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51.東北抗日連軍第2軍建立

朝鮮族抗日武装力、朝鮮革命勢力及び中国抗日武装勢力、二重使命確認


▲ 迷魂陣密営での朝鮮人抗日連軍戦士たち

勇猛な西部派遣隊

1935年 9月、日本軍は全面的な秋期“討伐”を開始した。西部派遣隊は額穆に来た後、日満軍と何回も戦闘を展開した。

9月中旬、西部派遣隊は額穆県青溝子、6号屯等で、遊撃戦を展開して敵方を殲滅した。 9月26日、 敦化県官地の南西で日満軍を待ち伏せ襲撃して、満州国軍第11連隊長チン・オクチョンを始めとする 日満軍 10人余りを撃殺し、軍需物品を略奪した。10月には額穆県マンリグ、三道溝で満州軍と二度 交戦して敵方を殺傷もしくは捕虜にした。11月3日、西部派遣隊は額穆県青溝子付近で日本軍 1個小 隊を全て殲滅し、軽機関銃 1丁、銃10丁、ピストル 2丁、弾丸600発を略奪した。 青溝子戦闘で西部派 遣隊は威力を充分に誇示し、敵方にとって大きな脅威を感じさせた。特に戦闘中 “中国人は中国人を撃 たない!”、“私たちは日帝だけ殺す!” などのスローガンを叫び、多くの満州国軍兵士らが人民革命軍と 戦おうと思わなかっただけでなく、さらには人民革命軍を支援してくれる者まで現れた。ある満州国軍将兵た ちは “あなた方の部隊に出会えば、空中に向けて鉄砲を撃つから、その時には我が部隊と思って、見ぬ ふりをしてくれ”とまで言い、わざわざ交戦を避けたりした。

日本軍と満州国軍を区別する重要な目印の一つが鉄甲帽だった。鉄甲帽を被っていれば日本軍で、被って いなければ満州国軍だった。人民革命軍は約束を守るために鉄甲帽を被った日本軍のみを選んで攻撃した。 ところが後には満州国軍まで鉄甲帽を使って戦闘に出るようになった。 それで人民革命軍は、満州国軍に向かっ て人民革命軍と戦わないのであれば鉄甲帽を脱ぐようにと連絡した。 その警告を受けた後から満州国軍は人 面革命軍に近付くと鉄甲帽を脱ぎ、自分達が満州国軍であることを知らせた。 こんな状況を金日成回顧録 “世 紀と共に”(第4冊)でこのように書いている。

パルチザンが鉄甲帽を被った者たちが隊列の前にいれば前を撃ち、後ろにいれば後を撃った。日本軍は “パ ルチザンがいつも我々だけを選んで撃つ”と悲鳴を上げた。我々は満州軍が “討伐”に出る時、暴発などの方法で パルチザンに信号を送ることを要求したが、彼らはこの約束もよく守った。 暴発もできない時には数十人ずつ、 数 百人ずつ一ヶ所に集まり、騒ぎ立てる方法で自分の位置を知らせた。

−満州国軍は手紙一通だけ送っても武器、弾薬、食糧を積んでくれたし、戦闘場で “要銃不要命(銃が欲しいの であり、お前達の命は必要ない)”と叫ぶだけで鉄砲を捧げて投降してくれた。

敵の“討伐隊”たちは、我が軍の人々を次から次へ虐殺したが、我々は敵軍を捕虜にさえすれば満州国軍でも日本 軍でも差別なく人道主義的に待偶し、親切に教育して旅費まで与えて返した。

そうすると、甚だしくは我々の部隊に鉄砲を担いで 7回も捕虜になりに来た満州国軍兵士までいた。我々がその兵 士に、この人また来たねといえば、彼はにこにこ笑いながら革命軍が銃を届けに来ましたと答えるなどした。...

