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49.東満遊撃根拠地の放棄

より大きな損失を避けるため、主動的に遊撃根拠地を放棄、遠征の途につく


▲ 仍頭山抗日根拠地

車廠子根拠地の放棄

1935年 8月 30日、日本関東軍司令部はいわゆる “昭和10年関東軍秋期治安粛清満州国方面協力要綱”を 制定し、抗日武装“討伐”の重点を辺疆、吉林、間島、奉天、安東など 5省に置いた。この “粛清計画”によっ て日帝と満州国は、長春、熱河一帯で大量の軍隊を動かし、東満、綏寧に投入、3ヶ月内に反日武装勢力を 徹底的に殲滅すると豪語した。

1935年 9月中旬、日満軍は秋期“大討伐”を敢行し始めた。 敵方の “討伐”を粉砕するために東北人民革命軍 第2軍第1、第2団は、部隊をいくつかの小分隊に編成した後、安図、敦化、蒙河一帯で機動的な遊撃戦で敵方に対処した。

1935年 10月、 敵方は数百人の日満軍を動員して車廠子遊撃根拠地を包囲攻撃した。討伐軍はオドンヤンチャ、 松江、スチゲ方面から包囲網を狭めながら入って来た。 根拠地の軍民たちは、第2軍軍長・王徳泰の指揮の下に、 直射砲、迫撃砲、軽機、重機など、重武器で武装した優勢な敵方と連続して何日もの間接戦をした。 しかし敵が強 くて我が軍が弱い情況で、根拠地を最後まで防衛するには無理があった。 実力を保存するために、我軍は主力部隊 を来頭山方面へ移動させ、反日自衛隊は根拠地の群衆を連れて西南岔方面へ脱出することとした。

西南岔で2ヶ月以上とどまっていた反日自衛隊と根拠地の群衆は、根拠地人民を解散させて反日自衛隊は遊撃戦 に残れという東満特委と軍部の指示を受けるようになった。根拠地の群衆をおいて言えばこれは青天の霹靂に違いな かった。水と魚のように生死を共にした部隊を去り、根拠地さえ捨てた後、敵区に投降しなければならないと思うと、目 の前が真っ暗になるしかなかった。 大会を開いて根拠地解散の切迫性と正当性を忍耐強く解説し、群衆たちはたやす く事情を悟ることは悟ったものの、いざ解散を執行する実務的段階に入ると、敵区に投降することは出来ないと反発した。

群衆たちは草をかじり動物の皮を剥いで食べても良いからここで生死を共にすると言って叫んだ。敵区へ行くぐらいなら むしろ遊撃区で飢え死にすると言いながら騒ぎ立てた。どうして敵区に投降し、日本人たちの蔑視を受けながら暮せ ようか!出来ない!

一部の群衆たちは敵区に投降しないために参軍を要請した。入隊適齢期に達しない児童たちと小船隊員たちも革命 軍に付いて行くとしつこく頑張った。ある児童団員は、連れて行きたくないというならいっそ鉄砲で撃ってくれと言いなが らつきまとい、怒りをあらわにした。

遊撃区の解散について延辺大学歴史学教授・朴昌c先生はこのように指摘した。

“以前には人民は食糧を軍隊に供給して戦闘を支えるようにしたが、今は軍隊が人民たちの食糧を解決するために敵 方と争って食糧を奪って来て、人民に供給する形になりました。これは革命軍にとっては大きな負担に違いなかっ たのです。”

そして 10ヶ月ほど存続した車廠子抗日遊撃根拠地は、敵との力量の著しい差によって 1935年 11月に解散された 。車廠子にあった第2軍軍部と一部分の部隊そして兵器工場、服工場、病院などの後方機関が全て仍頭山に移った。

仍頭山は村の西方に二つの乳首模様の山があることから生じた名前であり、太古より深山密林の中に位置するこの 部落を中心に松江と天池に至る周囲 100km余りの区間は無人境だった。それで鬱蒼とした樹海の中に隠れているこ の村を「空の下最初の町」だと言った。

仍頭山に進駐した人民革命軍は、露天舞台を仮設して武器奪取闘争、女性解放などの内容を記した作品と日帝の 蛮行を暴露した作品を公演した。 一方、政治工作員たちは住民に日帝を打ち破らなければならないという道理を宣伝 した。中共安図区委行動委員会では群衆大会を開いて、古い区長制を廃止して政権の性格を帯びた農民委員会を樹 立した。

