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38.東満抗日遊撃根拠地

ソビエト政府、政治、経済、文化、労農兵のために服務。東満抗日遊撃戦争の確固たる戦略的基地に建設


▲1933年5月に発行された<両道戦線>第11号の表紙。
抗日闘争の時期、中共東満特委で発刊された機関紙である。

山岳地帯に根拠地建立

日本帝国主義のファッショ統治が極大化され、遊撃隊をその萌芽期に消滅させようとする日本軍の軍事的“討伐”が 死に物狂いで敢行される事により、各地の遊撃隊と大衆は自分を守り、発展させながら、敵を打撃して追い出すため の戦略的基地−抗日遊撃根拠地が緊急に必要となった。

“盛大に進行された‘秋収’、‘春荒’闘争以後、東満地区は基本的に広範な群衆に統制された状態でした。依蘭溝 や百草溝のようなところは、革命群衆によって完全に掌握されていたが、百草溝日本領事分館と官員と警察たちは、 さっさと逃げてしまい、いなかったのです。これは抗日遊撃根拠地建立のための群衆基礎が形成されたことを証明してくれます。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、抗日遊撃根拠地建立のための群衆土台と党のリーダーシップ、及び客観的な有利 な条件などを一つ一つ分析した。

東満の中国共産党組織は、群衆を指導して抗日闘争を進行した経験が豊かだった。1928年、初めて龍井支部を成立させ た時から延辺の共産党組職は“赤い5月闘争”、“8.1”吉敦暴動など大規模な革命運動を指導しながらそのリーダーシッ プを誇示した。また既に500人余りの遊撃隊員を持つ4つの遊撃隊があったし、それよりもっと多くの群衆性の武装組職で ある突撃隊、赤衛隊、小船隊などがあった。地形条件で見ても長白山一帯は高山峻嶺として抗日遊撃根拠地を建立するの に非常に有利だった。

“中共東満各党組織ではこの有利な条件を活かして、敵方の統治が貧弱な山間地帯と農村に抗日根拠地を建立し始めました。”

朴昌c教授の説明だ。

“延辺抗日史跡地研究”(金哲洙)に記載した 1932年(昭和 7年) 11月に分析した日帝の資料によると、 “間島における いわゆる ‘ソビエト区域’”は下のとおりである。

1. 琿春県頭道溝から奥地・草帽頂子に至る地帯.

2. 琿春県ドンポ台から露満国境東南の地帯.

3. 琿春県ファングから伽耶河東北地帯を経汪清県西大坡に至る地帯.

4. 延吉県依蘭溝王偶溝でリュチェグから石人溝に至る地帯.

5. 延吉県三道湾から銅仏寺北の葦子溝に至る地帯

6. 延吉県花蓮里から汪清県境界の泗水坪に至る地帯

7. 三道溝水砧洞から二道溝漁浪村に至る地帯

8. 和龍県得味洞から河広浦平頂山を通って牛心山に至る地帯

9. 延吉県長仁溝から安図県大荒溝に至る地帯

中共東満 党、団特委の事業報告では、当時、赤色遊撃区域について下記のように明らかにした。

汪清県: 荒溝区、 小汪清区、 大荒溝区、伽耶河区

延吉県: 湾口区、 八道溝区、 三道湾区、老頭溝区、 依蘭溝区

琿春県: 荒溝区、 姻筒子区、 河南区、 バンガヨ区

和龍県: 二道溝区

このような地帯はすべて中国共産党とその指導下にある抗日組職が統制している所であった。 言い換えれ ば日本侵略軍の “討伐”により、多くの地方の大衆はやむを得ず山里である上述の地帯に集結し、中共東 満特委を含めた各党組織もやむを得ずこのような山間地帯に移動した。 かくして日帝の侵略統治区域から 遠く離れた上述の地域は、自ずから中国共産党が指導する抗日地域になった。 東満の各抗日遊撃根拠地は このような情勢と土台の上に形成された。

1932年末まで東満には延吉県北部と中部を中心にする延吉遊撃区、汪清県南部と中部及び東部を中心にする 汪清遊撃区、和龍県西部と南部を中心にする和龍遊撃区、琿春県西北部と南部を中心にする琿春遊撃区など 四つ遊撃区が形成されていた。遊撃区内で各県の党組織では遊撃隊と反日群衆たちを導いて遊撃戦を展開す る一方、敵方の統治が薄弱で群衆闘争が活発で進攻、防御に有利な地帯を選び、10余りの遊撃根拠地を建立 した。王隅溝、石人溝、葦子溝、能芝営、小汪清、馬村、 伽耶河、泗水坪、永昌洞、 大荒溝、姻筒子、 漁浪村、牛腹洞などの遊撃根拠地がそれだ。 遊撃根拠地は周囲が 60〜70里、 人口は少なくても 500〜600人、多ければ 2000人以上にもなった。そして中国共産党が指導する抗日遊撃 根拠地は東満の広範な民衆の支持の下に当初の規模を整え始めた。

