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55.長白遊撃根拠地の開拓

長白林海に大量の密林野営地建設、遊撃活動に突入。昼は敵の世の中でも夜は我らの世の中に


▲ 長白密林の中に建設された黒瞎子溝密林の野営地 (資料写真)

林海に立てられた密林の野営地

東北抗日連軍第1路軍第2軍は、敵方の “討伐”に主動的に反撃しながら政治的影響力を拡大、1936年末に 至っては長白一帯の広い地域が共産党と抗日連軍の統制下に置かれた。長白山地区は西間島と朝鮮、北間島を 連結する三角地点に位置する重要な戦略的拠点であるため、この一帯を統制することはこの上なく重要だった。 このような有利な機会を利用して 2軍の主力は長白山地区に大量の密林の野営地を建設し、遊撃活動に突入した。 その時から長白一帯は日帝との交戦回数が最も多く銃砲声が最も高い戦場となった。

密林の野営地建設は大部分小分隊の担当だった。小分隊は、主力部隊が到着する前に先に派遣され、地点を選択した 後、密林の野営地を建設した。こんな密林の野営地は、背の低いオンドル式営房だったが、一般的に木が密集している 高い山の腹部に建設した。 密林の野営地は木製型と石梯型だった。 木製型は丸太で建てる丸太小屋だったが、底をあ る程度掘ったため、外から見ると背が低く見えたが、家の中は高かった。 屋根は木板の上を草で覆って偽装し、周り に木と草を植え、外部の視野を遮断した。 室内は暖炉で暖めたが煙は外に出したパイプに沿って 2〜3里離れた所に行 って放出した。 そのパイプも草木で隠し、すぐには見つけることができないようにした。石梯型は山すそを利用して 建設したが、山腹に沿って何mか掘った後、石を積んで作る。 山窟式の家なので、保温性が強くて良かった。 こんな 密林の野営地はもちろん水源が十分な所に作った。

1936年春、抗日連軍2軍が安図県と撫松県内で活動する時、既にこうした密林の野営地を利用した事があり、迷魂陣密林 の野営地、老禿頂子密営、馬鞍山密営などがそれだった。 今度は長白、撫松一帯に大量に密林の野営地を建設 したが、撫松、 長白、安図、金川、寛甸、柳河、蒙江等に建設した密林の野営地では、黒瞎子溝密営、 紅頭山密林の野営地、楊木頂子密営、ナオルフン密営、ティスイラズ密営、 青峰密林の野営地などだ。 朝鮮側にも密 林の野営地を建設したが、獅子峰密林の野営地、ゴムサン密営、仙五山密営、間白山密営、無頭峰密営、 小脂峰密林の野営地などだ。

2軍で建設した密林の野営地は、建築方式が多様だったし専用性が強く、営房、指揮部、通信処、正訓部、修理所、印刷 工場、学校、幹部訓練所、食糧倉庫など多種多様だった。 密林の野営地ごとに用途と大きさが違った。2軍 6師で長白に 建設した黒瞎子溝密営は、比較的規模が大きい密林の野営地だったが、密林の野営地は長白県所在地から 90km、二道溝 から 40km離れた白頭山東南部 90km地点の深山密林に位置していた。 黒瞎子溝密営は南へ 十九道河が阻んでいて、お互い に紅頭山脈が周りを囲み、天然の遊撃根拠地と呼ぶに相応しかった。6師はここに部隊兵営、連絡処、兵器工場、病院、 水軍学校等を建てた。 ある密林の野営地は長さ 30m、 幅 8m、高さ 2.6mで、比較的規模が大きかったが、一度に 200人余 りを受け入れることもできた。

このような密林の野営地を利用して、抗日連軍は宿営問題を解決しただけでなく、自分たちを援護し、軍需物資を保管して 情報を収集して群衆と連携、神出鬼没の遊撃戦を展開して行った。

昼は敵の世の中でも夜は我らの世の中に

抗日連軍第1路軍第2軍は南満に来た後、遊撃根拠地を開拓すると同時に、有能な幹部と党 員たちを人民軍に派遣して宣伝活動を展開した。彼らは党組織を建立して祖国光復会、青年同盟、 反日会、婦女会、 反日少年団など群衆的な革命団体を結成した。1936年末から 1937年 2月、長白県 二十道溝に祖国光復会長白県工作委員会を建立、傘下に数十の基層組職を立てた。この時期、長白県 十九道溝に権永壁を書記とする中共長白県委員会を設立して、下に 3つの特別支部と 10余りの直属党支 部を置いた。 敵方の統治地区に建立された群衆団体は長白県委の指導の下で群衆を動員して組織し、抗 日活動を活発に展開した。 このような群衆団体はまた、食糧と兵力を補う大きな基盤でもあった。 この時期、 300人余りの青年が抗日連軍第2軍に参加した。

