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46.独立師の出撃

東北人民革命軍第2軍独立師建立、主動的に出撃して反“討伐”闘争を展開


▲ 東北抗日連軍第一路軍第2軍第6師の朝鮮将兵達。後列二番目が金日成。(資料写真)

能芝営会議

二度の日本軍“討伐”を勝ち抜いた東満抗日遊撃根拠地は、さらに発展して1934年春、東満遊撃隊は 900人 余りに増加、赤衛隊など群衆性自衛武装も 1000人余りになった。共産党が指導するこのような抗日武装隊は既に 東満地区の抗日武装の根幹として台頭するまでになった。

1934年 3月末、中共東満特委と延吉、和龍、汪清、琿春遊撃隊は、中共中央の “1.26”指示精神と中共満州省委の “東満 4県の遊撃隊を土台として東北人民革命軍第2軍を建立”せよという指示精神により、延吉県三道湾 能芝営抗 日遊撃根拠地で中共東満特委と 4県遊撃対策関係者が参加した会議を開いた。この会議は東満抗日遊撃戦闘の歴史上、 一つの重要な会議だった。

中共東満特委組職部長・李相黙、延吉県遊撃隊大隊長・朱鎮、政委・王徳泰ら 15人が会議に参加した。会議では中共満 州省委の指示にもとづき、東北人民革命軍第2軍独立師を建立することを決議した。 独立師師長に朱鎮、政委に王徳泰が 選抜された。

独立師は 4団で編成、第1団は元延吉県遊撃隊として、下に 4連を置き、第2団は元和龍県遊撃隊として下に 5連を置き、 第4団は元琿春遊撃隊として下に 4連を置く事にした。東北人民革命軍第2軍独立師指揮部は、しばらく三道湾においた。

会議では反日部隊との統一戦線を強化し、抗日遊撃区を拡大して抗日遊撃戦争を発展させるために、吉東反日連合軍と 南満東北人民革命軍第1軍と連携して東満と吉東に分散している反日部隊と連合作戦する方針を定めた。

主動的に敵を打撃

独立師が建立された後、日帝の遊撃根拠地に対する “討伐”はさらにひどくなり、“集団部落”建設をさらに急 き立てた。そのため抗日根拠地での独立活動は日を追って困難になって行った。独立師は “1ヶ所を固守しながら敵 が来るのを松のではなく” “積極的な進攻策略を取れ”と言う中共満州省委の遊撃戦術を採択、激しく山里を射撃しな がら敵方と消耗戦のみを広げた局面を打開して、積極的に敵の占領区に進撃して活動する事とした。

4月 1日、東北人民軍第2軍独立師団の一部は、抗日義勇軍と連合して延吉県八道溝を襲撃、日満軍と 3時間の合戦をした。 4月 7日、独立師の一部は、汪清県百草溝で “集団部落”を護衛する日満軍警察を襲撃、“集団部落”護衛活動を破壊し た。 4月 18日、独立師第1団の30人余りは、汪清県百草溝シンアントンの自衛団を襲撃、銃20丁余を略奪した。4月 22日、 独立師の一部は、延吉県茶条溝を襲った後、明月溝から増員して来る日満軍の一部隊を殲滅した。4月 23日、独立師第 3団は、“集団部落”を護衛している和龍県牛心村を襲った。 5月 2日独立師第3団は、安図県で連続4日間の激戦をして 安図大甸子を占領、日満軍 30人余りを撃殺した。5月 9日、独立師第1団は山林部隊と連合して延吉県三道湾で “集団部 落”を護衛する満州軍を襲撃、 17人を投降させて銃 11丁を略奪した。

7月には、独立師第2団の一部が山林部隊と連合、300人余りの兵力で安図大甸子を昼も夜も 11日間包囲攻撃した。8月上旬 、独立師第2団と抗日義勇軍は、安図県大沙河を進攻、満州軍30人余りを殲滅、70人余りを捕虜にし、100丁余りの鉄砲を 略奪した。8月中旬、独立師第2団は、その他の反日部隊と連合して安図県所在地を占領、満州軍 300人余りを降伏させ、そ の一部を人民革命軍に参加させた。

安図県から独立師は、10の反日武装部隊と連合作戦しながら王徳泰を総指揮とする抗日連合指揮部を建立したが、その兵力 が 1000人余りになった。 連合部隊は連続的な勝利を重ねながら、車廠子、大甸子、太平溝などの抗日遊撃区を開拓するよう になった。

独立師第3団と第4団の主力も汪清県、東寧県、寧河県一帯で遊撃戦争を主動的に進めた、汪清の各根拠地は敵方の長期的な “包囲討伐”によって大きく破壊された。そして第3団は敵方の主力部隊を避けて汪清と寧安国境一帯に移動、新しい遊撃 区を開拓した。1934年 5月 7日、独立師第3団は、救国軍・史忠恒部隊と連合して満州軍部隊に進攻して多くの鉄砲と弾薬を 略奪した。第3団はまた、小汪清馬村などで日満軍と戦闘し、日満軍 25人を殺害した。

独立師第4団は、琿春から汪清、東寧国境でチョン・イヘと活動を続けたが、その一部は史忠恒部隊と連合して東寧県二道河 溝の満州軍に進攻、100人余りを捕虜にして銃 30丁余りを略奪した。 6月 23日には、羅子溝攻撃戦を展開した。

敵方の記載によれば、1934年 4月から 10月の間に東満抗日連合部隊が日満軍を 103回も主動的に襲ったが、参戦延べ人数は3 537人だった。 なかでも 2軍独立師が 53回単独出撃、参戦延べ人数は1350人だったと言う。

