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42.反“民生団”闘争(3)

にせ物事件に翻弄され、幾多の冤魂が泣き叫ぶ。死刑場でも “共産党万歳!”を高く叫ぶ


▲朝鮮人部落を討伐する日本軍討伐隊(資料写真)

無念の冤魂たち

東満抗日武装闘争の参加者・蔡光春は、反“民生団”闘争の状況をこのように回顧し た。

...金倉で銃殺された人はチョン・ピルグク、チョン・ドンシク、崔ハクチョル、徐 ノトル、呉イルパだ。 5人は区委書記か区委以上の幹部たちだった。 彼らを皆縛 り、きちんと地にひざまずかせた。 私は初めて銃殺任務を執行したが、体が震えて 三番目からは銃弾をまともに当てることができなかった。 この時、班長は “弾丸は 貴重だから、浪費することができない”と言って、私の射撃を阻止した。 そして銃 創で残りの人々を突き刺した。...

私たちが寝ていると、番兵の怒鳴り声が私たちを起した。 起きて見たらチョン・ピ ルグクが生きて帰って来たのだ。 彼は “私に指導者に会わせてくれないか?私は民 生団ではなくて共産党員だ。死にたくないから私を生き残らせてくれ。”と言った。 しかし指導者は彼の哀願を聞き入れず、私たちを見て彼を連れて行って銃殺しろと 言った。 後に私が行って見たら彼の顔全体が血痕と傷だらけだった。 彼がもし民生 団なら、どうして敵方へ行かずにまた私たちを訪ねて来て、2度までも銃殺されると いうのか?...

金日成の回顧録 “世紀と共に”(第4冊)ではこのように書いている。

高度というニックネームを持った和龍県の反帝同盟委員会の責任者はジェインガンに 出て政治工作をしている途中、自衛団員たちに逮捕され、 30人余りの愛国者たちと 共に死刑場へ引かれて行った。

自衛団員たちは彼らを一列に立たせておいて、一人づつ首を打ち、殺した。 高度も もちろんそんな刑罰を免れることができなかった。 ところが不思議なことに高度の 首は地に落ちなかった。 その代わりに首の肉と皮がすっかり剥けて、胴体に貼り付 き、血だらけになった。 これは死よりもっと苦しい致命傷だった。 高度が気を失っ て倒れているうちに、敵方は死刑場を立ち去ってしまった。 夜中に我に返って刑場 でやっと起き上がった彼は、歯を食いしばって痛みに堪えながら体に張り付いた皮を 首に付け、服を裂いて縛り付けた後 60里余り険しい山を腹ばいになって這いなが ら、漁浪村遊撃区へ無事に帰って来た。

しかし高度の傷が完治する前に、左傾分子たちは彼を群衆審判場へ引っ張り出した。 彼が敵の走狗として革命隊列内に深く潜伏しようと、わざわざ首に傷をつけて遊撃区 へ帰って来たというのだ。 左傾分子たちは高度の “罪行”を長たらしく列べたが、 審判場に引っ張り出された群衆は彼らの判決に誰一人として賛成しなかった。 審判 の主催者たちは、高度を生かしておいて、一定期間の検閲を通じて彼の正体を明らか にするという判決を下したが、後に彼を暗殺してしまった。

延辺党史研究部門で 1982年に収集、 整理した資料によると、元東北人民革命軍第2 軍独立師第4団戦士のチョン・フンムンは、自分が民生団と決め付けられたという消 息を聞き、すぐに隊を去って逃げ、次のような内容のメッセージを残したと言う。 “私は共産党員であって民生団員ではない。 あなたたちは私を山から降ろそうとす るが、絶対走狗にならない。 私は行くが、私の鉄砲は引き続き革命をしなければな らない。 私は鉄砲を大きな木の下に埋めて置いた。” 彼の言葉通り、果してその木 の下で鉄砲が見つかった。 1945年 “8.15”光復の後、周保中はこの知らせを聞き、 人を派遣してチョン・フンムンを捜させ、彼を人民解放軍の敗将に位置付けたと言 う。