西部派遣隊は 11月 5日、額穆県老頭溝付近で日本軍 11人と自衛団何人かを殺した。また額穆県城に攻めこん で日満軍 20人余りを殲滅し、多くの鉄砲と弾丸を略奪した。

12月6日、西部派遣隊は敦化官地で幹部会議を開き、遊撃活動の範囲をさらに拡大することに決定、李ヒョンバク 、金日成が第5軍第1師第1団第1連と第2軍第3団第4連、第4団第2連の 110人余りで分遣隊を組職、 率いて西南 へ進撃し、黄泥河、蛟河地区で吉敦鉄道を襲い、我軍の政治影響力を拡大、残りの部隊は額穆、敦化地区で遊撃 戦を展開することにした。

この部署によって西部派遣隊分遣隊は 12月 7日、先に官地を攻撃、日本警察の指揮の下にある満州国警察中隊と 1時間余りの激戦を展開し、日本警官 3人を含む 30人余りを撃殺した。 ここに満州国警察が次々に鉄砲をおいて 投降し、我軍は官地を手軽く占領するようになった。 通溝崗子に駐屯していた日本軍は知らせを聞いて直ちに増 員兵 200人余りを官地に派遣した。我軍は敵方が経過しなければならない通溝崗子東北部の道の両側に待ち 伏せている途中、敵方が包囲圏の中に立ち入ると猛烈に射撃、大部分の敵方を殲滅した。 これと同時に敵方の 本営が空いているすきに乗じて、一部の兵力を派遣して突入し、通溝崗子本部を占領した。

官地と通溝崗子を占領した我軍は、3日間残って群衆大会を開き、日帝走狗を粛清、敵方の倉庫を開けて食糧 と物資を群衆たちに分けてやった。

敦化に駐屯していた日本軍隊連隊は官地と通溝崗子が襲撃されたという知らせに接した後、直ちに大量の 日満軍と満州国警察を出兵させて敦化東部と西部の官地、通溝崗子、黒石、額穆に攻め寄せた。 1936年 1月 7 日、我軍は黒石鎮を攻撃、3時間余りの激戦を繰り広げて敵方の防衛戦を徹底的に打ち破り、黒石鎮を完全に攻 略した。1月 8日、黒石鎮から撤退した我軍は、明くる日(1月 9日) 額穆鎮に進攻、2時間位の激戦をして額穆鎮 を掌握した。 戦闘で我軍は日本軍指揮官 1人、警官 2人、憲兵 6人を撃殺して満州国軍 50人余りを殺傷、大量 の弾薬と軍需物資を略奪した。 部隊は群衆大会を開き、略奪した軍需物資の一部を群衆に分けてやった。

1935年 11月から 1936年 1月末まで2ヶ月余りの間に、西部派遣隊は額穆、敦化地区で数回の戦闘を展開し、 敵方の “討伐”活動に衝撃を与えつつ一部分の勢力を壊滅、この地区での日満軍統治に打撃を与えた。 同時 に広範な群衆に抗日救国宣伝、組職活動を広げて 2軍と 5軍の政治的勢力を拡大、群衆の抗日熱を鼓舞した。 幾多の青年が人民革命軍に加入し、部隊の勢力を伸ばした。 2軍 4団 2連の西部遠征を始める時には、朝鮮族 戦士ばかりだったが、この時になると多くの漢族戦士たちが編入され、補充された。

迷魂陣会議

1936年 2月 10日、国際共産党主代 中国共産党代表団は “8.1宣言”の “紅軍と東北人民革命軍及び多く の反日義勇軍は共に全て中国籍に統一された抗日連軍を組織しよう”という精神によって “私は東北全体 の抗日連軍総司令部を建立するための決議草案”を提出し、反日統一戦線の需要に適応して東北全体の抗 日軍隊の名称を東北人民革命軍から統一的な “東北抗日連軍”に改めることを決めた。