第3次反“討伐”闘争

東北人民革命軍第2軍独立師は、東満抗日部隊の中堅勢力に成長した。独立師は抗日民族統一戦線の旗の下にその他の 抗日部隊と連合指揮部を建立して対日作戦協定を締結するなど、反日武装連合戦線を形成して日帝と対立した。 日帝は 反日勢力が成長することを決して容認できなかった。1934年秋、日帝は 3000人余りの兵力を動員して東満遊撃根拠地に対 する第3次 “大討伐”を敢行した。

日帝は中国工農紅軍を “包囲討伐”した蒋介石の経験を利用して重要な部隊を重要な都市と交通要道に配置し、死守するよ うにする一方、精鋭部隊を集結させて “歩歩為営”作戦方針を展開した。 敵方は抗日根拠地を囲んだ後、“追撃しながら討 伐”したり襲撃などの戦術で独立師の主力を殲滅しようと試みた。これと同時に日帝は残酷な集団部落政策を実施して、人民 群衆と抗日部隊との連携を切っておいて、抗日部隊が飢餓と寒さの中で飢え死にして凍死するようにと試みた。

1934年 9月、広瀬師団長を総指揮とする日本軍精鋭部隊と満州軍警備旅など “討伐隊”は、飛行機と大砲を駆使して人民革命 軍第2軍独立師と各遊撃根拠地に向けて進撃して来た。

敵が強く、我軍が弱いという厳しい形勢に直面した独立師は、実力を保存しながら敵を打撃するために、主動的に既に破壊され た遊撃根拠地を捨てて新しく開拓した根拠地へ移動した。第1団は延吉県王隅溝で、八道溝、三道湾などの根拠地に撤退し、 安図県内や南湖頭などへ移動し、第2団は和龍県漁浪村から撤退して安図県車廠子に移った。第3団は汪清県大荒威、大汪清、 小汪清へ退却して、腰営溝へ移動、第4団は琿春県河南、河北、バンガチェから脱出して金倉、ファソポ一帯に移った。

独立師の各団は、敵方と遭遇戦、襲撃戦を展開しながら移動した。10月 8日、独立師 300人余りは、汪清県大荒威で池田の日 本軍 “討伐”隊と衝突した。独立師の猛攻に日本軍は撃退されてしまった。独立師第1団は、延吉県依蘭溝新興洞で日本軍 ・村田部隊を撃退した後、主動的に際林 “討伐隊”を襲って殲滅した。11月、独立師第3団は、汪清県サムチャグと大荒威で 日本・野口部隊と交戦した。 これと同時に第2団の 130人余りの戦士たちは、敵方の背後に回って葦子溝満州警察署を襲った。 12月初、独立師第3団第4連、第4団第5連派遣隊150人余りは、寧安県石頭河子で満州軍と衝突し、激戦を展開し、敵 30人余りを 殲滅した。

1935年 1月、独立師は成功的に大移動した。そして独立師各団は戦闘で主動となって反“討伐”闘争に臨むことができるよう になった。

1934年 4月、独立師第2団は東満特委との統一的行動によって安図県車廠子方面に進軍した。4月から 8月の間に第2 団は独立団とともに大甸子を二度も包囲攻撃し、反日部隊と共同で大沙河部落を襲って安図県所在地を攻撃するなど、 一連の戦闘を進行して車廠子、大甸子、太平溝一帯を統制、有利な自然条件を備えた車廠子に遊撃根拠地を本格的に建設し始めた。

1934年末から 1935年の初めまで、三道湾根拠地から飢餓と厳寒に打ち勝った三道湾、王隅溝、八道溝の遊撃根拠地の 軍民たちが、安図県神仙洞を経て車廠子に入り、和龍県泉水洞とモグリョンにあった漁浪村遊撃根拠地の軍民たちも、 車廠子に入って行った。

1935年 1月、日帝は色々な経路で車廠子に向けて侵攻して来た。我軍は道路を破壊して敵方の通信力を切り、日本軍と 満州軍の連合作戦ができないようにした。そして車廠子遊撃防衛戦で敵 40人余りを撃殺、銃 20丁余りを略奪した一方、 我軍は何人かの死亡者を出しただけだった。 第1団と第2団は車廠子を根拠地として主動的に出撃し、機動的な遊撃戦を 展開し、1935年 1月から 5月の間に 30回余りの戦闘をしたが、敵 600人余りを殺傷し、 360丁余りの鉄砲と各種の軍事物資を略奪した。

1935年 3月 21日、独立師第4団は、琿春の金倉から汪清県内に進軍した途中、戦争が嫌になった一連の満州兵士達が大 荒溝に避難しているという情報を得るようになった。 4団の戦士たちはすぐに大荒溝の満州軍兵営を囲み、政治攻勢を 突き付けた。強烈な政治攻勢により、満州軍連長は 82人兵士を従えて人民革命軍に参加した。チョンドンとキョヤンを 経て新しく 3個連を編成、 琿春団はしめて 7個連に増えた。

1935年 4月末、独立師第1団、第2団は安図県内で満州軍の警備営を待ち伏せ襲撃し、旅長2人を含む 50人余りを殺傷し、 大量の軍需物資を略奪した。

第3次“討伐”闘争で東満各地の根拠地は厳しい破壊にあったが、新しい遊撃区を開拓することで勝利のうちに抗日武装 勢力を保全して敵方の “討伐”を打ち破った。
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