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57.老金廠戦闘と普天堡戦闘

老金廠で悪質走狗・李道善部隊を壊滅させ、鴨緑江の向こう普天堡で日帝統治機関を破壊


▲ 燃えている普天堡の日帝機関 (資料写真)

1937年 3月 29日から 30日まで東北抗日連軍第1路軍第2軍 4師第1団、第3団、6師第9 団、第10団は、撫松県東崗 楊木頂子密営で合流した後、指導幹部連席会議を召集し た。 会議では 1936年秋から進行された反“討伐”闘争の経験教訓を総括して、1937 年上半期の活動方向と兵力配備問題を討議した。敵味方の態勢を分析した後、部隊を 分けて遊撃活動を進めながら、敵方の分割包囲を突破することに方針を決め、 4師の 主力は延辺地区の安図、和龍に進軍して遊撃活動をしている途中、また長白県に帰っ て来て 6師の主力は撫松から長白県に直ちに出て、長白山での遊撃戦を堅持しながら 敵方の 1937年春期大“討伐”を粉砕する事にした。

李道善部隊を壊滅させる

東崗会議の後、豆満江沿岸を経て朝鮮の茂山地区へ進出する任務を引き受けた 4師 1 団、 3団と師部所属部隊及び 6師 9団の 300人余りの兵力は、 4師政委・周樹東、1 団・崔賢などの引率の下、何日かの間、急行軍して敦化県牡丹嶺に到着した。 4月 初、部隊は安図県黄口嶺の北路で軍需物資を満載した軍用馬車 20台余りを襲って多 くの食糧と反物を略奪、不足した軍服と食糧を解決した。4月 23日、安図県昇平嶺東 南の方で日本軍と衝突し、激戦を開いた後、敵方の追い討ちに対抗して安図県老金廠 付近に至った。

4師 1団団長・崔賢は部隊の行動を保障するために 5人で構成された偵察組を派遣 し、壻のチョン・ヒョンを偵察に行かせたが、偵察組員たちは敵の部隊が過ぎ去った ような多くの足跡が残っていて、その足跡に浸かった水がまだ濁っていたと報告し た。 そこで崔賢は 3連を派遣して老金廠の東北境界に配置し、主力部隊は樹 林から出て谷に沿って行軍するように指示した。

ほどなく大沙河に至った。 大沙河はあまりにも水の勢いが強く、冷たかった。 それに春の水流が本格化し、部隊が渡ろうとすれば橋を掛けなければならなかった。 崔賢は一個連を派遣して川に足を掛けさせ、残りの隊員は川端の洞窟の傍で 休息を取った。 大変くたびれた戦士たちは、腰を据えて座るや否や いびきをかきながら眠ってしまった。

この時、黄口嶺で抗日連軍に軍需物資を盗まれたという知らせ聞いた李道善は、 200人余りの兵力を従えてこそり我軍の後をつけながら機会をうかがっていた。 出発する時、李道善は “今回は共匪たちを全員殲滅する。もし一人でも 逃したら、皇軍の前に二度と現われない”と大口を叩いた。

土匪出身である李道善は、ひと頃、抗日隊の中で活動したが、 “9.18”事変 の後、革命を裏切って日本人の走狗となった。射撃が特別に秀でた名射手 だったこの人物は、走狗の子たちではなければ反逆者か名砲手を集めて部隊を編成した。 彼らは東満一帯で数千名の革命闘士と罪なき民を虐殺した。 その対価として日本人から勲章までもらい、安図県治安隊司令の補佐にまで上がった。 この人物の荷受中隊長、少将はほとんど日本人たちだった。 李道善部隊は、日本軍と合同して抗日連軍“討伐”に出 て、ありとあらゆる悪事を働いた。この者は馬鞍山密営 を囲んで抗日連軍2軍政治部主任・李学忠と負傷兵た ちを殺害、車廠子、黄泥溝、石門子、ホロギェザ、頭道溝、ホンリュン 等を何回も “討伐”しながら罪なき民と抗日闘士たちを無数に殺害した。 李道善部隊が通り過ぎる村では、罪なき民が殺されているため、安 図地方の人々は李道善を “地獄から送られた悪鬼”と呪った。日本人たちの特殊訓練 を受けた彼の軍は、抗日連軍の遊撃戦術についてよく知っていたし、 安図一帯の地形、山勢、人心を把握していた。

