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39.第1次反“討伐”闘争

日帝は行く先々で全てを殺し、燃やし、奪い、遊撃隊は群衆と共に血の闘争を展開し、根拠地を守る


▲和龍県漁浪村 13勇士記念碑

日帝の野蛮な“三光政策”

“抗日遊撃根拠地が建立され、遊撃隊がますます壮大になることは日本帝国主義の東北植民地統治に巨大な脅威に 違いなかったのです。日帝は遊撃隊と遊撃根拠地を無くしてしまおうと、連続して凄惨な<大討伐>を敢行、特に1932年 春から1935年まで三回の大規模的な軍事<討伐>を敢行しました。第1次<討伐>は1932年春から翌年3月まで進行されたが、 遊撃区の人民と遊撃隊員の反<討伐>闘争はまことに苦しいものだったが、結局日帝の<討伐>を退けて勝利を勝ち取りました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、日本軍の第1次軍事“討伐”について説明してくれた。

1932年4月、東満に侵入した日本朝鮮駐屯軍第19師団の池田大佐が指揮する“間島派遣隊”は、西方の長春から出動した 関東軍第10師団の平賀部隊、北の寧安から増員に来た鶴見部隊と共に、主な住民地域を武装占領すると同時に、間島日本 総領事館所属警察及び満州軍まで総掛かりで抗日革命勢力に対し、第1次“大討伐”を敢行した。

4月3日から7月2日まで日満の軍警たちは東満抗日軍民と100回余りの戦闘を繰り広げ、飛行機を380回も出動させた。年末 まで“討伐隊”は“検挙掃討”を進め、抗日軍民1200人余りを殺害し、1500人余りを逮捕した。翌年3月まで合計381回の “討伐”作戦を敢行した。日本総領事館所属の警察は、322回の作戦(なかでも日本軍との連合作戦196回、警察部隊単独 作戦126回)を進め、抗日軍民2766人を殺傷、2485人を逮捕したと言う。

日本軍警たちは抗日革命地域に対する“大討伐”において、全てを殺し、燃やし、奪う、三光政策を実施した。1932年4月 から5月まで、敵方は汪清県徳源里、ドンイル村一帯を“掃討”したが、“討伐”の中で地下工作員・李ジェボン(金サンファ) と韓ヨンホを逮捕した後、群衆たちが見る前で刀剣で首を切った後、保安大門前の高い木にかけて晒した。日満軍“討伐”隊は、 和龍県平崗溝、開山屯溝、大子溝、三道溝でも野蛮な“三光政策”を進めた。半年も経たぬ間に日帝は、開山屯の子洞を47回も “討伐”し、罪のない群衆43人を殺害した。

4月27日、敵方は延吉溝実験村で東満特委宣伝部長の゙基錫ら28人の抗日志士を逮捕した後、家に閉じこめておいて火をつけ、 焼き殺した。5月、琿春県姻筒子に対する討伐で、その一帯の20余りの部落、 1千余りの住宅を全て焼却、 罪のない民を 数えきれないほど虐殺した。海蘭区花蓮里では、世間を驚かす“海蘭江大虐殺事件”を起こした。日帝は延吉県の依蘭溝、 八道溝、鳳林洞、花蓮里一帯の村を灰燼と化した。

海蘭江大虐殺事件

日帝は早くから花蓮里を中心とする海蘭遊撃区を目に刺さった刺のように思っていた。海蘭遊撃区の人民は、中共海蘭遊撃区 委員会の指導下に秋収闘争と春荒闘争を展開し、反動的な地主、走狗を処断したりした。花蓮里を中心とする海蘭江遊撃区で 革命の炎が激しく燃えると、日本警察と憲兵たちは“花蓮里の根拠地を殲滅する”と叫び、海蘭溝に対する“討伐”を敢行した。