1930年旧暦 4月、中共琿春県委宣伝部長・金キュボンが民生団に逮捕され、護送される 時にこんな事もあった。ジュピグに護送されると、急に馬の蹄の音が聞こえた。彼を 護送したユ、崔らの人々は敵方の討伐隊が襲って来ると錯覚して、金キュボンを捨て て一目散に逃げた。 しかし金キュボンは一人きり彼らに付いて 20里を追い掛けた。 彼らに追い付いた金キュボンは、“あなたたちを派遣して私を逮捕しなさいと言ったのに、私 を連れて行かないのなら、どうやって交代するのか?”と言った。 しかしユ、崔らは行 く先は遠いし、また敵に会えば危ないからと言いながらその場で金キュボンを銃殺してし まったと言う。

元中共和龍県委書記・金日煥が殺害されたケースは、もっとひどい。車廠子の党支部 書記・李オクマンはが経常的に麻薬を吸い、活動しないので、金日煥は意見を申し立てた。 これに李オクマンは恨みを抱き、復讐するために 金日煥を民生団嫌疑分子と偽り、告発した。 1934年 11月のある日、李オクマン は群衆大会を開き、金日煥を即時に銃殺することを宣布した。 この時、救国 軍のひとりが代表に出て、 “金一環は本当に抗日する良い人だ。 私たちは一年以上も 一緒にいたが、彼をよく知っている”と言った。 彼の言葉がまだ終わる前に救国軍の すべての兵士が弾を装填し、 “誰かがもし金日煥を銃殺すれば、私たちはすぐに その場でそいつの頭をこなごなに壊す。”と叫び、会議場の雰囲気は非常に緊張した。

夜中に李オクマンが一群の人々を連れて金日煥を暗殺した。

その晩、銃殺を執行した人の言葉によると、金日煥は処刑される時、“共産党万歳!”、 “同志らは革命を最後まで遂行しよう!”などのスローガンを叫んだという。

このように無念の死を遂げた人は金日煥ばかりではない。 にせ物事件に巻き込まれて多くの無念の冤魂たちが泣いている。

反“民生団”闘争の終決

1935年に至って “東満に今いる高麗同志たちは、誰も皆民生団という供述がある。 もし民生団の供述がない高麗同志を尋ねようとすれば、捜すことができなくなった”と 指摘した魏拯民の言葉は全くの誇張はなかった。 そして反“民生団”闘争を主 導して来た東満特委の指導者達も誰が民生団で誰が共産党なのか はっきり見分けることができなくなった。 結局は無智で暴悪な猜疑心と野蛮な脅迫供述 でほとんどすべての朝鮮族抗日革命幹部たちに民生団の嫌疑をかけたことになる。 朝鮮族幹部たちも何日も経たぬうちにすぐ民生団という供述があったりしたか ら、東満特委の漢族幹部たちは大きな困惑と不安を感じざるを得なかった。そして 自分の身近な “高麗同志幹部たちに対してすら一部の恐ろしさまで感じるようになった。 .” しかし東満抗日根拠地と党、団組職内から極少数に過ぎなかった漢族指導幹部 達は、決して組職人口の大多数を占める朝鮮族の皆を供述と猜疑心そのままに排斥したり 逮捕したりは出来なかった。

東満のすべての抗日遊撃区が基本敵には朝鮮族で成り立っていて、人民革命軍の基本 隊と幹部たちも大部分が朝鮮族だった。 だから朝鮮族に対する全体的な排 斥と弾圧は、とりもなおさず東満抗日革命の放棄か自滅とほとんど同じことに違いなかった。 そして民生団の嫌疑があるほとんどすべての朝鮮族たちを、いくら信じ難く疑わしいと 言っても彼らとの共存は不可避な状況だったし、彼らとは共闘も不可避な選択だった。従って 反“民生団”闘争に対して見直さざるを得なくなり、血の闘争方法だけでも 緩和させざるを得なかった。 当時、民生団だという供述と嫌疑がありながらも革命隊内で主な 幹部である朝鮮族には、人民革命軍第1団団長・方ソンクィ、政治委員・林水山、第2団参謀長・ リュウ・ランファン、金日成、東満特委婦女委員・黄ソニル等がいた。

