xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

40.反“民生団”闘争(1)

悲劇に巻き込まれて幾多の朝鮮族抗日戦士、生死を共にした同志らの銃弾に当たって倒れる


▲1932年4月初、池田大佐が指揮する間島派遣隊が龍井に侵入する場面(資料写真)

1932年 11月から 1936年 2月までぶっ通しで 3年 4ヶ月の間、東満の共産党と公聴団及び革命隊内では朝鮮人 党員幹部と革命戦士たちのみを攻撃した悲劇が起きた。 日帝と銃刀を突き合わせて命をかけて争った朝鮮人 戦士、革命事業のために命を掲げた朝鮮人共産党員と共青団員たちが生死を共にした同志らの銃弾に当たって倒れた。 この事件をいわゆる “反闘争”と言う。

今度の事件について著名な反日名将・周保中は “東満地区党組織内に少なくとも50%の民生分子がいるとして 2000人 余りを殺した。 東満各地方の組職は党、団特委、県委から児童団に至るまで非常に多くの積極分子たちが皆殺害され、 人ごとに自分を守ることだけで精一杯になった。”と言った事がある。 反“民生団”闘争は確かに革命隊に莫大な損失 をもたらした。 “統計によると反闘争の被害者は 1000人余りに達する。 なかでも名前を公開出来る被害者としては、 中共東満特委組職部長・金聖道、汪清県委員会書記・李庸国、和龍県委員会書記・金一煥、延吉県委員会 軍事部長・朴東根などを含めて 560名にもなり、被殺者は 430名にもなった。

では民生団というのはどんな組職で、反“民生団”闘争というのはどんな闘争だったのだろうか?

“宋老頭事件”

民生団とは、日帝に投降した朝鮮民族改良主義たちである゙秉相、朴錫胤が龍井にて公開的に組織した親日反共的な 反動的社会団体として 1932年 2月 15日に結成され、その年 7月 14日に解体された。民生団は創立されたその日から 革命的群衆たちの手酷い攻撃を受けて来ている途中、日帝の制限と東満の革命的群衆の強烈な反対により5ヶ月ぶりに自然解散した。

中共延吉県老頭溝委員会の秘書 “宋老頭”は、 30歳初盤だが髭を蓄えていたせいで、人々は彼を “老頭”と呼んで 来たが、 1932年 8月頃、彼は老頭溝日本憲兵分遣隊に逮捕された。 一週間余りが経った後、抗日遊撃区を尋ねて来た 彼は、日本憲兵隊拘留所を “脱出”して来たと言った。 区党委組職では彼の逮捕及び脱獄過程について疑いがあった ため、元々の区党委秘書の職務を取り消して延吉県農民協会で営なむ “農民闘争報”社に行かせ、印刷所で働かせる 一方、組織的な監視と調査を進めた。

10月 16日、 細鱗河一帯で活動した延吉県抗日遊撃隊は、メボン山に地形偵察に出た老頭溝派出所の日本憲兵上等兵河野 と通訳官ら 3人を見つけた。 延吉県遊撃隊長銃隊分隊長の崔賢は、分隊員 4人を連れて上等兵河野ら 2人を撃殺、 通訳官を生け捕り、ピストル 3丁を奪った。

通訳官は “討伐”するための軍事略図を描きに来たと自白しながら “宋老頭”に会わせてほしいと言った。 審問すると、 彼は宋老頭は憲兵隊留置場に閉じこめられている時、憲兵隊に買収され、 “民生団”を組織して遊撃隊を内部から破壊する 使命を持って派遣された人物であるといった。

特委幹部たちが宋老頭を逮捕して審問したら、初めは憤激して “何の罪もない人間を取り調べるのか”と否認した。 しかし 憲兵隊通訳を対面させたところ、宋老頭は何も言えずにうなだれた。こうして “誰が民生団か?”という質問と共に、残酷 な拷問が後に続いて、宋老頭は瀕死状態で問われるままに20人余りの朝鮮族幹部と熱烈分子たちを “民生団同僚”と名指し た。 かくして 7月 14日、民生団が実質的に自然解消した後、抗日遊撃根拠地の内部で新しく反“民生団”闘争が起きるようになった。

当時やっと 25歳になったばかりの延吉県委書記・韓仁権は、宋老頭が拷問脅迫によって公述したすべての言葉をそ のまま信じ、慌てて全県範囲の中共党組織と共青団組織、そして反帝同盟、 農民協会、互済会などすべての抗日群衆団体の 内部で民生団粛清運動を手広く組職、 展開した。 宋老頭は変節漢、 走狗密偵と認められ、処刑されたことは言うまでもない が、彼の公述で指名された 20人余りの人物も即時に逮捕され、審問を受けるようになった。 残酷な肉体拷問と酷い公述脅迫に して無理やりに摘発された、いわゆる民生団員はますます多くなった。 脅迫公述で摘発された多くの人々は真否にかかわらず皆 逮捕、 監禁されて審問を受け、なかでも少なくからぬ人々が処刑された。

反“民生団”闘争の激化

その年冬に至り、葦子溝でいわゆる党内民生団組織事件が発生したが、それは何名かの党員が 八道溝日本警察分署に行って帰順した後、遊撃区に帰って来て家族を連れて行こうとした時に逮捕 されたというものだった。 引き続く日満軍警の血の討伐と困難を極めた遊撃区の生活、そこに内部の 緊張した反“民生団”闘争がますます険悪になる状況に動揺して投降変節した人々がますます増えて 行ったのだ。 しかし遊撃区共産党組職は、このような現象をいずれも内部に潜入した民生団の仕業と 見て、反“民生団”闘争にさらに拍車をかけるようになった。 かくして党内で動揺、変節する者がさらに 増加、反“民生団”闘争はより一層激しく展開されるという悪循環が始まった。

