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47.新しい抗日遊撃根拠地

劣悪な環境の中でも軍民渾然一体になり、新しい遊撃根拠地を開拓


▲ 小汪清 馬村の遊撃隊指揮部の丸太小屋(資料写真)

大荒威会議と腰営溝会議

1935年 1月、中共満州省委は魏拯民を東満に派遣した。魏拯民は延吉県三道湾でしばらく調査した後、2月 27日から 3月 3日まで汪清県大荒威で東満党団特委第1次連席会議を召集(いわゆる “大荒威会議”)した。 この会議には魏拯民、王徳泰、金日成、王ジュンサン、鐘子雲、周樹東、張チャンス、李学忠、 ゙亜范、李シリル、林水山、崔ボンムン、カン・チャンヨン、李ドンキュ、金ヒムン、王潤成など 26人が参加した。

会議は魏拯民の司会で進行されたが、主に東満特委臨時工作委員会の事業報告を聞き、去る 1年間の中央と省委 の活動方針政策を執行する情況を調査した後、東満党団と軍隊の活動方向と緊急任務を制定、党団特委指導機構 を改造した。 東満特委臨時工作委員会を解消して、魏拯民、李学忠、李クァンリム、王潤成、 王ジョンリョル、王ジュンサン、馬シングムなどで特委を組織した後、魏拯民が特委書記を担当した。共青団特委書 記は周樹東が引き受けた。

人民革命建設工作を強化することに基づき、1935年 3月 21日、汪清県腰営溝遊撃根拠地で東北人民革命軍第2軍独立 師連席会議(いわゆる “腰営溝会議”)が召集れた。会議は独立師政委・王徳泰と特委書記・魏拯民の司会で進められた。 会議には独立師のリーダーたちと第 1、2、3、4団の政委、共青団満州省委特派員・鐘子雲及び共青団東満特委 の責任者、しめて 11人が参加した。会議では来る 4月に東満抗日連合軍総指揮部を設けることを決議し、“人民革命軍政 治事業条例”、“人民革命軍戦士待遇条例”を採択した。 会議ではまた、第2軍独立師の活動方向を定めたが、元々の抗 日根拠地を固守すると同時に、綏芬大甸子(汪清県羅子溝地帯)と安図県車廠子に抗日遊撃根拠地を開拓して、これを拠点に 群衆基礎がしっかりしていながら敵方の統治が薄弱で交通が不便な敦化、樺甸、東寧、寧安、穆陵方面に遊撃活動を幅広く 展開することを決めた。

会議では独立師指導部と各団幹部たちを調節した。王徳泰が師長で、李学忠が政治部主任に任命された。第1団団長に 李スンギュ、政委に林水山、第2団団長に張ボンウン、第3団団長に方振声、政委に金日成、第4団団長に河ドクユン、 政委に王潤成が任命された。

会議の後、東満特委は綏芬大甸子に移動して独立師本部は車廠子方面に移動した。 汪清と琿春の根拠地の軍民たちは綏芬大 甸子に集結して延吉県と和龍県の遊撃根拠地抗日機関と軍民たちは車廠子に移動した。

大荒威会議と腰営溝会議から始まり、東満特委臨時工作委員会で犯した “左”傾の過ちが徐々に是正され始め、急速に党 の抗日民族統一戦線政策の大切さが強調され、貫徹されるようになった。

車廠子抗日遊撃根拠地

東満特委の派遣を受けた和龍県委書記・金日煥と朴トクサン(金一)は、1933年 11月、車廠子に行って 遊撃区開拓活動を秘密裡に展開した。彼らは車廠子に来た後、党員を発展させ、群衆を組織して反日会、農民協会 など革命団体をまとめ、共産党の影響力を拡大させた。そして山林隊を取り込み、彼らから食糧、軍服、生活必需品など の支援を受けて車廠子遊撃根拠地開拓のための条件を揃えるようになった。このようにして1935年 1月、延吉県、和龍県、 安図県各根拠地の軍民 1000人余りが車廠子に集中され、車廠子抗日遊撃根拠地を正式に建立するようになった。

