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44.第2次反“討伐”闘争

日帝 “歩歩占領”戦術で全て殺し燃やす。遊撃隊、敵の背後から日本軍・満州軍を 襲撃、軍需倉庫掃討


▲ 遊撃根拠地を討伐する日本軍警たち

小汪清作戦

1933年 11月 17日、日帝は 6000人余りの兵力を動員して歩兵、砲兵、航空隊の協同 作戦により小汪清遊撃根拠地、延吉県王隅溝、三道湾遊撃根拠地、 琿春県大荒溝、烟筒子、南溝遊撃根拠地を不意に包囲、攻撃して来た。 日 帝の討伐の重点は汪清遊撃根拠地だった。 1500人余りの日本軍、 満州軍、自衛団が 3方面から小汪清遊撃根拠地に向けて進撃して来た。 敵は我軍の軍政指導機関がある馬村と梨樹溝を続けて爆撃した。

汪清遊撃隊の反“討伐”闘争の銃声はピョジョク山と磨盤山から鳴らした。 遊撃隊と赤衛隊は、有利な山勢を利用して、敵の陣地近くまで接近し、 待ち伏せ戦を展開した。敵方はピョジョク山の麓から60km離れたところまで接近した。

“タン、タン...”

遊撃隊は不意に集中射撃を開始する一方、爆弾や党籍の洗礼により寄って来る敵を 追い払った。傾斜が急な山裾で絶壁に差し掛かった時、戦場をつんざく雷の ような音と砲煙を彷彿させる立ちこめる埃雲は、侵略軍の肝胆を冷やした。 遊撃隊の強い反撃に敵軍はしつこく飛びかかったが、前哨陣地を一歩も越えることができず にむしろ反対側の山裾へ後退しなければならなかった。

ところが今度は急に背中の後ろから雹のようなな銃弾が零れ落ちた。遊撃隊員たちは 早々と反対側の山裾に待ち伏せていたのだ。 背後の攻撃まで受けた敵軍は 10 人余りの殺傷者を残して逃走してしまった。

砲手隊で組職された数十の狙撃組は、有利な地形を利用して、執拗に飛びかかる 敵を撃ち倒し、婦女会員たちはお握りとお湯を載せて山を上り下りした。 子供達は太鼓を叩き喇叭を吹きながら戦闘員たちの士気を高めてくれた。

磨盤山の草原で敵を狙撃した防遮隊は、夜明けから草原を囲んで 飛びかかる敵と熾烈に闘った。 丸太小屋の警戒所が 燃えて倒壊するまで、敵の侵攻を 7回も退けながら、勇敢に戦った防遮隊員 たちは銃弾を13ヶ所、7ヶ所、3ヶ所、2ヶ所受けた遊撃隊員もいた。 その後、汪清遊撃区の人々は彼らを名前の代わりに “13連発”、“7連発”、“3連発”、“2連発”と呼んだ。

敵の大兵力がピョジョク山と磨盤山陣地に連続投入されると、遊撃隊は 前面防衛戦から誘引欺瞞戦術を主とする伸縮自在の機動的・積極的な防御による 消耗戦へと移行した。

新しい戦術的措置により、遊撃隊員たちは半軍事組織のメンバーたちとともに前哨陣地 から撤収して遊撃区の奥深くへと敵を絶えず誘引しながら、待ち伏せ戦、 狙撃戦、 宿営地襲撃戦、偽焚き火爆弾戦などの千変万化した戦法で敵方を追い込み、痛快に攻撃した。

偽焚き火爆弾戦は、その効果は満点だった。 遊撃隊は陣地を移す度に次のライン に撤収しながら、偽の焚き火に爆弾を埋めるようにした。敵方は我軍の防御陣を 占領しようとして急いで偽焚き火の前に集まって来ては、一息ついた。その度に 爆弾が爆発して敵方を殺傷した。

遊撃隊は敵方の宿営地に対する夜間襲撃戦もよく展開した。 2〜3名もしくは 4〜5人規模で 編成した襲撃組を敵陣の中に送り込み、敵軍瓦解のための仕掛けを作り、鉄砲も何発 かずつ撃って来るようにした。敵の天幕や焚き火のようなところで鉄砲を三、四発撃ち込むだけ でも全宿営地が修羅場になった。 こんな夜襲は一夜のうちにも三度、四度、時には 五回もする時もあった。敵方は一晩中眠ることができず、恐怖に震え、 味方同士銃撃戦をしたりした。

