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48.京図線列車襲撃戦

哈爾巴嶺で日本軍の列車転覆、兵站品を略奪、日本軍将校も逮捕


▲ 我軍により転覆させられた京図線日本軍用列車。(資料写真)

東北人民革命軍第2軍創立

東北人民革命軍第2軍独立師は、創立後、多くの挫折にあったが、遊撃根拠地を強固にして拡大しつつ、 いつの間にか成長して1200人余りの兵力を持つようになった。 1935年 5月 30日、中共東満特委と独立師は、 “東北人民革命軍第2軍軍部を正式に創立することについての宣言”を発表、東北人民革命軍第2軍が正式に創 立されたことを世の中に宣布した。

“宣言”は第2軍の性質と任務をこのように指摘した。 東北人民革命軍第2軍は漢族、朝鮮族など多くの民族人民 と愛国志士たちの武装勢力だ。 革命軍は東満で日満軍との長期的な流血闘争の中で、勇猛果敢の評価を得る ようになった。 革命軍の偉大なる任務は、群衆を組織して武装させ、日本の強盗達の一切の勢力を満州から追い 出し、奪われた東北領土を取り戻し、中国の領土を回復した後、東北に人民による清潔な政権を立て、中華民族の 独立解放と自由を取得するのだ。

第2軍の兵力配置について延辺大学・崔洪彬教授はこのように言う。

“当時 2軍の総兵力は 1200人に達したが、なかでも朝鮮族が 3分の 2を占めました。 条件の制限で軍の下に 師を立てず、依然として 4個団と遊撃大隊を増設して活動するように決めました。”

軍長に王徳泰、政委に魏拯民、政治部主任に李学忠、参謀長に劉漢興が任命された。第1団団長に 安テハク、政委に周樹東、第2団団長に張チョノク、政委に゙亜范、第3団団長に方振声、政委に金日成、 第4団団長に侯国春、政委に王潤成、遊撃隊隊長にチョン・ヨンリム、政委に金サンホが任命された。その外、 軍部傘下に直属警衛連と教導隊を置いた。

東北人民革命軍第2軍は、満州省委の “2軍は西と北に主動的に出撃せよ”と言う指示精神と腰営溝会議で構想 した戦略的決策により、部隊を二つに分けて遊撃活動範囲を伸ばし、新しい遊撃区の開拓を試みた。 これによっ て第1団と第2団は敦化、樺甸と寧安、東寧、額穆方面、ひいては遊撃活動範囲を伸ばして新しい遊撃区の開拓を 試みた。 これによって第1団と第2団は敦化、額穆に向けて進行、第3団と第4団は寧安地区を転々としながら東北 人民革命軍第5軍と合同作戦をする事にした。

そんな中、京図線列車襲撃戦を起して国内外を震撼させた第1団の英勇無双の行動は、今日までも美談として伝 えられている。

哈爾巴嶺列車襲撃戦

団長・安鳳学の引率の下、第1団は命令に従って車廠子遊撃根拠地を出て、京図線(新京−図們)の吉林−敦化区 間に沿って、敦化、額穆、蛟河、舒蘭等に進軍しながら、新しい遊撃根拠地を開拓、第3軍と連絡をとらなければなら なかった。

京図線は日帝が東北資源を強奪して行く主な動脈だった。日帝は軍事、経済面でこの鉄道線に非常に大きな意義を 付与していた。 第2軍指揮部では敵の気炎を挫いておいて根拠地軍民たちの必需品を解決するために、第1団に京 図線の列車を襲うことを言い付けた。第1団は行軍の途中、連続して敵方を待ち伏せ襲撃したが、1935年 5月 2日、 哈爾巴嶺での日満軍列車襲撃戦が一番有名な戦闘の一つだ。

5月 1日夕方、第1団5連は、任務を受け付けた後、主動的に抗日義勇軍と連合して、大石頭と哈爾巴嶺鉄道区間の 予定された地点に到着した。 我軍の兵力は 200人だった。 汽車を転覆させる地点は切り立ったような険しい崖の傍 だった。 我軍は安図と大石頭の側にそれぞれ防御班を配置して、機関銃略奪班、襲撃班、破壊班を列車の両側に待 機させた。機関銃略奪班には列車の前後を走る装甲車を奪取する任務が与えられた。

5月 2日夜明け 1時頃だった。 安図側 2.5km地点に配置されていた信号兵から、装甲車が来るとい う信号が来た。金チョルジン連長が率いる 5人の破壊班は、素早くレールに近付いてレバー台、スパナ 、釘抜きなどでレールの枕木から釘を半分ほど抜いて置いた。日帝は汽車と安全通行のために線路検査車 を先に立たせて後には大砲を乗せた装甲車に護送隊員を座らせて後衛を立てた。 すぐに敵の線路監視用装 甲車が現われた。 破壊班のメンバーたちは、また素早く下りて、枕木の半分ほどめり込んでいる釘を全部抜い てしまい、レールを少しずらしておいた。すべてのことは、あっという間に進行した。

緊張した瞬間が一秒ずつ流れた。 すぐに、列車が来るという信 号が伝わって来た。 襲撃班は銃をかかえ、汽車が現われる部分のみを 見詰めながら待った。レールが鳴る音がますます大きくなった瞬間、 機関車のヘッドライトが闇をぱっと照らした。これは朝鮮・羅津から新京 (長春)へ行く 202号 “国際列車”だった。