日本の“討伐”隊は、延吉県小営子自衛団団長・崔ナムス、李チョルウ、河東自衛団顧問・朴ヒソン、朴ミョンホ、朴スンジュン、 許ナムチョル、自衛団参謀・金ドンフ、刑事顧問・黄ビョンヨン、保安隊員・徐ボンムク、自衛団候補隊員・尹スンファ、朴ビョ ンスンらを先に立たせ、海蘭江畔の磨盤山、河東、花蓮里、小営子、ファチョムジャ等を絶えず包囲討伐した。日帝は共産党1人 を殺せば15円を奨励し、生け捕りにすれば銃一本を奨励すると言いながら漢奸、走狗たちを煽った。

1932年旧暦3月28日、日本守備隊50人余りは傀儡満州国自衛団と共に、南花蓮里中村、柳亭村、石建坪等の罪なき人民をでたらめ に逮捕して虐殺した。日帝は南花蓮里で青年・金龍洙、中村で義士・金道済を、柳亭村で李東根を、学校村で李氏などを逮捕し 、石建坪に行く町角で18人の罪のない民を逮捕、虐殺した。

日帝と自衛団の弾圧に、海蘭溝の人民は区委の指導下、大胆かつ賢明に日本軍と悪質地主、鉄道警備軍の武器を奪取して自分を武 装する一方、柳亭村、中村、上村ど3ヶ所に鉄工場を立て、秘密裏に武器を製作した。その年7月、抗日遊撃小隊を建立して碧水、フ ァチォムザの地主宅を襲い、武器を奪取し、執事隊に偽装した後、ファチォムザ警察派出所を襲って警察の武器と衣服を奪取した りした。これに対して日帝は、“朝鮮人100人を殺せば1人の共産党員や公聴団員を捕らえることができる”と言いながら次から次 へと人々を虐殺した。

日帝はまた革命隊内に変節漢を送り込み、内部から革命隊を瓦解しようとした。1932年旧暦8月初、海蘭区など3区の抗日遊撃小隊 は、中共延吉県委の指示に従って柳亭村に居住する海蘭区書記・李相根の家に集まり、桂林村に駐屯している40人余りの鉄道 警備軍の武器を奪取しようとする戦闘計画を討論したが、県委から派遣した白昌憲は、襲撃日をだらだらと遅らせた。白昌憲 は革命を裏切って延吉日本領事分館の走狗になっていた。この者は今回の武器奪取計画をチョサム村の李ソンポに知らせ、 李ソンポは走狗・趙ヒェチョンを使って日本領事分館に密告した。密告を受けた日本領事分館では、走狗・李ジヌが率いる“討伐 隊”と碧水自衛団、しめて70人余りを出動させ、旧暦8月7日早朝に機関銃3丁と大砲まで動員して不意に柳亭村を襲った。そして 3軒に分かれて宿泊していた抗日遊撃隊員60人余りは、不意の襲撃を受けるようになった。彼らは5、6時間も反撃を続けた。 日帝は村に侵入して民家に火をつけた。火の中から這い出して来た2歳の子供と72歳のお婆さんを拳銃で突き、火中に戻した。今 度の不意の襲撃で中共海蘭区委の李サングン、張相淳、金ジョンキル、呉ヨンモクら22人の遊撃隊員が犠牲になり、30人余りの 群衆が虐殺された。これが東満全体を震撼させた“8.7”大虐殺だ。

1932年旧暦12月12日、日帝は延吉日本守備隊、警察、河東自衛団で“討伐隊”を編成し、再び海蘭区に攻めこんだ。大部分の 群衆たちは身を避けたがまだ身を避けることができなかった群衆たちは無残に虐殺された。金ハクソンは北花蓮里で自衛団と激 戦の途中、犠牲になり、彼の家族七人のうち嫁と娘がやっと死境から脱しただけで、残り五人の家族は捕らえられ火刑に遭った 。太ミョンクムは小営子自衛団に逮捕されてからソヨン村の井戸に身投げをして自決した。日帝は土窟の中から腸チフスを病ん でいる5人の革命者を逮捕し、薪を組んだ上に乗せて火をつけて焼き殺した。 “討伐隊”は金貴松を捕らえ、銃殺した後に 焼き払い、朴ワンソプを逮捕して彼の身体を縛って煮えたぎる釜の中へ放り込み、21歳の一人息子を殺害、金コノンを石馬に縛 り付けて殺害、金キュシクを眼球をくり抜いた後に棒で叩き殺した。

