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52.南北満への移動

第2軍、南北満で日満軍を手厳しく攻撃、東崗で在満朝鮮人光復会、組織問題を討議


▲ 抗日連軍第2軍 6師朝鮮族戦士たち(資料写真)

大蒲柴河戦闘

東北抗日連軍第2軍各師は第2軍、第5軍党委特別会議で決めた “南満の 1軍と吉東の 5軍と共同作戦しながら、 広大な遊撃区を開拓する”と言う戦略方針に従って部隊を分けて活動を開始した。第1軍とともに長白山抗日遊撃根 拠地を開拓するために第1、第3師は、軍長・王徳泰、政委・魏拯民が率いて、敦化、樺甸、撫松、蒙江、臨江、長白等 へ進軍した。第5軍と合同作戦しながら綏寧抗日遊撃根拠地を拡大するために第2師・陳翰章、王潤成の引率で寧安、穆陵、 東寧一帯に進撃した。

第2軍軍長・王徳泰と政委・魏拯民が導く第1師主力部隊は、西へ進みながら戦闘の機会を狙っている途中、4月初、敦化、 樺甸に入り、大蒲柴河戦闘を繰り広げた。この戦闘は第2軍が創立された後、その主力部隊が南満に向かう途中、延辺で 繰り広げた最大の戦闘だった。

大蒲柴河は長広才嶺山脈であるブオルリョング東北、 寒葱嶺と牡丹嶺の西南に位置しているが、 長広材嶺を境界として吉林地区の樺甸県と接していて、東南では安図県と通化支隊の撫松県と隣合っている。 1930年代半ばまでにしても大蒲柴河には人家が何戸にもならなかった。1936年、日帝は “集団部落”政策を実施し ながら近所の石人溝、キョング、リュスハジャ等の散在農家を集中させて村を作った後、満州警察署まで設置して警備を 強化した。 大蒲柴河は日本軍が敦化南部地帯を統制する重要な拠点だった。 ここで充分に安図、敦化、樺甸 3県の境界地 帯を統制することができ、抗日連軍第2軍が新しい遊撃区を開拓する上で非常に大きな障害になった。

大蒲柴河は敦化県所在地から 60km離れているから、一度事が起これば増援部隊がすぐかけつけることができた。 こんな重要な軍事的位置を持っている大蒲柴河を進攻するために、軍長・王徳泰、政委・魏拯民は第1師師長・安鳳学 らと綿密な戦闘方策を立てた。

1936年 4月 6日、第2軍の小分隊は、大蒲柴河を包囲、攻撃するかのように構えて、主力部隊はバムドと敦化と大蒲柴河の 中間にある寒葱嶺に強行軍で行った。翌日未明、寒葱嶺に至った部隊は道の両側の山の樹林の中と草原に待ち伏せた。

4月 7日、敦化に駐屯していた日本軍は、大蒲柴河が抗日軍の攻撃に晒されているという情況を聞いた後、直ちに 500人 余りの日本軍と 250人余りの満州警察を出動させて急いで大蒲柴河に向けて進撃して来た。翌日午前 9時、敵方の先見部隊 60〜70人が我軍の包囲網の中に先に入った。 先見部隊が過ぎ去った後に続いて、大部隊が谷間に立ち入った。 昼頃、 日満軍の大部隊は第1師の待ち伏せ圏の中に完全につかまってしまった。

“ダン、ダン!”

