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41.反“民生団”闘争(2)

無限に拡がる悲劇に巻き込まれ、元朝鮮共産党員抗日老幹部ら全て粛清


▲遊撃隊の女隊員達(資料写真)

派争主義者も民生団に追われて

1933年 9月、東満特委は第1次拡大会議を召集し、反“民生団”闘争を新しい高まりへと進めた。 拡大会議の決議文は “朝鮮国派争主義者と民生団分子たちが一つになって、党内で日本の間者系 統を建立して党の指導機関を占めることにより、中央から来た手紙(“1.26書簡”)にて提起した当面の 任務を完全に執行することができないようにし、党と革命運動が非常に大きな損失を受けるようにした 。”と指摘した。そして過去、朝鮮共産党各派とその傘下の反日革命組職に参加した多くの人々が民 生団と同一視され、民族独立運動に参加した人々は誰もが猜疑心と警戒の対象になるしかなかった。 これと同時に指導機構も改編されたが、特委組職部長の金聖道を “派争領袖”と決め付け、彼の職務 を解任、 銃殺することを言い付けた。半年前まででも東満特委巡視員の身分で和龍県で数十人の朝鮮 人革命同志たちを民生団と区別出来ずに殺害した金聖道自身も、結局は馬村南山で悲劇の死に遭う羽目になった。

1933年 12月 7日、 中共満州省委と共青団満州省委は、連合して “日本の間者である民生団及び派争 に反対することに関して韓国民衆たちに知らせる文”を発表したが、文章では “派争分子たちはエムエル 派、火曜派、上海派、ソサン派、高麗共産青年団派などに分かれている。 こんな民族主義の走狗、間者 として、人の服を着て帽子をかぶって中国共産党、反日遊撃隊と反日会など国中の団体の中に紛れ込み 、日本の間者としての作用を起こして中韓民衆連合や反日の民族革命を破壊しようとする。 一体民族主 義の派争指導者と民生団は、皆、日本帝国主義の間者で、反革命分子であり、我々民族の階級的な敵 である。”と指摘している。 三日後の 12月 11日には、東満党、団特委に手紙を送り、 “党と団の階級成 分と民族成分を入れ替え、基層幹部までのすべての党、団組織と反日会、農民協会、農民委員会、人民 革命政府、遊撃隊など一切の群衆団体の指導機関を改造して、派争分子たちを全て追い出す組職上の徹 底的な入れ替え”を指示した。

このような指示精神の下で東満の反“民生団”闘争は、さらに熾烈に展開するしかなかった。 特委書記・童 長栄は、元々身体が虚弱な方だったが、民生団を訊問するために何日間か喀血までしたと言う。

民生団に対する摘発、 逮捕と拷問は続いたが、幹部だけではなく一般群衆と軍隊の中でも殺伐として進行 した。 何か活動上の手違いがあれば、民生団の仕業ではないかと監視していたから、一般人は恐怖に震 えた。 これにより、軍隊の戦闘力も低下した。逮捕されるのではないかと恐ろしくなって逃走する者もいた。 ある民生団事件で検挙された者は、自首すれば殺されないといわれて逮捕された初日から、もしかすると真 正な自白と認定されるのではないかということが彼らの唯一の苦しみだった。 そして彼らは自分の過去の手 違いを民生団の仕業だったと明らかにして、自分と一緒に活動した同志らを民生団組織員だと公述した。 過 去の民族主義者、 派争分子は皆、民生団だと規定された。 民族主義者、派争者と民生団は三位一体と認め られ、体に3つの頭が描かれた絵に民族主義、 派争分子、 民生団と書いた漫画が、一時、流行した。