しかし敵方の戦術も相当に悪辣だった。 遊撃区に攻め寄せたとしても攻撃が挫 折するとその日に帰るという、従前のピストン式“討伐”ではなく、攻撃が失敗しても退かずに 到達したラインにそのまま座りこんで宿営しながら一歩一歩進み、占領した地帯を強 固にして行く “歩歩占領”の戦術を遂行した。

日本軍の砲火により灰燼になった小汪清を後に残し、住民たちは十里坪へ避難した。 敵方は遊撃隊にピタリとくっついて長期戦を試みる一方、男女老少を選ばず、 目に見える者は全て殺した。

一ヶ月ほど、小汪清反“討伐”戦闘を進行しながら、遊撃隊は敵軍 200人余 りを殲滅した。 しかしその一ヶ月が経過するうちに抗日軍民の 1000人余りが死んだ.。 そこに反“民生団”闘争まで重なり、遊撃根拠地は人心が荒廃し、 党と遊撃隊の力が非常に衰えてしまった。

力を保存するため、中共汪清県委は小汪清遊撃区 を捨てることに決めた。 1934年 1月のある日夜、 抗日軍民たちは敵方の防衛が 手薄な西大坡と皮溝を突破口にして、包囲網をくぐった後、大荒溝と腰営溝抗日 遊撃根拠地へ移転した。

双方間の攻防戦が熾烈に進行したある日、遊撃隊政委・金日成の “防御にだけエネルギーを消耗せず、敵の後頭部も打たなければならない”と言う建議の下、 遊撃隊は二組に分かれて作戦を進めるようになった。 一方は崔春国の指揮 下に十里坪を守り、他の一方は金日成の指揮の下に敵区に出た。

2月中旬、 “討伐”隊は十里坪抗日遊撃根拠地を再び侵攻した。 中共東満特委書記・童長栄と特委機関は、一部の遊撃隊と群衆と共に 十里坪ミョグのテブック一帯に移動した。 3月 21日、敵軍が囲んで来た。 敵方の包囲を突破する戦闘で重病に苦しんでいた童長栄は、弱り目に崇り 目で重傷を負った。 朝鮮族女戦士・崔今淑(汪清県区婦女会主任)は、 弾丸が降りそそぐ中にで童長栄を背負って包囲を くぐろうと思った。 しかし重傷を負って血をあまりにも多く流した童長栄は、 崔今淑に背負われたまま犠牲になり、崔今淑も敵弾に当たって壮烈に戦死し た。

敵方の背後を攻撃

金日成の指揮の下、遊撃隊の一編隊は夜闇に紛れて、腹ばいになって敵の包囲網をく ぐり、敵の後方に深く入って行った。予見どおり、敵の後方はむしろガラン と空いていた。その時を金日成回顧録 “世紀と共に”(第3冊)ではこのように書いている。

‘最初に攻撃したのは、涼水泉子の敵だった。私たちの雷のような不意打ちに 満州軍と自衛団がへたばり、日本領事館の警察兵営が完全に占領された。 涼水泉子で敵後霍乱戦の初銃声を鳴らした私たちは、遠 くへ消えるふりをしている途中、もとの場所に後ろ向きに座って新南溝というところへ 移動する敵の自動車輸送隊を襲撃掃討し、多くの小麦粉と軍需物資を略奪した。

私たちは新南溝から遠く離れた北鳳梧洞の山岳地帯へ誰にも気付かれぬように 抜けて、新しい戦闘を準備した。1934年 2月 16日夜、北鳳梧洞 の満州軍と警察、自衛団員たちは皆、私たちの部隊によって殺傷され、もしくは捕虜になった。

北鳳梧洞で勝ちどきを挙げ、北高麗嶺を越えてサドンの方向に進出した私たち部隊は、 東側にいた森林警察隊を攻撃して、兵営の敵方 を全て射殺もしくは生け捕った。’

敵の冬期“討伐”を粉砕するのに決定的に貢献した最後の闘いは、図們−牡丹江間の 鉄道を建設している主要軍事要衝地のデドチョンで開かれた。 敵 “討伐隊”に変装 した私たちは、100余里の険山峻嶺を強行軍で一気に突破した後、3つの組に分れてデドチョンの 警察署と自衛団室を襲い、軍需倉庫に火をつけた。

