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43.反日統一戦線の編成


▲救国軍の名将 王徳林、呉義成、史忠恒、柴世栄(左から)

遊撃隊と救国軍、連合して闘い、各地で日本軍・満州国軍打ち破る

大刀会と救国軍

第1次反“討伐”戦で延辺の各県抗日遊撃隊は、戦闘で勇ましく戦い、隊をいっそう成熟させただけでなく、 豊かな経験を積んで武器で日帝を追い出す堅固な信念を持つようになった。同時に我々が弱くて敵が強い血 生臭い条件の下では、全民族的な抗戦だけが勝利を獲得できると認識、当然に救国軍を含めた反日部隊と団結 して共同戦線を編成しなければならないという道理を悟るようになった。

救国軍と漢族の反日群衆で自然発生的に組職された武装団体である大刀会は、反日抗戦に積極的に参加しなが ら東満の日本侵略軍を脅かした。

1932年3月20日、王徳林の救国軍250人余りと大刀会50人余りは、老頭溝を襲った。 3月30日には天宝山鉱山を 襲い、明くる日の31日には王徳林の救国軍1500人余りが百草溝を攻撃した。

4月2日、400人余りの大刀会の武力は、三道溝を襲って4月8日まで占領、4月8日には二道溝を襲撃、中共公安分 署40人余りの将兵と50人余りの防衛隊員が蜂起して、大刀会と合流して日本の警察署を襲った。

5月9日には救国軍と大刀会が連合作戦をして、大子を襲い、翌日5月10日には救国軍220人余りが三道溝を襲った。 6月8日、救国軍200人余りは伽耶河日本警察分署を襲い、6月14日には700人余りの兵力で三道溝をまた攻撃して、 日帝が無産守備隊まで動員して2回の飛行空襲まで敢行させるに至った。

1932年10月27日夜、救国軍・呉義成部隊200人余りは、双河鎮から牡丹村を経て百草溝を襲い、11月2日には大刀会 と手を握って銅仏寺を襲った。

“大刀会など自発的な大衆武装と救国軍の抵抗は、日帝の大きな障害に違いなかったのです。 ここに日帝は 1932年 4月 19日、池田が率いる第19師団 1600人余りの間島派遣隊と日本関東軍第10師団 1400人余り、しめて 3000人余りの 兵力を出動させ、二手に分かれて攻め寄せ、大刀会と救国軍に向かって大規模な包囲討伐を敢行するようになりました。 結局、現代化した正規軍により、大刀会が壊滅され、救国軍も鎮圧されてしまいました。 たとえこれら数千名の武装勢力 が日帝によって悲劇を受けたとしても、彼らの積極的な闘争によって日帝の延辺侵略が牽制され、東満各連の遊撃隊建立 に時間的な余裕を与えることになりました。”

救国軍と大刀会の反日闘争に対する延辺大学歴史学教授・朴昌c教授の肯定的な評価だった。

抗日の旗印を持ち上げ、延辺地区で活動した救国軍は、日帝の “包囲討伐”で徹底的な惨敗を喫し、1933年から中ソ国境 にまで押し込まれ、ソ連に移った後、ソ連から管内へと撤収してしまった。王徳林と孔憲栄などが導く部隊も延辺を去っ てしまった。 しかし少なからぬ救国軍の将兵たちは依然と残っており、呉義成、史忠恒、柴世栄などがずっと残っていた。 彼らが導く救国軍は、延辺と東寧、寧安一帯で活動した。 しかし彼らの思想は統一的にはならず、ある人は抗日を主張して ある人はためらいながら迷っていた。 このような将兵たちは間違いない重要な抗日勢力だった。