このように日本軍警と自衛団は延吉県海蘭花蓮一帯の12の自然村と200戸余の住民たちに対して、1932年から1934年まで大小94 回の“討伐”を行い、中共党員と抗日群衆1700人余りを虐殺した。

根拠地を防衛するため

日帝の東満に対する第1次“大討伐”に対し、中共東満特委と各県委では、遊撃隊と赤衛隊、革命群衆を指導して積極的な 反“討伐”戦を展開した。

1933年 2月 11日夜、 中共和龍県委では抗日根拠地・漁浪村で “軍民連合慶祝大会”を開いた。 この大会は二日前、和龍遊 撃隊が日本軍を装って地主の張ボリムの武器を奪った戦果を慶祝するために開いた大会だった。 大会の後、県委書記の崔相東 は金ビョンス、安ハクソン、金ジョンハン、金ドンヘ、文クァンウら区委幹部たちと共に今後のことを討議しようとして夜 明け 3時まで会議をした。

漁浪村抗日遊撃根拠地を目に刺さった刺のように思っていた日本軍は、探りを派遣して漁浪村抗日遊撃根拠地と遊撃隊の実情を 把握した。そんな中、自分たちの鼻の先で “皇軍”を装った和龍遊撃隊が張ボリムの武器を全て奪い取ったという知らせを聞 き、激憤した。日帝軍は頭道溝、二道溝、三道溝と龍井等から日本警察、守備隊、武装自衛団などしめて 360人余りを掻き集め て “連合討伐隊”を編成し、四面八方から漁浪村を囲んで来た。

軍民連合慶祝大会の翌日、夜明けに敵方は漁浪村を漏れなく囲んだ。銃を手にした“討伐隊”が村に近付いた時、ワンジピョン でで銃声が三発鳴った。それは任務を引き受けて出た第2小隊隊員たちが、村に近付く敵を見つけて敵情を知らせる信号だった。 村で歩哨として立っていた第1小隊遊撃隊員・蔡ドンシクは銃声を聞くと直ちに遊撃隊室へ駆け付け、中隊長・金世に知らせた。 蔡ドンシクから歩哨の交代を受けた遊撃隊員・千グクソンも幾重にも囲んで近付く敵を見つけた。

“敵だ!”

千グクソンは高く叫び、鉄砲を撃った。

銃声に驚いて起きた里人たちは、門を蹴って飛び出した。東の空がかなり明るくなった。 村を囲んだ敵は、鉄砲を撃ち始めた。 日本軍は機関銃と迫撃砲射撃をした。たちまち村は砲火に包まれてしまった。

事態は大変な危機だった。もしもう少しでも手間取っていたら、漁浪村にいるすべての党政幹部、遊撃隊、 赤衛隊そして群衆 は敵方の包囲をくぐって出ることができなくなる。中隊長・金世はまず県委機関と群衆を安全に移動させる事にして、中隊を三 つの戦闘小組に分けた後、敵方と生死を分ける激闘を始めた。敵方は優勢な兵力を頼りに、狂ったように飛びかかった。共産党 員・李九煕、 公聴団員・柳沢奎と遊撃隊員・兪万吉は遊撃隊室を陣地にして進軍して来る敵方に正面から反撃した。 遊撃隊員たちの頑強な抵抗に遭い、近付くことができなくなると敵方は遊撃隊室に火をつけた。炎が全体に拡がる中、三人の 勇士はものともせずに敵方に向けて射撃を浴びせた。 火に燃える家が崩れる瞬間、彼らは走って出て包囲を突破している途中、 敵弾に当たって壮烈な犠牲を遂げた。

