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50.老黒山戦闘

靖安軍、四道河子を血で染める。人民革命軍、計略で靖安軍を壊滅


▲ 老黒山戦闘が繰り広げられた谷

血で染まった四道河子

羅子溝と東寧県付近の老黒山は、地形が複雑で我が軍が活動を活発に展開するのに非常に有利な地区だった。 穀倉地帯である老黒山付近はまた、我軍の食糧基地でもあった。日帝は抗日軍の食糧供給を断絶させ、遊撃活動 を阻止させる目的で、1934年末、靖安軍を老黒山に派遣して駐屯させた。靖安軍は悪玉地主と漢奸走狗の子弟た ちを掻き集めて組織した部隊だったが、日本軍指揮官が直接指揮していた。 靖安軍は武器装備が強みだったので、 自ら皇軍の “鉄兵”と自称した。

靖安軍は民衆に様々な悪事を働く匪賊無頼だった。彼らはややもすれば乱暴をはたらきながら、民衆から牛、豚、 ニワトリを次から次へ略奪、怨嗟の声が高かった。それに加え、悪質に抗日部隊を追い討ち、“討伐”し、反動の 気炎を極めていた。

そでに “靖安軍”という赤い腕章をかけて通いながら偉ぶると言って、民衆は彼らを “紅袖頭”と呼んだ。 どこかに “紅袖頭”が現われれば、そこの民衆たちの頭上には災難が飛び交った。

羅子溝から西の方に 7.5kmほど入って行くと、28戸の農家がびっしりと集まって住む四道河子という村がある。 四道河子にさらに 5km入って行くと、サガンバンという所で、東北人民軍第3団の密林の野営地警戒所だった。 この警戒所から15km入って行けばトロポティンズで、そこに 3団の密営地があった。

四道河子には3間の大きな瓦の家一軒があったが、革命軍は四道河子に来る度にその家で会議をして革命歌曲を学 びながら抗日宣伝をした。周保中、金日成、柴世栄など抗日名将たちがよく訪れたといい、人々は四道河子を “共産党司令部”と呼んだ。

旧暦 12月、日本人の団長が率いる靖安軍が東寧から 五甲(羅子溝 下河)に来て旧暦正月を過ごす時だった。犬の ような本性を直せなかった走狗ソ・イルナムが団長を尋ねて来て “四道河子は共産党の巣だ。 全部共産党だ。 良い人が一人もない”と告口した。 報告に接した団長の顔には酷い冷気が漂った。

1935年旧暦正月15日夜、四道河子の住民たちが深く眠っている時、団長は大砲と重機等で武装した百名余りの兵力 を動員して四道河子を囲んで来た。 日が明ける頃だった。

“ドンドン!”

“トルルック...”

突然と飛んで来て炸裂する砲弾音と体が縮むような機関銃音に村の夜明けの静寂は破られた。 村は突然、阿修羅場 に変わってしまった。 砲煙の中で人々の悲鳴音がこだました。1時間の後、村は灰燼になってしまった。

盛んに砲撃をして機関銃射撃を浴びせた後、彼らは村で突撃し、生き残った人々を次から次へと殺した。 大虐殺は 村の同族から始まった。 呉ウジュン、金グンサムら何軒かの家族たちが一番先に殺害された。烽火士だったチョン・ スサンの母は銃剣に突かれて血が流れ出た。 彼女は既に死んだ二人の孫の手首をしっかり取って抱きしめていた。 彼女の三番目の息子(19歳)は他の2人と一緒に縛られ、村の真ん中にある井戸の周りで惨殺された。頭に弾を何発も 受け、大脳が無残に飛び出していて、見るだけでも身の毛がよだつ程だった。男やもめのウン・リョンカムは水餃子 を茹でている途中、銃創に突かれて釜の中に倒れて死んだ。 残酷なやつらは生き残った村の住民たちを追い立てて 機関銃を撃ち回した。その中には外地から来た人もいた。三道河子の呉ミョンハク老人は、山へ行って獣を取る罠を 仕掛けている途中、彼らに殺害されたし、琿春県の地下工作員である李ヤンシルと彼の娘は、金グンサムの家に来て いて惨殺された。彼らはしめて 57人を惨殺したが、そのうち 16人が銃創に突かれて死んだ。