当時、東満抗日遊撃根拠地の群衆の 95%は朝鮮族だった。 日帝の三 狂政策の残酷な蹂躙の中でも、遊撃根拠地の人民と軍人たちは頑強に遊撃根拠地防衛 に命を捧げた。 大多数が民生団なら、どうして抗日武装闘争でそれ程に生死をかけて 勇ましく争うか。 このような情勢の下、中共満州省委吉東巡視員・呉ピョンは、東満特 委に手紙を送り、 “もし遊撃区内の絶対多数の群衆が民生団なら、こんな遊撃区域は早 く日本軍によって消滅させられたはずだ”と指摘し、鐘子雲を批判した。魏拯民も満 州省委に送る手紙で “過去、人民革命軍は完全に民生団の指導の下にあったと言った が、これは政治上の非常に大きな過ちだ”と鐘子雲を批判した。 その後、鐘子雲 も共青団満州省委に手紙を送り、魏拯民を批判、“彼らは高麗同志たちを完全に逮捕して解 決しようと思っており、そうではなければ皆無条件で活動をやめようと計画している”と 指摘している。

6月 17日、東満党団特委が提出した報告書は、民生団が “私たちの指導機関を民生団 の機関にしようとしている”と言いながらも “私たちはずっと今に至るまで民生団の文 件を見つけることができなかった”と告白している。

反“民生団”闘争に非常に積極的だった共青団東満特委書記、第2軍第1団政 治委員であった周樹東でさえ、団省委に送る手紙(10月 23日)で “もし東満にそのように 多くの民生団がいたら、この何年間の勇敢なる反日闘争は続けることができなかっただろうし、 私たちの人民革命軍は早く日帝に行って変節していただろうし、すぐに暴動 が起きて指導者である何人かの中国人を殺してしまって投降しようとしたはずだ”と 指摘した。

1935年 5月、ソ連に去った東満特委書記・魏拯民は、その年 12月に提出した報告書 で “民生団たちがたまに遊撃区から逃げて日本帝国主義に投降するが、日帝も彼 らを完全に信じない。 日帝が彼らをつかまえれば同じく拷問して屠殺するから民生団 が遊撃区に逃げて来るということは非常に少ない...”と言った。

そして反“民生団”闘争の後期には民生団の供述があっても無条件に逮捕しなくなり、 いわゆる教育解釈活動も積極的にせず、まるで隊内に民生団がいなくなったみたいになった。

1935年 9月、羅子溝遊撃区の放棄と 10月、西南部・車廠子遊撃区の 放棄を最後に、東満の元々の抗日遊撃根拠地は全部消失し、人民革命軍第2軍は 二つに分けられ、北満と南満に進出することで反“民 生団”闘争は客観的におさまるしかなかった。 そして 1936年 2月、共産国際駐在 中共代表団に反“民生団”闘争など東満問題を報告して、共産国際第7次代表大会の 精神と中共代表団の満州及び東満に対する新しい指示を持って、魏拯民が東北に帰って 来るようになった。 魏拯民は “民生団問題において東満各遊撃区に民生団がそのように 多かったということを否認し、もしそんなに多かったら遊撃区と人民軍を 今まで維持することができなかったはずだから、これからは信用せよ”と言う指示を 伝達、この伝達を聞いて一般朝鮮族の腹中に積もっていた恐怖は解消された。

1936年 3月初、東満特委と第2軍は、安図県迷魂陣で魏拯民の主催の下に指導幹 部会議を開き、中共中央の “8.1宣言”と共産国際駐在中共代表団の指示精神によっ て、東北人民革命軍第2軍を東北抗日連軍第2軍に改編、第3師を新しく組織するこ とに決めた。

“迷魂陣会議”直後に新編第3師団の師団長・金日成など撫松県馬鞍山に 至ってそこで監視、改造を受けていた民生団嫌疑者 100人余りに完全無罪を宣布、 彼ら全てを第3師団部隊に編入させた。 この時、彼ら嫌疑者たちの自白書、尋問書な どを皆きれいに燃やしてしまったが、これは反“民生団”闘争の最後の終結を宣告した ことになる。
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