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54.長白への進撃

撫松県で反日部隊と連合作戦、敵に大打撃。大徳水、小徳水、半截溝で戦闘開き、抗日連軍の威信高める


▲ 撫松県所在地の小南門砲台 (資料写真)

撫松県所在地戦闘

1936年 8月、ジャンジャタンズ密営で第2軍第4、第6師、第1軍第2師の主な幹部たちと長白山地帯で活動している義勇軍幹 部たちの参加した連席会議が開かれた。会議参加者は兵力を集中、連合作戦して撫松の重要な鎮を襲うことに作戦方針 を決めた。 8月中旬、第2軍の 1500人余りの主力部隊と抗日救国軍・李ホンビン部隊、抗日義勇軍・具チァム、マンスン、 マングン部隊の 600人余りはジャンジャタンズ会議の部署に従って撫松県西北部に集結した。 群衆を発動、 団結して抗日 連軍の影響を拡大するため、第2軍軍部はその他の抗日部隊と連合して撫松県所在地を攻略することに決めた。

撫松は通化地区で日満軍の大きな拠点だった。 日帝は撫松を “東辺道治安粛清”の重点拠点にして、実戦能力がある と自負する高橋一個中隊の日本軍精鋭部隊と満州国軍一個営、満州国警察一個大隊、合計 1000人余りの兵力を駐屯させていた。 武器装備が良く、弾丸も十分に備え、堅固な土城と砲台に取り囲まれていて、日帝は撫松を難攻不落の軍事要衝地と自慢していた。 それだけ撫松を軍事的に制圧することは、長白山抗日遊撃根拠地を建立する上でとても意義が大きかった。撫松県所在地攻撃は、 長白山西北部一帯を掌握する上で決定的な局面を開く戦闘になるものだった。

第2軍 6師師長・金日成は、ひととき撫松で過ごした事あるので、町並みを手相を見るように分かっていたので、抗日部隊の 影響の下にある満州国軍の一個中隊が西門歩哨に立っていて、作戦に非常に有利だった。満州国軍・王ブジュン隊長は我軍が市 内を攻撃する事になっている時間に城門を一斉に開くことを約束した。

8月 16日、6師の一つの部隊が突然に撫松県所在地付近のソンス鎮を襲い、敵方の注意力を分散させた。他の一つの部隊は 金日成の指揮により安図、蒙江、臨江方面に通じる道路を統制した。

戦闘開始時間を 17日夜明け 1時に決め、部隊が急ぎ足で行軍し、城門前に到着したが、満州軍反日兵士らが城門を開く という約束を守ることができなかった。 交代時間になって他の兵士らにその場を渡さなければならなかったからだった。 満州軍反日兵士たちは機関銃の機関室に砂を掃いて入れて警戒所へ撤収するしかなかった。そして城門をこっそり開いて 城中に突入し、敵方を一撃に殲滅しようとしていた作戦計画は一応躓いた。だからといって戦闘を停止することはできなかった。

8月 17日夜明け 3時、遂に撫松県所在地を攻撃する我軍の銃声が鳴った。主攻撃任務を引き受けた 6師は金日成の指揮の下に 東山砲台を占領して大南門、小南門方向に攻撃して城内の敵を殲滅する事になっていた。反日部隊は東門と北門方向を担当す る事になった。

攻撃命令を出し、慌しく東山砲台を占領した金日成部隊は、小南門方向に向けて突進して行った。反日部隊兵士らも北門と 東門方向へ進攻した。 小南門前の通りでは白兵戦が起った。 城門に迫る我軍に向けて砲台の機関銃が火を噴いた。 敵方が撃つ機関銃の音が鼓膜を裂いた。しかし我軍は機関銃中隊の援護を受けながら城門を壊して市内へ突入して行った。