不意の襲撃を計画して我軍が休息している近くにまでそっと近付いて来た敵方は、 30〜40mのところで我が軍の番兵によって発見された。番兵は “敵だ!”と大声 で叫びながら引き金を引いた。

敵は我軍に手をまわす隙すら与えないように、一斉に射撃を加えて来た。 銃声に 驚いて飛び起きた戦士たちは、素早く武器を探して来て敵方に向けて応戦した。 政委・周樹東が敵弾を受けて犠牲になった。 事態は非常に危うかった。 この時、抗日連軍の有名 な機関総帥・李ギョンダルがむっくり起きて敵方に向けて連発射撃を浴 びせた。意図せぬ反撃を受けた敵軍は、しばらく頭を地につけて前進を止めた。 そして我軍は難しい展開の中、貴重な時間を得ることができるようになった。 その時を崔賢は回想記 “革命の一本道で”でこのように書いている。

我が隊員たちは時を逃さずすぐ周りの小屋や窪みに散らばって、素早く戦闘態勢を取りながら猛烈な 反撃を加えた。 攻め寄せた敵方は少なからぬ死骸を残していくらか退いたが、これ以上後がないこと が分かると決死に食って掛かった。

敵味方の火力戦はますます激烈になった。 川沿いがたちまち砲煙で覆われてしまった。

我軍部隊は小屋や窪みを利用してずっと射撃し続けた。そして敵の部隊には混乱が生じた。

“2中隊は左側へ。1中隊は右側へ!”

これは不利に散らばっている我が軍の陣地を整備するためだ。

私の口令によって部隊のメンバーたちは敵弾が飛び交う中でも隊列を再整頓することが出来た。 私は ずっと窪みの中にいた。かがんだ姿勢で戦闘を指揮していた。 ところで敵2人が私の前に現われ、私に 狙いを定めた。瞬間、私は腰を曲げたが敵弾は私の肩をかすめた。 私は負傷したが、そのまま戦闘を指揮した。

戦闘開始の後、およそ半時間が過ぎた... 我軍の頑強な防御と射撃にもかかわらず、敵方はしつこく迫って 来た。 あの時まででも敵方は既に数十人も死んでいたが、我軍のすぐ下まで這って近付いて来たのだ。敵 方も、退却をすれば全滅させられるということが判っていたからだ。敵味方間の距離はますます近くなり、今 や 20〜30m、さらには約 10mにまで近付いたところもあった。

ところが敵軍はまだ攻勢に出ており、我が軍は守勢に回っていた。受身の守勢が長くなると必ずや我軍部隊 にとって取り返しのつかない不利な情勢が迫って来ると思った私は、敵軍に反撃する機会を狙った。

しかし既に敵軍も小屋や窪みのすぐそばまで近付いて来ていた。 そして戦闘は事実上膠着してしまった。 敵 軍は小屋に身を隠し、窪みに首を突っ込んで持久戦を企てた。

こうなると敵方も我が軍を攻撃するのに不利だったし、和賀郡にとっても同様だった。

ところが敵方の応援部隊が来る危険性があった。

私はこの時、敵軍に手榴弾を投げるように言い付けた。 我が軍の手榴弾が一斉に目の前に散らばっている 敵方の隠れ家に向けて飛んだ... 続けざまに炸裂する手榴弾の雷鳴とともに数多くの敵軍が悲鳴を上げて 倒れるようになると、残った敵軍はバラバラと退却し始めた。

この時、私は時を逃さずに突撃命令をした。 我が軍の勇士たちは逃げる敵方に向けて、怒れる獅子の如く叫 び声を上げながら突撃して行った...