反日団体では党組織の指導の下に青年たちを中心にした “生産遊撃隊”を組織したりした。この遊撃隊は抗 日連軍を支援する半軍事組織だったが、彼らは一方では生産労動に参加して食糧を生産し、抗日連軍を支援、 一方では敵情を偵察したり歩哨に立ち、有事には抗日連軍とともに戦闘に参加したりした。

長白抗日遊撃根拠地は延辺の抗日遊撃根拠地の時とは違った。延辺の遊撃区は解放地区の遊撃区だったが 、遊撃区では敵区の群衆を敵視し、さらには敵の統治地区の人民を “白色群衆”と呼びながら敵視、中間地帯の 群衆たちに対しては “両面派群衆”と呼んで敬遠した。 しかし長白では群衆を “敵”、“白”と引き離す失策を避け 、敵の占領区深くにまで入って行き、群衆工作をして抗日しようとするすべての群衆を団結させ、闘争へ呼び込ん だ。そして集団部落の警備を引き受けた自衛団員の中にも、朝鮮族の人々がいくらでもいた。 敵方の基層政権 機関にも党から派遣した工作人員たちが非常に多かったし、大部分の区長、村長、屯長の地位も朝鮮族の人々 が占めていた。 彼らは、昼には日本軍警たちと満州国官員たちのお使いをするふりをして、夜になれば会議もし 夜学も立てて抗日軍に送る後方物資の収集もし、草取り鎌を手にして忙しく動き回った。つまり昼は敵の世の中 でも、夜は我らの世の中になったというわけである。

“いつしか私たちは八道崗という集団部落に食糧工作を行った事があった。 八道崗の自衛団には私たちが派遣 した工作員がいた。 私たちの小分隊はこの工作員の連絡を受けて革命歌を歌い、威嚇射撃をしながら村を襲っ た。しかし自衛団の武装は解除せずに工作員があらかじめ用意しておいた食糧だけ持って帰って来た。

遊撃隊が撤収した後、工作員は日本人警察を尋ねて遊撃隊が村を襲って食糧を奪った。しかし彼らが砲台だけ は占領することができなかった。 砲台のため自衛団は生きのびることが出来たと言って、日本警察を騙した。”( 金日成回顧録 “世紀と共に”第5冊)

抗日連軍は密林の野営地を拠点として広い深山密林の中で遊撃活動を続けただけでなく、敵占領区の反日団体 と人民群衆から軍需物資と兵力の支援を受けながら部隊を成長させた。

反“討伐”戦闘

長白地区での抗日連軍の猛烈な活躍は日帝を慌てさせた。ここに関東軍は東辺道を含む満州一帯に 恒久的な治安対策を立てるという名目で “満州国治安粛清計画大綱”を作るに至り、満州国政府は “3ヶ年 治安粛清計画要綱”を出した。 最も中心的な特別工作対象に決めたのが、北部東辺道すなわち長白、臨江、 東崗、輝南、金川、柳河、通化、集安などであった。満州国は中央に “東辺道復興委員会”を、通化に “東 辺道復興弁事処”と “東辺道特別治安維持会”を設置する一方、満州国軍部最高顧問である佐々木を筆頭とす る “通化討伐司令部”を設立して北部東辺道の治安確保を狙う “冬期大討伐”を敢行した。

敵方の冬期討伐に備えて、抗日連軍第1路軍第1軍2師と第2軍4師、 6師は、抗日連軍第1路軍副総司令官で 第2軍軍長である王徳泰と政委・魏拯民の指導の下、長白、撫松、蒙江、安図などの県に多くの密林野営地を建 設し、大量の食糧と軍需物資を蓄積、反“討伐”戦に備えた。