県委書記・崔相東は群衆を援護して移動させている途中、敵弾に腹部を打たれて倒れた。彼は鉄砲を持って飛びかかる日本 兵の頭に石を投げ付けた後、壮烈な犠牲を遂げた。中隊長・金世、政委 ‘金大嫂“(金ビョンホ)らの隊員は、西の住宅と 垣根に行き、隠れて敵方に射撃を浴びせた。彼らは侵攻して来る敵方を、一回もう一回と撃退させながら、県委機関と群衆の安 全な移動のために激闘し、壮烈に犠牲を遂げた。

戦闘は六時間も続いた。大部分の群衆と幹部たちは山奥に移動した。“討伐隊”は3台の自動車に18体の彼らの死骸と20人余り の負傷者を載せて漁浪村を退いた。その中には“間島派遣軍”軍官の死骸もあった。漁浪村を一挙に占領しようとしていた日本 軍は、遊撃隊の勇敢な反撃を受けて退いた。

この日遊撃隊では県委書記・崔相東、中隊長・金世、政治委員・金大嫂(金ビョンホ)、1小隊長・李九煕、遊撃隊員 の安興元、柳沢奎、兪万吉、金斗鎬、金国鎮、李吉元、赤衛隊隊長・劉億万、赤衛 隊員・李ミョンベ、少年先鋒隊隊長・車貞淑らが犠牲になった。

1933年の初め、日本侵略軍は3000人余りの兵力に飛行機、大砲の援護の下に小汪清と延吉県依蘭溝、石人溝、三道湾、琿春県大 荒溝、姻筒子など遊撃根拠地に向けて大規模な“討伐”を敢行した。

1933年3月、敵方は小汪清遊撃根拠地を重点的に“討伐”するため、2000人余りの兵力を3部隊に分けて、小汪清根拠地に向け て進軍した。東満特委の指揮下に、汪清遊撃隊と李光の指揮する別動隊は、抗日救国軍と連合して遊撃根拠地の周りの山の端に 待ち伏せ圏を広げ、攻め寄せる敵を待った。

3月30日早朝、デドチョンから攻め寄せた一隊の敵は、馬村から2kmほど離れたピョジョク山一帯の包囲圏に入るようになっ た。我軍は有利な地形を利用して敵方に向けて猛烈に射撃した。2時間ほどの激戦を通じて、我軍は侵攻して来る敵方を何回も 退けた。優勢な兵力を頼りに、敵方は我軍の防衛線を崩そうと画策したが、結局防衛線を突破することができなかった。この時 、遊撃隊は主動的に撤退して、敵方の背後へ回って攻撃した。背後から攻撃されるようになった敵方は、どんな状況か判断する ことができずに散り散りに逃走した。逃げた敵方は、押し寄せる兵力を見付け、遊撃隊と思って猛烈な射撃を浴びせ、味方同士で銃撃 戦を始めた。こうして初日の戦闘は敵方の失敗に終わった。翌日と翌々日にも、敵方は各方面から連続して侵攻して来たが、 遊撃隊と抗日救国軍の機動的な連合作戦により失敗してしまった。

小汪清反“討伐”戦で遊撃隊は、日本軍300人余りを殲滅し、銃259丁、迫撃砲4門、その他軍用品を多数略奪した。

1933年、琿春遊撃隊は党の指導の下に各地で主動的に日満軍の“討伐”隊を襲って、抗日遊撃根拠地を勝利のうちに防衛した。

9月、琿春遊撃隊は主動的に黒龍江省東寧県に進撃し、敵方に侵攻空した。10月7日、琿春に帰って来た後、大荒溝近所で“討伐” 隊と遭遇した。何時間もの熾烈な戦闘を経て、朴ジンフン、呉ビンら13人の戦士が壮烈に犠牲になった。

延吉県三道湾抗日遊撃根拠地の軍民は、有利な地形を利用して日本軍“討伐”隊を襲い、何十人かの死傷者を出した。

各党組織の指導の下、抗日根拠地の軍民たちは団結して敵方と勇ましく闘い、巧妙に企てた敵方の第1次“討伐”を遂に退け、 建立されたばかりの遊撃根拠地を防衛した。
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