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56.長白山麓での戦闘

勇ましい 6師戦士たち、臨機応変、神出鬼没で黒瞎子溝戦闘、紅頭山戦闘を展開、 “冬期大討伐” を粉砕


▲ 臨江五道溝密林の野営地で 6師の将兵たちとともにいる金日成将軍(中間に座っている) (資料写真)

日帝は臨江、長白県で東北抗日連軍第1路軍第2軍の連続する打撃を受けるようになると、ただちに兵力を 集中して “冬期討伐”を敢行、長白県で活動している第2軍第6師を包囲殲滅しにかかった。 これを看破した 我軍は、大部隊活動と小部隊活動を適切に組み合わせながら、誘引待ち伏せ戦と奇襲戦、 鉄壁の防衛戦そ して敵の退路を遮断して敵の部隊を塞ぎ殲滅する戦法など、積極的で能動的な戦術を活用して敵方に反撃し た。 敵方が “討伐”を強化すればするほど、我軍は密林の中で敵方を攻撃した。その中でも黒瞎子溝は密林の 野営地に対する敵方の不意打ち掃討戦を、機先を制して挫折させた防御戦闘の勝利だった。

黒瞎子溝での激戦

敵方の “冬期討伐”が始まると、6師師長・金日成は、部隊の主力を従えて主に黒瞎子溝密営側で活躍した。 そうしたある日、密林の野営地を探知している農民の身なりをした密偵をつかまえた。 密偵たちは我軍の正確 な位置を知った後、ふもとの “討伐隊”に信号を送る任務を引き受けていた。 密偵の陳述によれば敵方は日満 合同 “討伐隊”を編成していたが、なかでも一部隊は二道溝を出て直ちに黒瞎子溝へ押し寄せていたし、他の 一部隊は十六道溝の西北の方を経って密林の野営地に近付いており、自分たちが約束された信号を送れば攻 撃を開始するようになっているということだった。 この “討伐”のために会寧にある飛行機まで動員する事になっていた。

形勢は切迫していたが、敵方の包囲網はまだ完全に形成されていなかった。 我軍は敵方が捜索を続けながら 密林の野営地でうろうろしているところから、密林の野営地近くの有利な場所で敵を攻撃した後、抜け出してから、 撤収する敵を3ヶ所から夜を利用してもう一度攻めるという作戦を立てた。

黒瞎子溝の南側は深い谷間から成り立っていた。敵の主力が入って来るようになっている谷には、ビンの口のよう に狭くなった妙な形をしている所があった。 この谷の両側の絶壁は、すばしこい山の動物たちですら取り付きにくい 崖だった。 敵方を狭い雨どいの中に追いこんで、締め付けて叩き潰すには最高に有利な地形だった。師長・金日成 は、2連と 4連を東北側の高地に待ち伏せさせ、谷間の深いところに虚偽陣地を作るようにした。 そして何人かの 隊員たちをそこに配置して、まるで主力がその場所にあるかのように灯りをつけて音も出すようにした。 配置が完 了すると、今度は誘引組を派遣して敵陣に入り、夜通し騒ぎ立ててから、日が明ければ大部隊が動いたかのように 痕跡を残しながら撤収するように言い付けた。

日が暮れてから、誘引組は敵陣に入って行った。 誘引組は敵方を我軍の主力が配置されている所へ引っぱろうと 、谷間に大部隊の通ったような無秩序な足跡を残しながら虚偽陣地の方へ上がった。しばらくして、その山の崖か らは数多くの焚き火の煙が立ち昇り、賑やかな歌声が聞こえた。

誘引組の後を追って谷間に入った敵方は、焚き火をしながら誘っている虚偽陣地側に神経を集中しながら攻撃の 準備をした。敵の斥候隊は騎馬隊だった。 しばらく一ヶ所に集まってから、谷間の虚偽陣地をよく見て動転した騎 馬斥候隊の中から騎兵 3人が谷間の下の方へ走って行った。