この惨殺で村の西方に暮していた3軒の人々が何とか死を免れた。銃声に目が覚めて外に出た李ヨンドク老人は不吉な 予感がした。村が突然に砲火に包まれていたのだ。革命軍が村に向けて砲と機関銃を撃つことはできなかった。敵方が 村を攻撃しているのに間違いない。 李老人は近くの薜氏、チョン氏の家に向けて叫んだ。

“やつらです! 早く川の方へ走って!”

李老人の叫び声に目が覚めた3軒の人々は、川の方へ走り、林の中に隠れた。そして3軒の 12家族が何とか死を免れる ことが出来た。

敵方は帰る時、ジュ老人の家の馬2頭を奪って行った。

日が明るくなり、近隣の村々の住民たちが四道河子に駆けて来た。 人々は民家の傍に倒れた死骸の中で何とか生きている 朝鮮族の子供 8人を捜し出した。金リョンウンが 8人の女の子のうちの一人を自分が育てる事にして、残り 7人は抱き上 げて漢族たちに分けてやった。

親戚がいる家では、それでもだいたい組み立てた棺にでも死骸を入れて埋めることができたが、親戚のいない死骸は木陰 に埋めておくしかなかった。

知恵で靖安軍を殲滅

漢族青年チョン・スサンと朝鮮族青年・李氏は、家族たちの死骸を埋めてから天涯孤独になった。悲憤に暮れた彼らは、 その日に 3団密林の野営地を尋ねた。政委・金日成が彼らに会ってくれた。彼らは涙をのんで村の惨殺情況を一つ一つ報告した。

“私たちを革命軍に入れて下さい。私たちは必ず恨みを晴らします。”

金日成は彼らの言葉をよく聞いた後、即時に一班の戦士たちを現地に行かせて実情を調べるようにした。果してすべての 話が事実だった。四道河子惨変の知らせに接した東北人民革命軍第2軍第3団と第4団は、どうしてもこの恨みを返そうと 思った。金日成、侯国春など指揮官たちは、靖安軍を殲滅するために偵察兵を派遣、敵方の動きを時々刻々掌握した。

1935年 6月、羅子溝で端午節日を過ごした人民革命軍部隊は、羅子溝石頭河子を出て老黒山方面に向かって出発、夕暮れ 頃トンナムチャに到着した。ここで里人たちを通じて靖安軍が冬にだけ “討伐”をして夏にはなるべく抗日軍と交戦を避 けながら山林隊や土匪などばかり討つということが分かるようになった。そこで敵方を引っ張り出し、待ち伏せ殲滅する作戦を組んだ。

3、4団主力部隊は、敵方が見ているところからわざわざ日中に部隊を羅子溝へ撤収させてから、その晩に誰も分からないよ うに老黒山から西方に 10km落ちた頭道溝に帰って来た。 部隊は谷間深くの南北両側の山に隠れて待ち伏せた。我軍は高さ約 200〜300mになる左右の山陵線と谷間近くの山すそに沿って塹壕をほって敵を待つ事にした。

その後、一小分隊を出動させて敵方を誘った。小分隊は中国語が上手な隊員たちにより構成された。戦士たちは山林隊を装っ てゆっくりと下った。村に下りた小分隊は、山林隊の仕草をしながら民衆の牛を盗み、家財道具を奪って運び出したり、野菜 畑の作物を抜いてしまったりしながらひとしきり悪事を働くふりをして、部隊に帰って来た。しかしどうしたことか、靖安軍 は我軍の誘引に引っかからなかった。我軍は待ち伏せ地点で一夜を退屈に過さなければならなかった。

