と言った。そのうちでも新羅は我が国と一番 近く、勢力も強かった。皇后は先に新羅を服従させれば熊襲は自然に平定されると思い、武内宿禰とともに計略 を構え、自ら軍士を率いて新羅を討伐した。 時は紀元 860年だった... 皇后は軍船を率いて対馬島に渡り、そこ から新羅に攻めこんだ。 軍船が海に溢れ、その形勢が非常に荘厳だったので新羅王は大いに恐れて言うには 、 “東方に日本という神国があり、天皇という立派な君主がいると聞いた。 今来ているのはまさしく日本の神兵 でしょう。 どうして防御などで来ましょうや、直ちに白旗をあげて降伏し、皇后の前で誓った。 “太陽が西から上 り、川の水が逆に流れる事はあろうとも、毎年の貢物を疎かにする事はありません”と言った。 やがて皇后は 凱旋したが、その後、百済と高句麗の二つの国も我が国に服従するようになった。 そしてこの時から朝鮮は 天皇のお陰に導かれるようになり、熊襲も自ら平定された...

このように歪曲された途方もない “建国説話”をでっち上げ、朝鮮が昔から日本の従属国であったかのように 捏造することで朝鮮青年たちに劣等意識を植え付けようとした。

“その外にも ‘壬辰倭乱’の原因を朝鮮に転嫁して事実を歪曲した上に ‘江華島事件’も朝鮮が挑発し、 甲午戦争さえ清が挑発したものと歪曲することで、朝鮮と中国に対する侵略戦争を正当化するなど、歴史歪曲の 文で教科書を一色にしました。”

朴昌c教授の指摘だった。
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