モスクワにある中国共産党国際代表団に事業会報に行った東満特委書記・魏拯民は 1936年 2月 5日、黒龍 江省寧安県鏡泊湖北側にある第5軍軍部に到着して共産国際第7回代表大会の精神と、共産国際中共代表 団の指示精神を伝達、周保中などとともに抗日連軍編成をはじめとした一連の問題を討議研究した後、 5軍 軍部を発って東満に来る途中、鏡泊湖の南側の寧安で合同した第2軍と第5軍のリーダーたちに会い、第2軍、 第5軍の主要指導幹部連席会議を開いた。会議で魏拯民は、共産国際第7回代表大会の精神と中共代表団の 満州省委を撤回し、遊撃区によって南満、東満、吉東、松江など 4つの省委を設立することに関する指示精神と 東北抗日闘争に係る一連の精神を伝達した。

会議で魏拯民は中共代表団の “中韓民族は連合して共同抗日することで中韓民族の独立を争取しなければな らない”と言う朝鮮族問題に対する中国共産党の基本主張と、中共東満党組職では “民生団”策略を改変して 亡軍奴を望まない全ての人々を吸引して広範囲な抗日統一戦線を形成しなければならないという “民生団”問 題についての指示精神も伝達した。

会議の後、魏拯民は東北人民革命軍第2軍の王徳泰、李学忠、金日成などとともに部隊を従えて安図遊撃区の 迷魂陣に至った。

迷魂陣に着いた第2軍の主な幹部たちは、魏拯民の指導の下、東満特委と第2軍、軍、師、団級の幹部たち が参加した連席会議を開いた。会議には魏拯民、王徳泰、金日成、李学忠、周樹東、安鳳学、銭永林 などが参加した。魏拯民は共産国際第7回代表大会の精神と中共駐在共産国際代表団の “東満人民革命軍 を中韓抗日連軍に編成する建議”を伝達した後、第2軍編成問題を詳細に討議した。会議参加者たちは人民革 命軍という名称が、広く反日統一戦線を形成する上で適切でないと認め、人民革命軍を抗日軍と改名することを 一致して決議した。 同時に金日成を代表とする朝鮮共産党主義者たちは抗日連軍の中で朝鮮人部隊と中国人 部隊をそれぞれ建立することに同意せず、抗日連軍の名前で武装闘争を共に組織して展開して行かなければな らないと主張した。 “8.1宣言”と “東北抗日連軍建制宣言”を充分に討論した土台の上に会議参加者たちは東北 人民革命軍第2軍を東北抗日連軍第2軍に編成することを決めた。 王徳泰が軍長に任命されて魏拯民、李学忠、 劉漢興が政委、政治部主任、参謀長としてそれぞれ任命された。 下に 3つの師と軍部直属教練団、少年営を置いた。

第1師は元々の第1団に一部の反日山林隊を吸収して編成したが、社長に安鳳学 が任命されて周樹東、呂伯岐、朴徳范らが政委、政治部主任、参謀長に それぞれ任命され、下に 2個団を置いた。第1団団長に崔賢、政委に林水山、第2団団長に畢書文、 政委に呂伯岐(兼務)が任命された。第3師は元々の第2団と第3団 の一部及び銭永林が率いる抗日義勇軍 6個中隊を合せて編成したが、師長に金日成、 政委に゙亜范が任命され、傘下に 2個団を置いた。第7団団長に銭永林、 政委に馬徳全が任命された。 3月 20日、史忠恒が部隊を率いて 抗日連軍第2軍に加入するという声明を発表した。そして第4、第5、 第6団がすぐに編成された。史忠恒が師長に任命されて王潤成、陳翰章が政委、参 謀長にそれぞれ任命された。第4団団長に侯国忠、 政委に王チャギュン、政治部主任に王松栢、第6団は師部直属指揮に置いた。 東北抗日連軍第2軍は総勢 2000人余りだったが、なかでも朝鮮族が半分を占めた。

軍党委員会は軍政委、軍長、軍政支部主任及び三個師の政委、師長など 9人で組職され たが、魏拯民、王徳泰、李学忠、周樹東、安鳳学、王潤成、史忠恒、金日成、゙亜范だ。 魏拯民が書記に当選した。
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