我軍は肝を潰した敵方を、銃剣で突き銃弾で倒しながら 5kmも追い討ちし、一網打尽にしてしまった。 ところがその時までも戦士たちは “新撰組”と呼ばれる李道善の悪質部隊と戦っていることを知らなかった。 敵方に荷物運び役として強制的に使われていた農民たちの言葉を聞いてから、真相が分かるようになった。

戦場を捜索する時、ある農民が死骸の間に挟まっている、ある軍官を示した。彼はまだ命があったが、わざと 死んだふりをしていた。 農民は、あいつが李道善だと手真似と目配せで戦士たちに知らせてくれた。 誰かが 駆け寄って足で何回か蹴飛ばしたが、彼は死んだように身動きしなかった。 調べてみると、首にはいつもかけ ている金印型がかかっていて、ポケットには印鑑が入っていた。 間違いなく李道善だった。彼は弾に太股を撃 たれ、逃げたくても逃げることができなくなると、死骸の山の中で死んだふりをしていたのだ。 彼を見つけた農民 は、腰に挿していた斧を抜き取った。 “ウッ”という声とともに悪質地主の頭が持ち上がった。荷担ぎ農夫達は、 集まって来て棒と石で彼の体をグチャグチャに砕いてしまった。

その時、県所在地までやっと生きて逃げ帰った者が4名いたが、彼らもどれほどのダメージを受けていたのか 、到着するや否や2人はその場で死んでしまった。一人は入院治療を受けてから死んでしまったと言う。つまり 李道善部隊で生き残った者は、ただ一人だけということになる。老金廠先頭は、李道善部隊を完全に殲滅して しまうことで、軍事的な面でだけでなく政治的な面でも巨大な勝利をおさめた。

火光に包まれた普天堡

天上水と小徳水を経て 5月中旬頃、地陽渓に到着した 6師は、鴨緑江を渡って敵を打ち破るために隊伍 整備とさまざまな煽動活動を開始した。 隊員たちには乗馬服形式の新しい夏軍服を支給した。

新しい軍服で身なりを一新した 6師将兵たちは、 1937年 6月初、 十九道溝を出発して二十道溝、二十一道溝 、二十二道溝を経て、口隅水山が目の前に見えるところに着いた。 目前の平原が燕巣峰白地だったが、鴨緑江を間に 挟んで朝鮮の坤長徳の丘と向き合っていた。 部隊は口隅水の山里にしばらく滞在してから燕巣峰白地に上った。

6月 3日夜明けだった。 朝鮮の峰々が6師戦士たちを迎え入れた。亡国の恨みを抱いて豆満江、 鴨緑江を渡っ て来て、銃を持って抗日連軍に参加した朝鮮族戦士たちは、朝鮮の地を眺めながら、ときめく胸を押えることが できなかった。

その日、部隊は燕巣峰白地に陣を張った。 選抜隊員たちは口隅水村へ行って丸木橋を用意した。 6月 3日夜、 部隊は鴨緑江を渡った。 敵方がすぐ近くで警戒陣を張っているという、厳しく複雑な国境警備線をまんまと渡った のだ。 口隅水村は騒然とした水音で部隊の渡河を隠した。 部隊はすかさず坤長徳に上がった。 坤長徳 は鬱蒼とした樹林で覆われている平坦な野山だった。 ここで部隊は歩哨を立てて一夜を宿営した。

翌日は早朝から坤長徳の森林の中で戦闘準備をした。砲告、ビラ、檄文も準備して指導部会議も召集した 。偵察員たちを農民に仮装させて、市内の動静を綿密に偵察させた。 日が暗くなると坤長徳を下ると、すぐ に普天堡基地が現れた。 部隊が極めて厳密に行動したので、指揮先に決めた近くの農家の前庭で将棋に興じ ていた農民たちも、事情が全く分からなかった。

“ダン!”

定刻 10時、 金日成は戦闘開始を知らせる信号銃を普天堡の夜空に打ち上げた。

信号銃声とともに戦士たちは猛烈な射撃で敵を攻撃した。先にあらゆる暴圧と蛮行の牙城である警察官駐在所 に集中攻撃を加えた。 森林の入り口に敵方がたくさん集まっているという情報に基づき、部隊はそこにも厳しい攻 撃を突き付けた。 あっという間に辺り全体が大騒ぎになった。

やがて、あちこちで炎が上り始めた。 村役場、 郵便局、 森林保護区、 消防会館を含めたいろいろな敵の統治機関 が一気に火炎に包まれた。辺り全体がいろいろな大型照明等を設置した舞台のように明るく明るくなった。 戦闘は あっという間に勝利で終わった。
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