第1次反“討伐”戦で各県抗日遊撃隊は救国軍の残っている部隊を争取し、共同抗日することを一つの重要な任務と見做して 積極的に統一戦線活動を進めた。

東寧県所在地戦闘

1933年 9月、 金日成が指揮する汪清、琿春抗日遊撃隊の 110人余りで組職された決死隊は、呉義成、柴世栄、史忠恒が率いる 吉林救国軍と李青天が率いる大韓独立軍部隊と連合し、東寧県所在地を攻撃する事にしたが、連合部隊の兵力は 3000人余り だった。 東寧県所在地には石田が率いる 500人余り日本関東軍兵力とグァン団長が指揮する 1個連隊ほどの満州国 軍の兵力以外に、満州国警察と自衛団武力が集中的に配置されていた。彼らは大砲と飛行機で装備されており、堅固な城塞 の中に守られていた。

羅子溝を去った遠征部隊は、何日間かを路上で過ごした後、 9月 6日夜から 9月 7日昼まで、東寧県所在地の戦闘を続けた。 遊撃隊は、金日成の指揮の下に史忠恒が率いる救国軍と第3団とともに、東寧城西大門外の丘に建てられた2階建の西城砲台を 打ち破る任務を引き受けた。

遊撃隊指揮官・金日成は防遮隊の任務を遂行する琿春中隊をチャジャクゴルに配置して、汪清中隊をジュコン方面 に進出させ、西山砲台を占領する事にした。 夜 9時敵陣に隠密に近付いた遊撃隊破壊組は、進攻の信号銃声とと もに敵砲台に向けて一斉に集中射撃を浴びせた。両軍間で何時間もの間、熾烈な銃撃戦が起った。汪清遊撃隊は連続 して 10回余りの進攻を発動しながら血戦を続けた。その時を金日成は回顧録 “世紀と共に”(第4冊)でこのように描いている。

‘私は西門から市内に突入した遊撃隊に敵の兵営を封鎖させる一方、一部の勢力を砲台の北に回らせて、猛烈な爆弾 攻撃で西山砲台を占領させた。東の空が明るくなる頃、砲台は抵抗を中止しておとなしくなった。 私たちの主力部 隊は日本軍守備隊兵営を鋼鉄のような封鎖網で取り囲み、敵の必死の反抗を次々に挫折させた。日本軍は北門へ逃げた。

便衣兵を装って市内に前もって入っていた救国軍部隊たちと東門と南門を経て市内に突入した救国軍部隊たちも、 自分の位置を占めて戦闘をした。

...私たちの部隊は、命がけの市街戦で占領区域を拡大しながら敵方を県城の一角に圧縮した。 救国軍もこれに鼓 舞され、兵器工場を占領して兵站品置き場を襲った。市街戦は長い時間続いた。

連合作戦の目的が基本的に達成されたと認めた私は、我軍に撤収命令を下した。遊撃隊は市内から主動的に撤収して県 城の外に抜けて来る救国軍部隊たちを砲火で援護した。

私たちが史忠恒旅団長が重傷にあったまま市内に倒れているという報告を受けたのはこの時だった。彼の部下たちは皆、 旅団長を残しておいたまま、市外へ逃げてしまった。 副官も彼を面倒見ずに抜け穴を捜して城門を抜けた。

−私は崔春国に史忠恒を救出することを言い付けた。

崔春国はその命令を決死的に執行した。

私たちは遊撃隊員たちが死をかえりみず救援した史忠恒を背負って、彼を砲火で援護しながら部隊を高地へ無事に引き上げた。’

今度の戦闘は東満遊撃隊と救国軍など反日武装部隊との最大規模の連合戦闘だった。 戦闘で遊撃隊員たちは遊撃隊の 勇猛果敢な戦闘精神を充分に誇示し、救国軍とその他の抗日部隊の高い信望を得た。

東寧城戦闘で連合部隊は日本軍と満州国軍150人余りを殺し、70人余りを負傷させ、満州国警察 2人を殺して 3人を負傷させ た。抗日遊撃隊と救国軍では 51人が犠牲となり、19人が負傷した。

羅子溝攻撃戦

1934年 6月、東北人民革命軍第2軍独立軍第3団、第4団の部分的隊員、綏寧反日同盟軍、羅子溝一帯の史忠恒、孔憲栄、 柴世栄、李三侠が率いる抗日救国軍はしめて 600人余りで、連合部隊を構成して羅子溝の満州国軍を壊滅させることにした。