この戦闘があった後から、敵方は遊撃区を押えていた包囲網を解除し、90日程前の出発 地点へ退却した。

その他の遊撃区での反“討伐”戦

延吉県遊撃区は大部分は野山地帯なので、敵方にたやすく露出する不利な状況にあっ た。 日帝は “延吉県の共匪巣窟を完全に消滅する”と豪語しながら包囲攻撃して来た。

敵方は延吉県八溝と王隅溝でなどの遊撃根拠地に至ると、野砲と迫撃砲射撃の援護を 受けて遊撃隊を攻撃した。ブアムで開かれた初日の戦闘で、遊撃隊の名射手たちは 50人 余りの敵を射殺、撤退させた。 しかし敵方は遊撃隊と群衆たちが 集中している四方台に向けて兵力を集中して攻撃して来た。 敵方は四方 台の関門である銛岩遊撃隊陣地を猛砲撃しながら、我軍の防衛線を突破しようと した。銛岩を守る遊撃隊員たちは敵の根拠地に接近させておいた後、猛射撃 を加えて倒すだけでなく、岩石を転がして頭を叩き割ったりしながら一日の間、固守した。

1933年 12月 24日から 1934年 2月 21日まで、延吉県遊撃隊の主力は、延吉県三道湾遊撃根拠地一帯 で敵方と激しい反“討伐”戦を展開した。 1934年 2月初、延吉県警察局長及び警察隊隊長が 率いる 300人余りの敵方は、遊撃根拠地に向けて大挙侵攻した。 三道湾遊撃根拠地の軍民たちは、連続して 14日間、敵と 23回も交戦 して 150人余りを殲滅した。 3月 29日、金スンドク、王徳泰、南チャンイクらの率いる遊撃隊は、 延吉県八道溝のサムサン村と長財村の間に待ち伏せていている途中、 “討伐”しに来る八道溝警察隊と自衛隊を攻撃して警察巡警部長を含む 日本軍の何人かを撃殺、“討伐”を撃退させた。同月、延吉県遊撃隊の一隊は、三道 湾ソミョ溝で “討伐”隊 15人を射殺し、銃 13丁を略奪した。

遊撃隊は根拠地の防衛戦闘を展開すると同時に、一部の兵力を敵の背後に派遣して敵兵営と 軍事要塞を襲撃した。 1934年の初め、延吉県遊撃隊の一部隊は、労動者たちの合流を得て 日帝が占領している天宝山銅銀鉱に攻め込み、大量の弾薬と鉱山警備隊の鉄砲を略奪した。

和龍県遊撃根拠地の軍民たちも主動的に出撃し、日本軍を打ち破ってその他の遊撃根拠地の 軍民たちの反“討伐”戦を有力に支援した。遊撃隊隊長・車龍徳は、遊撃隊を導いて三道溝の 日本警察隊を主動的に襲い、 30人余りを撃殺した。 遊 撃隊はまたチョンドゴルで待ち伏せ戦を展開し、日本守備隊を攻撃、軍用自動車を 壊滅させ、30人余りを撃殺した。

琿薫県遊撃隊も大荒溝と小五道溝で日本軍と戦闘を展開し、 50人余りを殺傷し た。 しかし遊撃根拠地内で反“民生団”闘争が始まり、多くの指導幹部と戦士たち を疑って処刑したため、遊撃隊の士気が低下し、人心が荒廃し、反“討伐”戦 で作戦を順調に遂行することができなくなるという重大な損失を受けたりもした。

1934年春、東満 4県の遊撃根拠地の軍民たちは、犠牲を恐れずに不屈の精神を発揮して 敵方の “討伐”と対立した。根拠地の群衆たちは、危険を冒して物心量面で遊撃隊 を援護した。 “討伐”軍が攻め寄せて無差別虐殺と放火をしたが。群衆たちは寸毫も 屈することなく燃えた家の跡地に火が消える前にまた家を建てた。敵方が焼却すれば 作り、また作りして、甚だしくは一家の跡地の上に三十二回も家を作り、遊 撃隊と渾然一体になって根拠地を防衛、“包囲討伐”を粉砕した。 今度の反 “包囲討伐”を通じて、遊撃隊と共産党組職はさらに壮大になった。
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