無限に拡がった反“民生団”闘争

1934年 3月、東満特委は、満州省委位の指示に従って延吉県 三道湾 能芝営で各県遊撃対策関係者たちが 参加した連席会議を召集し、東満4県の遊撃隊を合併し、統一的に東北人民革命軍第2軍独立師を建立するこ とに決定、元延吉県遊撃隊大隊長・朱鎮と政治委員・王徳泰を師長と政治委員に任命し、独立師の傘下に 4 つの団と一つの遊撃大隊を置いたが、武装隊は 900人余りに達し、群衆武装隊は青年義勇軍が 200人余り、 反日自衛隊が千名余だった。 革命隊内の朝鮮人を対象にする反“民生団”闘争が非常に厳しく進められたが、 独立師団級幹部の大多数が朝鮮人だった。

1934年 11月初旬、共青団満州省委巡視員チョン・モモが東満に来た後、反“民生 団”闘争は二番目のブームを迎えた。

東満特委 “特別会議”は 2、 3日間開かれたが、満州省委の “10.1日書簡”の指示 精神により、東満党内の反“民生団”闘争問題を重点的に討論した。 最後に 朱鎮、李相黙と琿春県委書記の崔ハクチョルを “民生団”の頭目であると討 論の末に決定した。

朱鎮、李相黙らを逮捕するようになった主要原因は、間島県兵隊の特務外郭 組職である “間島協助会”が 1935年 1月 3日に操作した “四方台事件(別名、韓ヨンホ事件)”だ。

1935年1月3日、間島協助会の工作員たちが共産党地下工作員を装って延吉県四方台遊撃根拠地 を尋ねて来たが、彼らは第1歩哨線で番兵と閑談しながら遊撃区糧食運輸隊長・韓ヨンホをよく知っ ているかのように、百草溝一帯に仕事に出た“韓英号がまだ帰って来なかったのか”と聞いて見たりした。そうするう ちに番兵が油断した隙に乗じて急に鉄砲を奪って逃げてしまった。不 意の襲撃に武器まで奪われた番兵は、遊撃区の上役に事実をその都度報告するようになり、 指導機関では韓ヨンホが敵方と内通する民生団員と疑うようになった。任務を 終えて四方遊撃区に帰って来た韓ヨンホはすぐに逮捕され、ひどい拷問に絶えられず、 自分が民生団員であると認めると同時に、独立師師長・朱鎮と第1団第3 連長・朴チュンも民生団員だと供述した。朱鎮、朴チュンもすぐに逮捕され、 朱鎮は脱出して朴チュンは拷問のあげく特委組職部長・李相黙 も民生団だと供述するようになった。結局、中共東満特委組職部長・李相黙は 民生団特委書記で,独立師師長・朱鎮は民生団特委軍事部長で、琿春県委書記・ 崔ハクチョルは民生団特委宣伝部長として認定されてしまった。

李相黙が逃走し、朱鎮が逮捕されてから脱出した事実は、抗日革命隊に一大衝 撃をもたらした。ほどなく、まず朱鎮の部下であった人民革命軍内の朝鮮族 幹部40人余りが民生団員として逮捕、銃殺された。そして朱鎮、李相黙 など主な幹部たちの逃亡と変節により、東満特委も延吉県三道湾から汪清県 大荒溝に移ることになった。

朝共団出身の抗日老幹部、全て粛清

東満の反“民生団”闘争の重大性を考慮して、満州省委新任代理書記の楊光華は、 中共ハルピン市委書記・魏拯民を全権代表として東満に派遣した。

1935年2月24日から3月3日まで、東満特委は満州省委全権代表・魏拯民の組織下に 汪清県南蛤莫塘大荒外で東満党団特委第1次連席拡大会 (大荒外会議)を召集した。会議で東満特委を解消し、魏拯民 を書記とした新しい特委を組織、各県の県委を特別支部に改編して安図と羅子溝 に二つの特区工作委員会を設置した。大荒外会議は反“民生団”闘争が“君 が生きれば私が死に、私が生きれば君が死ぬ、生死闘争”と規定し、粛反委員会 を組織して人民革命軍と遊撃区内で専門的に民生団と反革命 分子を押えると言った。既に500人以上の民生団を逮捕したが、まだ “十分な成績を得られず”“今、民生団が非常に多い”と認めながら “民生団が減少するとか消滅するどころか、また少なからぬ新しい 発展があった”と分析している。