連合部隊は周保中と金日成の指揮下に敵方を消滅する作戦計画を立てた。

連合軍の進攻を見抜いた満州国軍・文ヨンジャンは、近所にある所属部隊 500人余りを羅子溝に集結させ、戦壕を掘って 砲台を積み、抵抗する準備をした。

6月 26日、東北人民革命軍第2軍部隊は、部落西方の平地に待ち伏せて敵を待ち、四道河子に駐屯していた綏寧反日同盟 軍と抗日救国軍・史忠恒、柴世栄部隊は、村の東の山の後方へ迂回して背後を襲った。満州軍は迫撃砲で我軍の陣地を砲撃 したが、連合部隊が猛烈に反撃したので、仕方なく羅子溝に入って行った。 この日の戦闘で連合部隊は敵 30人余りを殺 して銃 40丁余りを略奪した。

翌日、人民革命軍、同盟軍、抗日救国軍の指揮員たちは会議を開き、三つの部隊を編成して羅子溝を攻撃する戦闘方案を練った。

嵐の夜中、羅子溝攻撃戦が始まった。第2部隊は羅子溝西側から通りに攻め込んで銃を一発も撃たずに警察署を占領した後、 警察たちを捕虜にして銃 20丁余りを略奪した。 彼らはその帰り道に第3隊と連合して羅子溝の満州軍営府を攻撃した。

第1部隊は西山砲台と迫撃砲陣地を占領する任務を引き受けたが、それは今度の戦闘の勝敗を決めるものだった。 ところが敵方の砲火があまりにも激しく、一挙に打ち破ることができなかった。 すると救国軍のある指揮員たちは 動揺し、撤退しようと主張した。 救国軍が撤退すれば我軍は非常に大きい損失を受けるはずだった。 人民革命軍の 戦士たちがもう一度攻撃したが、相変らず西山砲台を占領することができなかった。

この時、市街戦も緊張した。満州国軍は我軍に反撃するためにある商店を占領した。すると琿春 4団の一部の朝鮮族戦士 たちは、商店の屋根に上がって周囲を守る敵方に延吉爆弾を投げつけた。しかし相手はそのまま頑強に堪えていた。 戦闘は非常に激しく進行した。

戦闘が始まってから三日目の28日だった。 戦闘を始める前に我軍指揮部では緊急会議を開き、各部隊の兵力と砲撃を 集中して西山砲台と迫撃砲陣地を一挙に占領する事にした。 敵方は迫撃砲を撃ち、飛行機で爆撃した。それで救国軍は 多くの重傷者を出した。 救国軍は動揺し、士気が低下した。これを見た人民革命軍の戦士たちは、どんな対価を支払っ ても西山砲台と迫撃砲陣地を必ず占領しなければならないという決意を固くした。人民革命軍戦士たちが決死的に敵陣に 突撃し、30分間で “難攻不落の堡塁”といわれた敵の西山砲台と迫撃砲陣地を占領した。すると市街戦で動揺した救国軍 戦士たちが急に士気が上がり、勇ましく敵の営府に攻めこんだ。 救国軍は人民革命軍と協同作戦を展開し、素早く満州国軍 営府を崩壊させた。

戦闘で勝つことができないということを見抜いた満州国軍・文ヨンジャンは仕方なく、投降するので談判する代表を派遣すると 要求した。 連合部隊指揮部では敵の要求に同意した。 ところが反日部隊では談判しに来た代表の一人を射殺した。 すると 敵方はまた陣地を死守して頑強に抵抗した。

連合部隊は 7昼夜の激戦を経たが、羅子溝を完全に占領することはできなかった。 ところが敵の増援部隊が到着したので、 連合部隊は退却しなければならなかった。 連合部隊は今度の戦闘で多くの敵を殺傷、捕虜にして各種の武器と兵站品を略奪 した。この進攻戦は、羅子溝抗日遊撃根拠地を開拓する上でしっかりした土台を確保することになった。
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