東北人民革命軍第2軍独立師と第1団、第2団は、東南岔平原の廟嶺北岸の反日山林隊が捨てた兵営に定着し、 八区政府はその西の方に陣取った。王隅溝、八区、瓮声子で党支部は旧政府とともにあった。

根拠地の軍民たちは木を切り出してその場で丸太小屋を建て、政府では肥えた土地を農民たちに分けてやって敵占領区の 人民たちを通じて種子と牡牛を貰って来た。一方、反日自衛隊を組織してオドンアンパ、スチゲ、ソンガンなどの方面に攻 め寄せる敵方を日夜警戒した。

根拠地ではまた、西南岔のコドンハチャリュ リャンアンに兵器工場、被服工場、病院を建設した。兵器工場ではしが ない原始的な道具で、大量の弾丸と爆弾を作って各種の鉄砲を修理製造したが、たまには生命の危険を冒さなければならな かった。 裁縫隊は自体で製作した裁縫台で日夜をわかたず軍服を作り、部隊に送ってくれたし、病院では採集して来た薬草 を煎じて傷病者たちを救済し、さらには手術もした。

車廠子遊撃根拠地が立てられてから間もなく、敵方の “討伐”に直面するようになった。独立師第2団の戦士たちは根拠地 の人民たちの支持の中で道路を破壊し電話線を切って攻め寄せる敵方を根拠地に一歩も立ち入ることができないようにした 。しかし敵方の封鎖によって初春から飢餓に耐えなければならなかった。

その時の情景を “峻厳な試練の中で”(リョ・ヨンジョン延辺人民出版社)でこのように描いている。

−私たちは続いて松の皮を剥いては食べ、ところどころに出来た水溜りへに行き、蛙の卵まで取って来て食べながら働いた 。太陽が上ると、男女老若が山野に散らばって山もやし、挿枝、ワラビ、蔓人参、桔梗、はしばみ、苦菜、ぺんぺん草、山菜 、山ほうれん草、山ゆり、レンギョウなど食べられる草は何でも取って来た。これらの山菜は松の皮より食べやすかった。 しかしこれらの山菜を食べる時、油の一滴も垂らすことができなかった。醤油、みそ、塩さえなくて、真水に混ぜて食べた り、生の山菜をそのまま噛んで食べると、後には身体に草の毒が上がって来て、病気にかかり、およそ100人余りの群衆が死 亡した...

金日成回顧録 “世紀と共に”(第4冊朝鮮労動党出版社)でも、その時の苦しい状況を書いている。

− 王徳泰を含む軍部の多くの指揮メンバーたちのために、作食隊員たちは日々に朝から山に上がって松の 皮を剥いだ。埋もれ火にてお湯を沸かし松皮を入れて 3時間以上沸かした後、どろどろになったものを引き出して、 川の水で濯いだ後、岩の上においてつちでたたいた。それからはまた水で洗った。夕方になるまでこんな工程を何回も繰り 返しながら、米ぬかを入れて粥や餅を作った。 これが車廠子の最高の食べ物だった。

人々は東面でまだ冬眠から覚めない蛇を食ベ始めた。 その次には鼠を食べ始めた...

種蒔きする時に履いて働いた革靴も、作食釜に入って行った。革靴を茹でたスープのような水を一膳ずつ飲んで、兵士ら が四つんばい前進をするように出て行った後、遊撃区の住民たちは春の種蒔きをした。 今日種を蒔いても、一日、二日もし ないうちにその種を掘り出して食べる者もいた。人民革命政府と大衆団体では、種蒔きが終わった畑に歩哨を立て、種子を 掘り出して食べられないようにした。 しかしその歩哨たちさえ飢えに堪えられずに、人々の目を避けて種子を掘り出して 食べた。...

こんな飢餓の中で、車廠子の人々は畑に通いながら、耕した。手で耕しては倒れ、倒れたあとまた起きて、爪が剥がれそ うになるまで耕した。ようやく麦粒が見つかった。中身はなくて真水だけ満ちたような粒をひたすら食べた。立ち上がっ て歩いて通う気力さえなく、畑に倒れたまま、辛うじて麦粒を掴み、一粒づつ口に入れてはくちゃくちゃ噛んだ...