一方、鴨緑江、豆満江沿岸の国境一帯には、各種各様の “討伐”部隊が大々的に投入された。 南部朝鮮の警 察部隊も、北部の山岳地帯に移動し、チチハルにあった関東軍部隊も長白山の方へ南下し始めた。 朝鮮駐屯日 本軍第19師団傘下の部隊も鴨緑江を渡った。 日満警察部隊と満州軍“討伐隊”なども抗日連軍に向けて寄り集ま った。 鴨緑江沿岸には警察官駐在所が急激に増えた。 あちこちに取り締まり警戒所ができ、川の上には電話線 が幾列にも渡しかけられた。まもなく、敵方は警察官の妻たちまで射撃訓練をさせた。牛車や馬でやっと出入り出 来た白頭山一帯の奥地の一本道では、大型の車と馬車があわただしく通るようになり、密林の中あちこちに軍馬 が走り回るようになった。 長白山地帯は “討伐隊”で覆われた。敵方は “今度の討伐を最終的なものとして、治安 を決定的に確立する”と言いながら、長白山一帯を捜索した。 しかし抗日連軍の機動力溢れる遊撃戦の前に、敵 方は行く先々で返り討ちに遭わなければならなかった。

10月 10日、2軍 4師と 6師の 400人余りの戦士は、安図県南部のドンチョング付近で、満州軍第7旅 14団を襲撃、 日本軍の大佐と中佐を含む 10人余りを撃殺した。 これに対して敵方は 5000人余りの兵力を掻き集めて 4師と 6 師を包囲、追い討ちして来た。王徳泰、周樹東、金日成などは部隊を導いて撫松、臨江、蒙江等の林海雪原で敵方 を引きずり回した。抗日連軍は密林の野営地を拠点で急に現われたかと思うと、急に消え、こちらから一度攻撃し 、あそこで背後から攻撃、という具合に、敵方の追い討ちを挫折させてしまった。 11月 4日、王徳泰、周樹東、 金日成の指揮する部隊は、デヤンチャ満州軍駐屯地を漏れなく囲んだ後、猛烈な攻撃する一方、政治攻勢を入れ 、10分余りで敵方が両手を挙げて投降するに至った。そして我軍は機関銃 2丁、補聡 150丁、弾丸15箱を含む大量 の軍需物資を獲得し、敵方が長白山地区に入って来る基地に違いない軍事要衝地を壊滅させるうことで、長白山地 で各県の抗日遊撃線路を開通して置いた。

11月下旬、2軍では撫松県小湯河で幹部会議を召集した。 この情報を知った敵方は、 600人余りの兵力を動員して 小湯河に向けて進軍して来た。 小湯河西北側の高地を占領した敵方は、有利な地形を利用して我軍の駐屯地に 向けて突然に襲って来た。王徳泰は 1個牌を派遣して群衆を援護しながら後退させ、軍部 1個連を敵方の背後に 回らせ、前後から敵を包囲することにした。

敵方の攻撃はますます激しくなり、戦闘はますます過熱した。 我軍の犠牲者もますます多くなった。 緊要な時に我 軍の機関総帥が敵弾に当たって倒れた。 それを見て敵方は頭を持ち上げて、ここぞとばかりに飛びかかった。 こ の時、 6師8団政委・金ホンホが銃弾受けて走って行って倒れた戦友の手から機関銃を取り、敵方に向けて猛烈な 射撃を浴びせた。 突撃して来た敵は機関銃射撃にバタバタ倒れた。しかし彼までが敵弾に当たって犠牲になってし まった。 目の前で二人の戦士が倒れるのを見た王徳泰は、むっくり起きて戦友の機関銃を取って敵方に向けて猛 烈に射撃した。 隠密に派遣された軍団は、ついに敵方の後から攻撃して来た。崔賢団長が率いる 4師1団も正 面から反撃を加え始めた。 午後 2時過ぎ、部隊は敵方の包囲を完全にくぐって出ることができた。 ところが戦闘が ほとんど終わる頃、抗日連軍第1路軍副総司令官で第2軍軍長である王徳泰が不幸にも敵弾に当たって倒れた。 その時、王徳泰はわずか 28歳だった。

王徳泰が犠牲になった後、第2軍のすべての指導を魏拯民が引き受けるようになった。 魏拯民は 2軍 4師、 6 師と 1軍の一部の兵力を率いて、また臨江へ移動した。 12月、 2軍の 4師と 6師の 200人余りの兵力は、臨江 の 五道溝で満州軍と激戦を展開し、 20人余りを撃殺、 30人余りを捕虜にした。 1937年陽暦の正月、 500人余 りの日満軍が 6師の紅頭山密林の野営地を襲って来た。 金日成が主力部隊を率いて臨江一帯で活動しており、 密林の野営地には 30人余りの戦士たちが残っているだけだった。 敵方が攻め寄せるという情報に接した戦士た ちは、主動的に密林の野営地を留守にしておいた後、有利な地形を利用して連続して敵方を倒した。あっちこっち で攻撃を受けた敵方は、100体余りの死骸を残したまま命からがら逃げなければならなかった。
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