翌日にも小分隊は村に降りて山林隊の真似をして、食糧を満載した小車を駆って来て、山林隊だけで通用する用語で騒ぎ立てた。 敵方は遂に餌に食らい付いた。朝 8時頃なって小分隊を山林隊と思った敵方は、小分隊の足跡を聞いて谷間からゾロゾロと付 いて入って来た。 100人余りにもなる敵方は小分隊を逃すまじと追い掛けた。斥候を先に立たせた敵方は、人民革命軍がまんま と待ち伏せていることも知らずに、油の臭いを嗅ぐ猫のように包囲圏の中に入った。敵方の足音さえすぐ耳元で聞こえた。敵方 が過ぎ去る位置は、ある所は身近に 10mになった。そして遂に敵方の全部隊が射撃圏の中に入った。

“ダン!”

射撃を知らせる銃声が谷間の静寂を切り裂いた。我軍の猛烈な射撃が始まった。 これと同時に谷間を駆け回る革命軍戦士たち の気勢が響いた。

“中国人は中国人を撃たない!”

“私たちは武器を要求するが命は要求しない!”

“お前たちは誰のために日本人の走狗になって命をかけようと思うのか!”

指揮部の突撃命令とともに人民革命軍戦士たちは猛虎の如く敵方に向けて突撃した。 嵐のように浴びせられる革命軍の銃弾に敵方はバタバタと倒れた。 戦闘は 30分で我軍の徹底的な勝利に終わった。 戦闘では、人民革命軍は日本指揮官を含めた敵 100人余りを完全に殲滅し、迫撃砲 1門、重機関銃 1門、軽機関銃 1丁、銃 80丁余り、拳銃7丁、迫撃砲弾を含めた各種弾丸と兵站品を略奪した。 “鉄兵”と誇った日帝の靖安軍はこうして壊滅されてしまった。

老黒山戦闘の勝利は、人民革命軍の北満遠征の成功を保障するための準備を進めるものとなった。

北満遠征

老黒山戦闘の後、人民革命軍第3団、第4団は汪清県綏芬大甸子に帰って来て休息整頓しながら寧安に進軍する準備を した。 遊撃区に 3団の第1、第2、第3連、4団の第4連など 3分の 1の兵力だけ残しておいて、残りの部隊は第3団団長・ 方振声、政委・金日成、第4団団長・侯国春らが率いる北満遠征隊を構成、6月末に寧安に向けて出発した。この遠征 の目的は、遊撃区を拡大させて吉東遊撃区と連携し、吉東地区で活動する東北人民革命軍第4軍、第5軍と連携して合同作 戦をすることにあった。

部隊は西北嶺、老爺嶺など高山峻嶺を越える難しい山岳行軍をしなければならなかった。 肉を煎りつけるような炎天の 日差しと猛烈な蚊の攻撃を受けながら、老爺嶺を越すのは、本当に大変なことだった。

部隊は限りない困難を乗り越えながら、 7月に寧安県ロチョングの山東から来た人々が集まって住む山東屯に至った。情 報を探知した日本軍は、東満遠征隊と東北人民革命軍第5軍の合流を阻むため、牡丹江、寧安、東京城等から 800人余りの 兵力を合わせて山東屯に向けて進撃して来た。 敵方の進攻は我軍の手強い反撃を受けた。反日の戦闘のあげく、敵方は結 局退却した。遠征隊は勝利のうちに周保中が率いる第5軍と合流した。

二つの部隊の指揮員たちは、寧安県二道河子で第2軍、第5軍幹部会議を召集した。会議で第2軍 3団 4連、 4団 2連と青年 義勇軍、 第5軍、 1、2、4団で西部派遣隊を編成し、2軍 3団政委・金日成、 5軍の柴世栄、李ヒョンバクらの引率下に 額穆、敦化一帯に出て活動しながら、新しい遊撃区を開拓する事にして、劉漢興、侯国春らが指揮する 2軍 3団 5連、 4団 3連、 5連は寧安に残って 5軍と共に活動して王潤成が導く 2軍 4団 1連、6連、 7連は汪清、琿春に帰 り、残っている部隊とともに遊撃戦を立て通すことを決議した。
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