西部遠征

東北人民革命軍第2軍は、1935年後半期から南北満への苦しい遠征を始めた。

1935年 8月、人民革命軍第2軍政治部主任・李学忠は、第2団の 2連と 3連の 150人余りで西部遠征隊を 組織し、車廠子を去って撫松を経て蒙江地区に出た。 西部遠征の目的は、東北人民革命軍第1軍と連繋を 結んだ後、東南満遊撃区を一つに連結して遼寧、吉林二省の境界地帯に遊撃根拠地を建立、連合作戦を 展開することにあった。

8月末、 西部遠征隊は第1軍の江南遊撃区に到着、先に 1軍第8団と合同した。李ドングァンら第1軍官兵たちと 遊撃区の群衆は第2軍西部遠征隊を熱烈に歓迎した。10月 4日、蒙江県ナイグェン付近に第1軍と第2軍の幹部連 席会議を行った。 会議で双方は自軍の活動地区と抗日闘争の情況を紹介しながら闘争経験を披露し交流した。 同時に連合作戦をして安図県の所在地を中心に吉遼辺疆遊撃区を開拓する問題と全ての東北抗日政府及び抗日 連軍総司令部設立の問題について意見を交換し、相応した決議をした。

東北人民革命軍第1軍と第2軍の合同により、東満抗日遊撃区を分割して囲もうとしていた敵方の陰謀は、完全に 失敗してしまった。 二軍の合同はまた東満と南満の二つの遊撃区を一つに繋いでおいて、遊撃戦争の中で密接に連 繋して共同作戦をする上で有利にさせたし、抗日連軍第1路軍の創建のためのしっかりした土台になった。同時に北 満地区の第3、第4、第5、第6軍及びその他の抗日武装部隊と連繋するのに有利な条件を作った。

第2軍は西部遠征隊は成功裏に任務を果した後、蒙江を去って 1935年 11月、仍頭山遊撃根拠地に帰って来た。

仍頭山防衛戦

仍頭山根拠地を目に刺さった刺のように思った日本軍は、1935年冬、安図県から悪名高き李ソンド“討伐隊” と安図県所在地に駐屯している日本軍迫撃砲部隊、満州国警察、満州国軍など 800人余りの兵力を動員して仍頭 山に向けて攻め寄せた。

その時、第2軍の主力は、敵の背後に入って行って遊撃活動を開けている状況であり、仍頭山根拠地には二つ の連兵力と後続機関関係者だけだった。敵との力量差は非常に大きかったが、絶対に退くことはできなかった。 軍長・王徳泰は、果敢に最前線に出て戦闘を指揮しながら頑強に敵と対立して戦った。 敵方は連続して侵攻して 来たが、戦士たちは命がけで陣地を死守しながら、一度もう一度と攻撃を撃退した。初日の戦闘で敵方は 10人の 死骸を残して退いた。

翌日、敵方は再び三面から包囲攻撃して来た。軍長・王徳泰は左右部隊に敵方の攻撃に最後まで堪えるようにと 言い付けた後、一つの部隊を率いて正面から反撃して行った。我軍の手強い反撃に、敵方はどうすることもできず に退いてしまった。

戦闘が熾烈になり、我が軍は兵力不足のため、児童団、女戦士、負傷兵まで戦闘に投入させなければならなかった。 群衆は危険を冒してご飯と水、弾薬を最前線にまで運んで来た。

敵方の兵力を分散させるために王徳泰は小分隊襲撃戦を展開した。小分隊は四面から敵方を攻撃し、動揺させた。 日増しに敵方は士気が落ち、我軍は闘志が漲った。時期が来たとみた王徳泰は、全方位的な攻撃を命令、最前列に 立って戦士たちを導き、敵陣に突撃し、白兵戦を展開した。格闘を続けている時、我軍小分隊は素早く敵方の背後に くっついき、稲妻のように襲撃戦を始めた。そして敵方は前後から包囲された状態になってしまった。仕方なく敵方は 山の麓へ撤退してしまった。仍頭山を一口に飲んでしまおうと気炎を吐いた敵方は敗北の苦みに直面せざるを得な かった。 また一番寒い冬の時期だったため、厳しい寒さまで加わり、それ以上我慢は出来なかった。

この戦闘で我軍は敵 300人余りを殲滅し、大量の武器と弾薬を略奪、勝利のうちに仍頭山遊撃根拠地を防衛した。

王徳泰の主力部隊が寧安に移動した後、敵方はさらに多くの兵力を動員して再び仍頭山を侵攻して来た。 1936年 1月、日満軍 “討伐隊”は狂ったように攻め寄せた。根拠地の軍民たちは敵方の二度の侵攻を死に物狂いで退けた 。 しかし軍事力の明らかな差により、敵方の侵攻をそれ以上は撃退することができなくなった。 それ以上の大きな損 失を阻むため、軍民たちは主動的に根拠地を捨てて撫松房面に移動した。
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