半時間ほど経って、騎馬斥候隊は歩兵縦隊を蛇のように長々と引き連れて再び谷間に現われた。 彼らこそが朝 鮮駐屯軍咸興 20師団の連中だった。 靖安軍の将校たちは、馬に乗れなかったので、子分たちと一緒に徒歩で来 ていた。斥候隊の後ろには迫撃砲を分解して台車に乗せた隊伍が続いていた。 他の谷間へも敵方が近付いて来 た。包囲網を形成しようとしているのは明らかだった。 我軍は 100人余りだけなのに比べて敵は 500人を超えていた。

“ダン!”

攻撃の信号銃声が鳴ると、囲んでいた我軍は猛烈な射撃を始めた。攻撃開始信号を待っていた敵方はあっという 間に総崩れになってしまった。 敵方の大砲は爆弾を装弾したまま戦場に転がった。ひとしきり打撃を加えた後、 我軍は闇に乗じてこっそりと戦場を抜けた。

我軍の攻撃、 目が回るような追い討ち、 厳しい寒さなどで苦しんだ敵方は、夜が明けるのを待つため茂みの 中に宿営地を用意した。 これを偵察した我軍は、敵の宿営地の夜襲を敢行した。 夜襲には多くの兵力は必要 なかった。 一牌の兵力で編成された襲撃組が闇の中を敵の宿営地にこっそりと近づいて行った。 襲撃組は番兵 を捕らえ、宿営地の内情を把握した。 日本軍が宿営地の真ん中を占め、満州軍がその周りに宿営しており、荷物運 びのために徴用された民衆がもっぱら外側に射撃の標的用として配置されていた。

襲撃隊員たちは敵の見回り兵を装って 3人ずつに分かれ、予め調べておいた暗号で敵方を欺瞞しながら歩哨線を 無事に通過し、宿営地の真ん中まで入って行った。 日本軍たちは天幕の中で濡れた履き物を焚き火にかざしてぐ っすりと眠っていた。 目の前の敵方に向けて襲撃組員たちは猛烈に射撃を始めた。

銃声に驚いて飛び起きた敵方は、履き物も履かずに狼狽していた。敵味方を選り分けることができなかった敵方は 、味方同士ででたらめに銃撃戦もした。 宿営地は蜂の巣を突付いたような騒ぎになった。混乱する隙に乗じて襲撃 組員たちは、まんまとすり抜けて来た。 敵方は彼らどうし夜通し銃撃戦を展開し、無駄な死者を多数出した。一部の 者たちは履き物も服も捨てて辛うじて逃げたが、東北の林海の 11月の厳しい寒さにほとんど凍死してしまった。

紅頭山戦闘と桃泉里戦闘

横山で 1937年の旧暦正月を送った 6師師長・金日成は、一部の将兵たちを従えて紅頭山密林の野営地に帰って 来た。 まだ軍服も脱がないうちに望遠哨の方から急に銃声が聞こえて来た。敵が攻め寄せて来たのだ。

情況は非常に緊迫、形勢は我軍に非常に不利だった。 我軍の兵力は機関銃組と李ドスの4連の隊員何人かだ けだった。 一方、敵の兵力は我軍の何倍にもなった。 さらに望遠哨で敵を見つけた時には、敵方がもう望遠哨高 地にほとんど近付いている時だった。 我軍は完全に敵方の制圧圏内に入ってしまっていた。

金日成の命令に従って戦闘員たちは素早く南がわの稜線を占めた。 金日成は李トス連長に指示して、望遠哨の 隊員たちを撤収させ、敵方に道を開いてやるようにした。そして撤収する望遠哨の隊員たちにとって必ず敵方が目 に見えるように稜線に沿って下るようにした。 望遠哨に通じる稜線は一歩でも踏みはずせば深い谷間に転んで落 ちてしまいかねない狭い道だった。