新たに組職された粛反委員会は、東満特委常務委員の3人(書記・魏拯民、組 職部長・李学忠、宣伝部長・李ソンイル)、特委秘書長・゙亜范、共青団東満特委書記・ 周樹東、東北人民革命軍第2軍独立師政治委員・王徳泰、独立師傘下4団の政治委員たちで 構成され、主席は李ソンイル(朝鮮族)であった。

大荒外会議から東満特委は反“民生団”闘争を東満の工作全体の中の唯一の中 心問題とし、三段階に分けて推進する事にした。

第1段階は先に民生団の上級指導機関を一律に逮捕して消滅することだったが、その主な 任務は彼らの一切の上級指導の幹部たちをまったく消滅し、彼らの下級たちが指導の 中心を忘れてしまうようにすることだった。民生団組織職系統は、共産党の活動方法と方式 であるが、民生団間者の内容を変えただけであり、民生団指導者たちは共産党て゜再発させ、 当・団の指導活動をする積極分子たちだから、第1階段ではそういう者たちを粛清するのだ。 そして東満特委は民生団の“東満特委”と各県の“県委”幹部に認 められる25人(なかでも特委幹部6人、各県の県委幹部16人、主要交通員2人)を逮捕して すぐに彼らを全て銃殺した。彼らの中には汪清県委書記、東満特委粛反委員会主席、特委宣伝部長である李ソンイル (民生団特委に指目される)、人民革命軍独立団団長・尹チャンボム、政治委員・金ラクチョン、 元3団団長・李ナムギュ、元共清団特委書記・金チャンヨン(民生団青年特委書記に指目される)など東満の党、団 組職と軍隊の朝鮮人幹部たちが含まれている。

魏拯民の報告書によると、約2ヶ月前に李相黙、朱鎮、崔ハクチョルらが “古くさい民生団総機関”が中共党に派遣された後、李ソンイルが民生団の新し い特委を組織しようとし、李ソンイル自らも自分が民生団の新しい特委書記 であることを承認したという。一言で言って東満の党、団組職と人民革命軍内 の朝鮮族主要幹部たちが民生団の上層指導と認定されて無慈悲に粛清されたのだ。.

朝鮮族幹部のうち、最高位級にあった李ソンイルの場合、彼は元々反“民生団”闘争で とても積極的であり、民生団清算問題で厳格な実行者として名高かった。 しかし彼もまた民生団の東満総指導者、民生団最高指導者という無実の罪名を 使って彼が殺した多くの同志らと同様に自分の同志らの手によって殺害された。 李ソンイルは間島協助会が組織した“にせ書簡”事件に関連したかどで殺されたのである。

1935年3月13日、間島協助会本部工作員であるカン・ヒョンボクと李ドンファは、人民革命軍の 活動区域である汪清県皮溝に入り、間島協助会会長で ある金ドンハンの名前で李ソンイルに送るにせ書簡−すなわち「前回にあなたに頼んだ 共産区域内機密報告の仕事は、本部から派遣した工作人員と密会して処理してほしい」という 内容を意図的に道端に撒布しておき、そのにせ書簡を見付けた党組織はそれをそ のまま信じて李ソンイルを即時に逮捕、銃殺した。死刑にされる時、李ソン イルは“本当に民生団というものは、現実に存在しない幻影だったのだろうか?”と嘆息したという。

結局第1階段の闘争を経て、過去朝鮮共産党出身の老幹部、老抗日革命家と 小資産階級出身の知識人たちを “全て消滅させた。”

第2段階は民生団の一切の主要指導機関が皆破壊され、指導者達の 10分の 7、8 が既に逮捕されたり駆逐されたと認めた状況で、民生団の中下級幹部及び下層群衆たち を処理するものだった。

第3段階の主な任務は、最後に遊撃区外で民生団の組職を消滅させるというものだった。
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