ところが 6師の戦士たちが肉弾で突破口を開いたその時刻に北門を攻撃したマンスン部隊が、敵の砲声にびっ くり仰天して退却するという連絡が飛んで来た。 少しの後同窓を担当した李ホンビンの部下たちが反撃して来る敵を 阻むことができずに押されはじめたため、東門を出た敵方が全部小南門方へ押し寄せていた。弱り目に崇り目でチョン ・グァンが率いる小部隊がマンリャンハ襲撃戦闘を放棄して帰って来たという報告まで飛んで来た。マンスン部隊の攻撃 態勢がバラバラになると、その余波が周囲にまで及び、李ホンビン部隊も散り散りになった。戦局をまだ収拾することも できなかったが、既に夜は明け始めていた。 情況は我軍に時々刻々と不利になっていた。 我軍は意外にも敵の兵力が増加 した状況で、敵を外に引っ張り出して闘おうと考えた。 その時を金日成回顧録 “世紀と共に”(第5冊)でこのように描いている。

わが軍には、日が完全に明るくなる前に戦場から撤収するか、でなければ正面突撃の方法で決死戦を展開するかの二つの道 が残されていた。

ところが、我が軍が誘引戦をしなければならないという決心をした後も、人命被害が恐ろしくて退却命令を出すことができ ずに躊躇している時、天が我が軍を助ける奇蹟が生じた。 県城とその周辺に急に濃い霧が立ちこめ、一寸先も見られない 状態になったのだ。

私は各部隊に散らばった兵士らを導いて東山と小馬鹿溝の稜線に撤収することを指示した。

敵方は退却する我軍を狂ったように追って来た。

...7連隊の主力は立ちこめるような霧を利用して東山の南側高地に長い待ち伏せ陣を張った。反日部隊も谷間を間に置い て向かい側の稜線を占めた。その時に、主力の撤収を援護した中隊は敵方を誘引しながら霧の立ち込めた谷間に深く撤収 した。彼らも後には谷間の端にある尾根に上がって待ち伏せた。

残忍さで悪名高き高橋部隊は一旦足を踏み入れれば生きて帰ることができない死の落とし穴の中に全員が入り込んだ。勝 敗は既に決していた。

私たちは山から撃ち下ろし、敵方は谷間から上を向いて撃つ銃撃戦がしばらく天地を揺るがせた。高橋が率いる兵たちは 、マンスンが勇猛の戦犯と呼んだ悪辣な戦術で波動突撃をして来たが、いつも死骸だけ残して退却した。 突撃が効を奏し なくなると、彼らは銃撃を止めて山すそにて増援部隊が来るのを待った。

私は突撃命令を出した。

流暢な喇叭の音とともに待ち伏せ陣から飛び出した我軍の勇士たちは、敵方を次から次へ倒した。白兵戦の先頭には “延吉監獄”と言うニックネームを持った 7連隊の分隊長・金ミョンジュが立っていた。

...金ミョンジュが延吉監獄で脱獄闘争をする時、彼を犠牲を払いながら手伝ってくれた 8連隊の中隊長リョ・ヨンジュ ンもこの戦闘で “七勇士” に負けず劣らずよく闘った...

遊撃隊の “女将軍” 金ファクシルは始終両眼を剥いて機関銃を撃った。

...金ジョンスクが両手に猟銃一本ずつ掴んで機関銃で連発射撃をするように攻撃して、10人余りの敵を倒したという エピソードも撫松県城の戦闘での話だった。

...高橋の“精鋭部隊”は東山の谷間で全滅を免れることができなかった。この悲劇的な事態はその日の午前中 に関東軍司令部に報告された。後日“東亜日報”と“朝鮮日報”を見て知られたところによれば、その時、 新京飛行場では撫松駐屯軍を支援しようと爆弾と銃弾を満載した軍用機が飛び立ち、通化、桓仁、四平等では増援 部隊が緊急に出動した。中韓鎮守部隊も撫松から急派された...