攻撃命令を知らせる信号銃声とともに道の両側に待ち伏せていた抗日連軍の戦士たちは、日満軍に向けて猛烈 な射撃を加えた。 手榴弾と爆弾が敵方に飛び、轟音を鳴らしながら敵方の頭をこなごなに壊し、肉を切り裂いて空に 飛び散らせた。士気衝天した抗日連軍戦士たちの攻撃の前に、すっかり意気消沈した敵方は、遂にそそくさと退却した。 抗日連軍は何時間もの間、熾烈な戦闘を繰り広げ、大量の敵方を殲滅して多くの中型武器と軍需物資を獲得した。

戦場を収拾した我軍は、大蒲柴河を襲うためにすぐに立ち戻った。10日夜明け、我軍の主力部隊は大蒲柴河東側の入口に ぐっと近付いて、敵の砲台を占領し、他の部隊は西北の方にある敵の砲台を叩き壊した。満州国軍大隊長は二つの中隊を 従えてブオルハを遡り、西の方に逃げている途中、そこに待ち伏せていた我軍の突然の襲撃を受けた。 大隊長が子分何 人かを連れて逃げた以外に、二つの中隊が全部我軍によって捕虜にされてしまった。

大蒲柴河を占領した抗日連軍は、群衆大会を開いて中国共産党の抗日救国政策を宣伝して熱烈な歓迎を受けた。 少なからぬ若者達がすぐに抗日連軍に加入すると申し出た。大蒲柴河戦闘の後、大蒲柴河戦闘の後、1師主力は南下し撫松 、蒙江一帯に進撃、遊撃活動を活発に展開した。

東崗会議

抗日連軍第2軍第3師は、金日成の指揮の下に安図を出発して撫松へ直接進撃し、何回もの戦闘を続けた。3師の主力部隊は 4月、 漫江を襲って駐屯している敵方に壊滅的な打撃を加え、5月初、東崗付近に至って東崗屯満州軍兵営を襲って大きな 打撃を与えると同時に敵の拠点を潰してしまった。

5月初、第2軍軍長・王徳泰は 1師を従えて東崗に到着、金日成の 3師と合流した後、孫家峰密林の野営地で軍、師級幹 部会議を召集、1師と 3師の今後の行動計画を研究した。会議で 3師は撫松、安図、長白、臨江などで活動しながら長白山を 中心とする遊撃区を開拓することに決めた。撫松と安図には抗日義勇軍小分隊と抗日山林隊が数多く活動していた。会議では 統一戦線を強化するため、彼らを誘致して抗日連軍に加入させ、第9団と第10団を新しく編成、第3師に編入させる事にした。 第9団団長に馬徳全、第10団団長に徐魁武を任命した。 会議ではまた汪振亜を第8団政委に、孫長祥を第 3師参謀に任命した。

東崗会議ではまた、抗日遊撃区の群衆工作を強化して広範な抗日群衆を動員し、抗日救国会を組織することを決めた。同時に “日本の亡国奴になることを願わない人々と連合して韓人内部反日連合戦線を建設しよう”と言う共産国際駐在中共代表団の 指示精神に基づき、朝鮮族の群衆により結成された統一戦線組職−“在満朝鮮人祖国光復州会”を組織する問題を討議、 祖国 光復会はすべての反日勢力と連合して日本帝国主義の朝鮮に対する植民地支配からの独立を実現しなければならないと述べた。

南北満での戦闘

東崗会議の後、王徳泰は第3師 8団を率いて撫松県北崗一帯で活動し、金日成は 3師 7団、9団を率いて 撫松県西崗と臨江県辺境で活動した。李学忠は軍部少年営を率いて馬鞍山密営一帯で活動し、第3師 10団は 撫松県所在地の南側にある松江一帯で活動した。

5月 8日、第3師 10団は三道廟嶺で撫松県満州警察大隊の数十人の兵力と衝突し、激戦を展開したが、闘いにおいて 大隊長・王ヤンソンを含めた多くの敵方を撃殺した。 5月中旬、第3師 7団は、タンハグ付近で撫松の満州軍騎兵 3連と遭遇、 激戦を展開し、 20人余りを殲滅して武器と弾薬を獲得した。

東崗会議があってからわずかばかりのある日、第3師師部では、日満軍の一個大隊の兵力が撫松から臨江方向に移動するという 情報に接するようになった。 ここに 7団、 9団の一部の兵力と警衛連、しめて 200人余りが山を駆けて急行し、臨江と撫松の 間にある老寧に潜んで待ち伏せていている途中、敵の先見部隊が包囲圏の中に入ったので、猛烈に射撃、1時間位の激戦を続け て敵 30人余りを殲滅、各種の武器 30丁余りと弾丸 2000発余りを獲得した。