汽車が待ち伏せ圏内に立ち入ると、襲撃班は一斉に射撃を浴びせた。 射撃音と共に大きな 爆音がして、機関車が脱線した。機関車は車輪を地面につけたまま、15mも 前進した。脱線した車両同士がお互いに騒々しく衝突し、 まるで大きい岩でも転り落ちるように機関車が軌道の外へ転がり落ちた。 瞬間、火筒から噴出すような明りがパッと上がり、また消えた。機関車の後に 続いて走った 7つの車も、続いて倒れた。倒れた車で、人々の破れるような悲鳴音 が断末魔のように聞こえた。護送隊員たちが座った一番後ろの装甲車だけが転覆せずに その場で立ち往生していた。襲撃班と機関銃略奪班は、 倒れた列車に向けて一斉に射撃を浴びせ、手榴弾を投げながら飛虎のように突 進して行った。 しばらく経つと装甲車の中の敵方が我に返って機関銃を撃ち始め た。しかし我軍の手榴弾攻勢と集中射撃で、装甲車中の敵方はすぐに殲滅された。

襲撃班は倒れた列車を捜索し、生き残った敵方を生け捕った。 戦闘は1時間ぶ りに終わった。この襲撃で我軍は敵 30人余りを殲滅し、軍政要員 17人を捕虜にし、 そのうち日本の皇族一人と、日本軍将軍一人がいた。 その他 に大量の軍需物資と満州国貨幣20万円余りを略奪した。


▲ 我軍により哈爾巴嶺で転覆させられた敵の列車。(資料写真)

台西列車襲撃戦

哈爾巴嶺汽車襲撃があった後、第1団は安図県内で遊撃 戦を展開している途中、車廠子遊撃根拠地に帰って来て、しばらく休息整 頓している途中、 8月 19日、京図線亮兵台と南溝間でまた日帝の 軍用貨物車を襲った。

団長・安鳳学は、第2連の隊長たちであるチュ・チュンイルとチョン・ウンス を鉄道線に派遣して、その場所の様子を調べさせた。農民を装った彼らは、鉄道 沿線での何日間かの精査を経て 8月 19日夜明けに新京から朝鮮に出る第291号 軍用貨物車が亮兵台駅を通るという情報を探知した。

8月 18日夕方、第1団の主力と反日義勇軍海龍部隊、しめて 200人余りは 亮兵台西側の台西付近に到着した。台西は今の安図県 亮兵台から西方に約 5km離れたところにある。台西村の西方に は険しい山が西北方へ伸びているが、北の急斜面のふもとから、京図線のレールが東西に伸 び、レールの北へは広い開放地が開けていた。部隊は素早く、指定された場所に 待ち伏せた。 4人で構成された破壊班は、す早くレールに近付くと、 スパナ、レバー台などでレールを連結した釘を半ば抜いて置いた。

8月 19日夜明け、南溝側にいた偵察兵から、線路監視用装甲車が来るという懐中電灯の信 号が来た。 続いて線路監視用装甲車がヘッドライトを明るくつけて駆けて来て、 亮兵台方面へ走り去った。破壊班はレールにまた近付くと、手早い腕前 で半ば抜いておいた釘を全部抜き、一方のレールを中に曲げて他方のレール と行き違うようにしておいて、稲妻の如く走り去った。

破壊班のメンバーたちが暗闇の中に消えてから 1分も経たぬ時だった。 鼓膜を裂くような汽笛音を鳴らしながら、多くの車両をつないだ朝鮮行の第291号貨物車が一目 散に飛び出して来た。

“ガターン!”

天地を震動する騒々しい爆音が山谷間に響いた。汽車はレールの上を 蛇のようにくねりながら進んだ後、左側の広い開 放地へガラガラと落ちていった。10両余りの貨車も後に続いて 深く 3mにもなる溝へ転がり落ちた。 一番後ろの装甲車も避けられずに 転落してしまった。機関車の蒸気釜が爆発し、激しい炎と蒸気を噴き出した。

突撃喇叭音とともに戦士たちは銃を斜めに射し、転覆した汽車に向けて突進して 行った。第5連連長・金チョルジンは、戦士たちを指揮して装甲車に突き出ている 機関銃に向けて集中射撃を浴びせた。 機関銃はたちところに壊れてしまった。 装甲車に座った日本軍は一人も残らず、全員死亡した。

車両の戸を開けて見ると、布地、米、砂糖、タバコなどが満載だった。 戦士たちは朝鮮人機関士と火夫は、敵から被害を受けないようにするために了解を求めて 早繩で縛っておいた後、急いで物資を運び出してすぐに退却して しまった。 この時、雨が土砂降りに降り始めた。

部隊が去ると、日帝が相次いで追撃して来た。 我軍は追って来る敵方を退けた後、三 日の間、強行軍して安全に車廠子に到着した。この汽車襲撃戦で我軍は 1人の 犠牲もなく敵 10人余りを殺害し、400筆余りの布地と多くの軍需物資を略奪した。

この汽車転覆戦闘について、 “延辺抗日史跡地研究”(金哲洙)は、日帝の資料(“8月 19日亮兵台と南溝間での列車襲撃戦”、“現代史資 料”(30)、“朝鮮”(6)、245ページ)をこのように記録している。

8月 19日、吉林発図們行 291号貨物列車(機関車 1、貨物車 21、護衛車1 しめて 23両)は、 同日午後 9時 15分定刻に南溝駅から発車して京図線南溝の下 3000m(新京から390km)地点を通る時、午後 9時 30分頃に共匪約 130人の襲撃 を受け、機関車が脱線して転覆、機関車に連結された貨物車 6両 も脱線して転覆した。敵は車掌の朝鮮人チャン・ジンソクを銃殺して貨物があ る各車にガソリンを撒いて火をつけ、13両ンの貨物が全て焼却され、その損 失は数万円に達した。

その年 9月 23日、第1団は蛟河県内の二道河子と黄松甸の鉄道区 間でもう一度の汽車襲撃戦を起した。 この時に転覆した汽車も新京から朝鮮・清津に行 く国際列車だった。
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