高橋を救援するための敵の兵力は、臨江、長白、蒙江を含めた隣接県からも洪水のように押し寄せていた。しかし、 大変な速度で推進されたこの収拾策も、高橋を落とし穴から引き上げることは出来なかった。8月 17日午後、一部の 増員部隊が撫松に到着した時は、既に勝敗が決まった後だった。

我軍が陣地の捜索を終えて深い樹林の中へ撤収している時には、新京から飛んで来た敵機が空中を飛び交い始めた。 敵機は我軍によって破壊された東山砲台と県所在地の近所の住民家屋に盲目的に爆弾を落とした。

撫松攻撃戦では、我軍は県所在地を占領することはできなかったが、日帝の気炎を余すところなく挫き、抗日連軍の 信望と政治的影響力を大きく誇示した。

長白で繰り広げられた戦闘

撫松県所在地の戦闘を終わらせた抗日連軍第2軍第6師は、高原を越えて長白県へ進出した後、大徳水戦闘、 小徳水戦闘、二道溝戦闘など比較的規模が大きく熾烈な戦闘を展開した。

1936年 9月 1日、金日成の指導の下、二道溝西南の大徳水村に至り、抗日宣伝のための演劇公演を披露し ようと、すぐに舞台架設を終わらせたが、 200人余りの日本軍 “討伐”隊が押し寄せた。 急な事態に直面し た 6師戦士たちは、師長・金日成の指揮の下に群衆の支援を受けながら巧みな待ち伏せ戦を展開した。 部 隊は黄金色に実った麦畑を間に置いて戦った。 敵方が麦畑の向こう側から畔に沿って近付いて来た。 敵方 が麦畑をほとんど抜け出す時を待って、我軍の射撃信号が出た。抗日連軍が待ち伏せしているとは夢にも思 わなかった敵方は、成す術もなく打撃を受けた。大敗した敵方は、二道崗の方へ逃げた。 その日、我軍は 敵 40人余りを殲滅して機関銃 1丁、小銃 40丁余りを略奪した。 戦闘の勝利を慶祝し、大徳水村の群衆はじゃ がいも餅を作ってうどんを振る舞い、戦士たちを慰労した。 戦士たちは簡単な公演と抗日宣伝をお返しした後、 村を撤退した。

大徳水を去った部隊は、小徳水の平原で宿営した後、馬登J樹林の中に移動して休息した。 ある戦士た ちは熟睡していた。そこへ出し抜けに敵方の銃声が鳴った。 十五道溝の方向と二道溝の方向から押し寄せた 敵が、南北両側からほとんど同時に飛びかかって来たのだ。生い茂った森は敵味方を区別しにくくした。 我軍 がまんまと抜け出せば、敵方は味方同士戦う可能性が十分だった。ここに師長・金日成は馬登J樹林から こっそり抜け、十五道溝の平原に撤収するようにと部隊に命令を下した。 さすがに我軍が撤収するやいなや、嵐 のような銃声が体が縮むように鳴った。 我軍は平原で味方どうし争う体たらくを思う存分見物することができた。 敵方はおよそ3〜4時間を争ったが、二道崗側が耐えられなかったらしく、先に退却喇叭を吹いた。 その喇叭 の音を聞いてから、ようやく味方同士戦っていることが分かり、射撃を中止した。その日の戦闘で、日本軍守備隊 70人余りを含む敵 150人余りが死んだ。 その日、敵方は担架が足らず、新昌洞の家ごとに扉という扉をす べて取り壊して来て、彼らの死骸を乗せて命からがら闘争した。

大徳水、小徳水戦闘の勝利は、広範な人民大衆を大きく鼓舞したが、若者達は勇躍、抗日部隊を訪ねて来て参 軍を志願した。

9月 12日、6師は、再び主動的に出撃して半截溝に対する夜襲戦を展開した。半截溝は長白県では比 較的大きい里で、敵方の軍事要衝地だった。 敵方は部落に少なからぬ日本警察と満州軍を駐屯させていた。 6 師は 3時間位の熾烈な戦闘を展開し、半截溝を占領、警察署を破壊して満州軍の拠点を根絶した。 10月 19日から 24日まで、 6師は連続して二道溝、二十道溝で多くの日満軍勢力を殲滅した。

河里会議の後、長白県一帯に進撃した抗日連軍第1軍第6師は、日満軍を厳しく攻撃し、抗日連軍の信望を高め、 南満人民の反日精神を大きく鼓舞激励した。また抗日連軍部隊が長白県に抗日遊撃根拠地を建立する上でしっか りした基礎を作った。
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