“宋老頭事件”を口火として延吉県抗日遊撃区で殺伐として展開され始めた反“民生団”闘争は、やがて 和龍県に波及した。 1933年 3月、中共東満特委は、組職部長・金聖道を和龍県委に派遣したが、彼は 金シルチョン、李ドンギュ、金ラクチョン(和龍遊撃隊政治委員) など 5人で “清算委員会”を組織し、和龍 県での反“民生団”闘争を組職、 指導した。

彼らは先に平崗農民協会責任者の李ファチュンを逮捕した後、詳しい取り調べもせずに群衆大会で民生 団だと宣布し、即時に銃殺した。今後、和龍県抗日遊撃区でも反“民生団”闘争が本格的に展開され始め た。 金聖道は和龍県へ行って巡視する 2、 3ヶ月の間、革命隊内でいわゆる民生団員を数十人も殺害した。

1933年 6月初、中共満州省委の代表団で潘慶友と楊波が、東満特委所在地である汪清遊撃根拠地に来る ようになり、反“民生団”闘争は新しい高まりを起こすこととなる。彼らは 6月 4日から召集された中共汪清県 委第1次拡大会議で、汪清県委が過日、 “右傾機会主義としては下で革命的現在段階を越えてソビエトを建設 し、土地革命を行おうと思う。右傾機会主義的な実質を隠して満州の偉大な反日民族革命運動を見られなかっ た。 その手違いの内容は、韓国民族主義者と派争主義の残滓と立三路線の関与を包括していた”と結論付け 、県委書記・李用国と軍事部長・金明均 などの指導職務を取り消した。

兔職された金明均は不満を抱き、夫人を連れてそのまま遊撃区をすり抜けて逃げたが、翌日、途中で遊撃隊に 発見され逮捕された。遊撃区に監禁され、組職審査を受けた金明均は深い夜中に機会に乗じて脱出するのに 成功した。 しかし彼を見張った李ゴンスは民生団の烙印を押され、銃殺された。

この事件は東満特委を緊張させた。彼らは元汪清県委書記・李庸国、組職部長・石チョら20人余りの党政軍 幹部を逮捕した。彼らは新たに任命された県委員書記・金権一も逮捕した後、全て小汪清遊撃区に監禁した。

満州省委代表団は、汪清での問題解決を終えた後、楊波は延吉県に行って潘慶友は特 委書記・童長栄の案内の下、琿春県大荒溝遊撃根拠地に至って琿春県党と共青 団拡大会議を7日間召集した。潘慶友と童長栄は、中共中央と満州省委の指 示精神を伝達し、琿春県委が“左”傾路線を執行したと批判しながら、“この地区にソ ビエトを建設したことは左傾路線で、民生団の策動だ”と責めただした。彼らは5月に既に 犠牲になった元琿春県委書記の徐光を名指し批判し、県委を再組織した。そし て嶺北遊撃隊政治委員の朴斗南を派争分子であると批判し、彼の中共党党籍と 政治委員の職務を取り消すと宣布し、拳銃まで回収した。

7月20日、潘慶友は金ナムギュの家で昼食をし、その家の傍らでは一分隊の遊撃 隊員たちが盛んに食事の準備をしながら新たに略奪した日本製3.8式銃 を回し合いながら見物していた。朴斗南もその鉄砲を見ようとして渡された後、すぐに 弾を入れて門前に駆け付け、潘慶友を呼んで叫んだ。

“罪状がはっきりもしない朴斗南を殺そうという貴様こそが先に死ななければならない!”

朴斗南の叫び声に引き続き、銃声が鳴り、潘慶友はその場で絶命した。 名射手である朴斗南は、倒れた潘慶友の身から素早く拳銃を奪い、遊撃隊員た ちに向けて“誰であろうと、私に飛びかかれば殺すぞ”と脅し、山林の中に逃げ てしまった。

潘慶友の射殺は東満特委において一大ショッキングな事件に違いなかった。東満 特委では、宣伝部長・李相黙を琿春県に派遣し、反革命粛清運動を直接指導させた。 李相黙は、琿春党組織、革命政府、遊撃隊と群衆団体の70%が民生団員 だと一方的に宣布し、県委員・呉イルパら区級以上の主要幹部60人余りを逮捕して 嶺北、嶺南の3つの拘留所に監禁、半年余りの期間内にいろいろな 拷問を経て6回に分けて60人余りの幹部のうち韓チャンヒョク一人を除く 全員を殺害した。そして地主、富農家庭の出身である者、文章を書ける 知識人、老幹部、過去に朝鮮独立軍と朝鮮共産党党派に参加した者、活動 中に失敗した者、活動の表現に異常があると見られる者、遊撃区の生活 困難に不平をもらした者、甚だしくは食事中に米粒をこぼした者までも、全て民生 団員だと決め付け、そのうち100人余りを逮捕、虐殺し、遊撃根拠地全体が内 部の恐怖に震えるようになった。

1934年1月、共青団満州省委の報告書によると、1933年8月1ヶ月間、東満で民生団を大々的に 破壊したが、抗日遊撃区と遊撃隊内で民生団200人余りを見付け、その首領12人を選 択して銃殺した。
Copyright(C) 朝鮮族ネット