望遠哨の戦士たちは、果して敵方を稜線に誘引するのに成功した。 敵方は磁石に付く留具のように望遠哨の我軍 戦士たちの後に食いついて稜線を登って来た。紅頭山の南側稜線に待ち伏せていた我軍は、期待通りに険しい稜 線にぶら下がっている敵方を手相を見るように見下ろしながら、軽機関銃を乱射した。 不意の射撃を受けた敵方は 退却はしたものの、稜線から谷間へと閉じ込められてしまった。谷間に閉じこめられた敵方は、今度は南側の稜線 を上がろうとしたが、ここは氷の坂道だったから我軍の陣地へ根本的に近付くことができなかった。 敵方は袋のね ずみ状態になってしまった。 この戦闘で敵方はほとんど殲滅されてしまったが、我軍はただ一人の負傷者を出した だけだった。

紅頭山戦闘の後、 6師の主力は長白県下崗溝の方へ下った。 この時、敵方は今一度大兵力を掻き集めて抗日連 軍を捜して大々的な捜索戦を展開して来た。 我軍の主力部隊が下崗溝方向へ動いたのは、敵方の勢力を分散さ せておいて混乱させた後、敵の “冬期討伐”を決定的に粉砕するためだ。 冬の間ずっと抗日連軍を追い掛け、あ ちらこちらに引っぱれながら無駄足ばかり踏んでいた敵方も、 6師の主力部隊を捜して彷徨い、今、桃泉里付近に 駐屯していた。

ヨバンジャから桃泉里やチェリョンガムゴルに行くには、様々な樹木と背丈を越える葦の草原がゴチャゴチャ集まっ た15kmの一本道を通らなければならなかった。 もしこの道に敵方を引き入れれば、それだけで敵方は外に飛び 出すしかなくなるので、我軍は濃い要所要所に待ち伏せして手軽く敵方を包囲し、殲滅することが出来る。

誘引組は敵方が現われると、その先頭隊に向けて一斉に射撃を加えた後、素早く身を避けて茨の薮の中に 消えてしまった。 そこに伏兵がいることも知らず、敵方は我軍の後を追い掛けてやたらに茨の薮へ突入して 来た。敵方において茨の薮は有刺鉄条網のような障害物に間違いなかった。 茨の薮の洗礼を受け、敵方の 隊列はズタズタに切れた。 隠れていた待ち伏せ組メンバーたちは、バラバラになった敵軍に向けて容赦なく射 撃を浴びせた。 数百人の敵方は我軍の撹乱戦術に引っかかって大混乱に陥った。 日が暗くなると精根が尽き た敵方は、恐怖に苛まれつつ桃泉里村に撤退してしまった。

桃泉里村の抗日連軍地下組職では、“共匪軍”を殲滅しに来た将兵たちを慰めると言いながらニワトリも捕って 米もついて餠を作りながら友情の夕食を提供した。 結局、敗北の恥も打ち捨ててたらふく食べた敵方は、真夜 中になってからこそ村を出て行った。

村の表通りの左右には早くから抗日連軍の戦士たちが待ち伏せていた。そうとも知らずにノロノロと歩いていた 敵方は、急に炸裂する手榴弾とひゅうひゅう飛んで来る銃弾の洗礼をたっぷり受けなければならなかった。 待 ち伏せ前に引っかかった敵方は完全に壊滅されてしまった。 新しい草の生えた平原には敵の死骸が一面に 散らばっていた。我軍は死骸から鉄砲だけ奪い取って悠々と撤収した。

この死骸を積んで運ぼうとして、敵方は 24台の牛車を動員したと言う。その牛車一つに死骸 9体ずつ積んで 十三道溝まで引いていったというから、この日、死んだ敵方は 200人以上いたことになる。

敵方の “冬期討伐”に対抗して、我軍は何百回もの戦闘を展開しながら、遂に“討伐”を粉砕した。 抗日連軍 の連戦連勝により、長白の地は完全に抗日連軍のものになってしまった。
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