戦闘が終わった後、 7団の一小部隊は農民の服装をした後、当地の群衆の中にまじって西崗屯に潜入、満州軍の兵営を襲って 40人余りの満州軍を殺傷もしくは捕虜にした。本部隊が西崗に進駐した後、群衆の熱烈な歓迎を受けた。 戦闘の後、西崗の 40人余りの若者が抗日連軍に志願して入隊した。

6月 6日にも 3師の 100人余りで組職された一部隊は、金日成の引率下、臨江県西南岔の敵の拠点を計略にて奪取した。 農民 の服装をした戦士たちが疾風のように敵の歩哨兵に近寄った後、猛虎のように飛びかかって鉄砲を奪った後、殺害した。引き 続き部隊が稲妻のように警察分署に攻めこんだ。 戦闘は 10分余りしかかからなかったが、我軍は敵 18人を撃殺して銃 18丁 を略奪し、警察分署を燃やし、砲台を爆破してしまった。

西南岔戦闘の後 3師は金日成の指揮の下に西崗と東崗で続けて戦闘を開始し、敵方を打撃した。7団、8団、警衛連は撫松の 西崗屯に至った後、闇に乗じて西崗に駐屯している満州軍を襲撃、10人余りを撃殺して 10人余りを捕虜にして 100丁余り の武器を略奪した。 他の一部隊は東崗満州兵営を攻撃して中隊長以下 100人余りを捕虜にし、100丁余りの鉄砲を獲得した。

東北抗日連軍第2軍第1、第3師の長白山地区での遊撃戦争と反日統一戦線の絶え間ない拡大は、第2軍の評判を高め、当地の多 くの民族群衆の熱烈な支持と声援を受けた。

一方、新しく編成された第2軍第2師は、寧安、汪清、東寧等で敵方と戦闘を開いた。 2師 4団 4連、7連は、寧安県団山子 で 100人余りの日満軍と交戦、40人余りを殲滅、韋子溝では包囲を突破しながら 40人余りを殲滅した。 1936年 3月 23日、 2師 5団の一部隊は図寧(図們−寧安)鉄道の三次区域から汪清県駱駝山に入って行く日本軍を攻撃した。 5月 18日には 2師 4団と 5軍 1師 3団が寧安県鏡泊湖の南側で連合作戦を展開し、日本軍 10人余りを撃殺した。 5月 27日、 第2師の一部 の部隊と第5師の一部の部隊は、寧安県烟筒溝の満州警察隊を襲って 3人を撃殺、残り 30人余りを全部捕虜にした。 侯国忠が率いる 2師 4団一個部隊と 5軍部長・柴世栄が率いる部隊は、寧安県四道河子で満州山林警察隊を襲撃、 60人余りを捕虜にした。二道河子では一日の間の激戦を展開し、敵方に甚大な打撃を与え、10車両余りの軍需物資を獲得した。

6月初、2軍 2師 4団主力部隊は、寧安県イェホナンゴウで、満州山林警察隊を襲撃、10丁余りの鉄砲を略奪した。 6月 23日、 2軍 2師 5団は、敦化県小荒溝で満州軍と交戦して 10人余りを殲滅した。 7月、 2軍 2師の一部隊は東京 城から南湖頭へ行く道路で日本軍用自動車運輸隊を襲って車に乗っていた敵方を殲滅、車 3台を焼却、大量の武器と 物資を獲得した。この時期、 2軍 2師 6団は 2軍の参謀長・劉漢興などの引率の下、東寧、汪清等で遊撃活動 を続け、常に敵方を攻撃した。

総体的に抗日連軍第2軍 2師は、1936年春と夏の間にチビンと綏寧地区で第5軍と密接に合同し、共同作戦をしなが ら大きく発展した。
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