食糧がなくなると、子供達が先に飢餓に打ち勝てずに一人二人と死んで行き始めた。その次は男たちの中から餓死者が続出 した。 自分自身は飢えながらも夫と子供達のために終わりの瞬間まで最善をつくす任務を背負って生まれた女性達には、 それよりもっと大きな不幸が待っていた。彼女らは、飢え死にした夫と子供達を場所に関係なく落ち葉で覆ってやって、 その一つ一つの死体から出て来る肉がすっかり焼けて灰になると、悲しく泣きたくても気力がなく、涙さえ流せない最悪 の苦痛を経験しなければならなかった...

飢餓と恐怖は恐ろしかった。しかし根拠地の人民は飢餓よりももっと恐ろしい恐怖に震えなければならなかった。反“民 生団”闘争だった。飢餓ですら倒れなかった闘士たちも、反“民生団”闘争で倒れた。金イルファン、チュ・ドサン、ソク ・ボンセなど根拠地のリーダーたちはこの闘争で無念の冤罪により殺害された。しかし根拠地の人民は歯を食いしばって 恐ろしい恐怖に打ち勝っただけでなく、秋には麦 50石、じゃがいも 100石、栗 15石を収穫して自分たちの兵隊である人民 革命軍に送った。 それがどうしてただの穀食だと言えようか。 それは人民の血や骨髄であり反日精神であり革命意志だっ た。部隊では人民たちの命に変えて持って来た食糧を受けることができなかった。 そして戦死たちは涙を飲んで食糧をも との通りに人民たちに送ってくれた。 このように人民革命軍と根拠地の人民は渾然一体となって遊撃根拠地を建設し、強固にした。

羅子溝抗日邀撃根拠地

腰営溝会議の決定によって 1935年 3月、中共東満特委機関は、羅子溝の四道河子に移動して行った後、もともとの 革命的群衆を土台として色々な抗日勢力と連合しながら羅子溝抗日邀撃根拠地を開拓、拡大した。

2600戸余りの居住民が暮している羅子溝は、四面が山で取り囲まれていて防衛しやすい立派な戦略基地だった。1930年 9月、 中共延和中心県委では、工作関係者を派遣して羅子溝に党組織を建立、羅子溝委を設立した。区委の指導の下、三道河子、 河東、太平溝、シンチュンジャ、ロムズゴウ等に 7つの基層党支部が建立され、反帝同盟、農民協会、互済会、青年団、婦 女会など革命群衆組職が結成された。1934年、独立師が主動的に出撃し、史忠恒の抗日救国軍など、その他抗日部隊と連携して 羅子溝戦闘を展開してから、羅子溝は中国共産党が指導する抗日遊撃区になった。そして独立師第3団、第4団の将兵たちと革 命群衆たちは、腰営溝、タンスホズ、金倉等から羅子溝に集まって遊撃根拠地を開拓し始めた。

中共東満特委書記・魏拯民は、羅子溝の四道河子に来た後、元々あった党組織を基礎にして中共羅子溝工作委員会を建立、東 満特委の指導の下に置いて、鐘子雲を書記に任命した。1935年春、特委交通処が設立され、羅子溝抗日闘争を指導 するようになった。

その時から東満特委の直接的な指導の下に、羅子溝抗日邀撃根拠地指導機構が正式に建立されるようになった。根拠地内に 党組織を建立し、農民委員会を設立した後、春耕生産を推進すべく、群衆たちを動員した。

独立師第3団、第4団の一部の兵力は、羅子溝を中心に遊撃活動を展開しながら、敵軍に対する瓦解工作も展開した。大きな 戦闘は特になく、小規模の戦闘があっただけだったから、人民革命軍は休廷状態と同じだった。部隊は中共羅子溝工作委員会で 700人余りの群衆を集めて進行した “分量闘争”と “集団部落”建設反対闘争を積極的に支持して、日本軍の “集団部落” 建設計画が 1935年末まで一歩も進捗できないようにすることで、根拠地に対して経済的封鎖をしようとする陰謀を徹底的に粉砕 してしまった。
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