王隅溝抗日根拠地は龍井北部の延吉、汪清境界にあった。根拠地は王隅溝、北洞、松 林洞、ボンソ洞、依蘭溝南洞・北洞、南陽村などいくつの比較的大きい自然屯を抱き こんでいたが、1000戸余りの朝鮮族農家があった。根拠地が建立された後、中共東満 特委書記・童長栄を指導者とする中共東満特委機関と中共延吉県機関は、朝陽村から 王隅溝遊撃根拠地の古城屯に移って来た。この時から王隅溝遊撃根拠地は東満抗日闘 争の指導中心になった。

琿春大荒溝遊撃根拠地は寧安、密江の北部に 位置していたが、チュンガンジャ、サムアン(ハジュンク)、サンチュンク、チョンスドン、ファング、トング、プック、 デビンラング、ソビンラング、ソデマク、ヤンモクキョジャなどの自然屯を含め、1000 戸余りの住民がおり、面積は1000平方キロ余りだった。

抗日遊撃根拠地が建立された地域で見れば、王隅溝、八道溝、三道湾を中 心とする布爾哈通河以北の山岳地帯、漁浪村を中心にした蜂密溝一帯の 山岳地帯、伽耶河、小汪清、腰営溝を中心にした伽耶河両岸の山岳 地帯、大荒溝を中心にした荒溝嶺以北の嶺北山岳地帯と姻筒子 を中心にした琿春江以南の山岳地帯だ。

根拠地のソビエト政府

朴昌c教授は根拠地内でのソビエト政府の建立についてこのように言及した。

“1932年 6月、 党中央は上海で北方会議を召集し、‘革命危機の増長と北方党の任 務’に関する決議を採択しました。 この決議は実際上、第3次‘左’傾冒険主義 対策を北方地域での党の活動において通達したのです。 この時、中共満州省委で は、組職部長・河ソンサンをこの会議に参加させました。 彼は会議で、満州は特殊な状況にあるが、 それは第一には満州では中国共産党の影響が大きくなく、民衆があまり組織されておらず、 第二には、既に日本が満州を占領している状況であり、満州の革命を武器を奪取して日 製と戦わなければならないということを提起しました. しかし会議は東北の特殊性 を抹殺し、満州省委が提出した ‘東北党の中心任務は武装して日帝侵略に反抗す る’という主張に対して、‘満州特殊論’と批判し、東北も管内と同じく、紅軍と ソビエト政権を建立しなければならないと強調しました。 その結果、東満特委 は仕方なく中央 ‘北方会議’の精神に従って遊撃根拠地に紅色政権を建立し、土地 革命を始めました。”

1932年11月には延吉県依蘭溝、王隅溝抗日遊撃根拠地で、1932年 12月には汪清県5区伽耶河遊撃根拠地、琿春荒溝、大荒溝と姻筒子 遊撃根拠地、1933年1月には汪清県2区小汪清 遊撃根拠地で、1933年2月には延吉県八道溝、石人溝遊撃根拠地 で前後して労農兵代表大会を召集、中華ソビエト共和国の憲法、 綱領、法令に根拠してソビエト区域施政綱領を制定し て旧ソビエト政府と一部の村ソビエト政府を選挙した。延吉県瓮 声子溝の三道湾、依蘭溝の南陽村、延吉県の和連地区、三道溝区の牛腹洞 などの地域では前後して革命委員会を建立し、ソビエト政権の職能を 代行した。

ソビエト政府は古い政権の法令と民族不平等制度を廃止し、 敵に対しては独裁を実施した。 16才以上の労動者、農民及び革命軍人たちには民 主、自由と平等の権利を与えたが、富農にはこのような権利を与えなかった。経済上では 封建搾取制度を排斥し、地主と日帝の走狗、反革命分子の土地、家、農機具 などの資産を没収して、高農、貧農、中農及び遊撃戦士たちに分配した。 8時間労動 制度を宣布し、苛斂誅求を取り消し、累進税を実施した。ソビエト政府では朝鮮人 民会金融部を設置して高利貸搾取を取り消し、無利息貸付の農民信用社を 立てた。ソビエト政府では農民たちを組職動員し、農業生産を推進する一方、兵器工 場、被服工場、病院を立てたりした。

ソビエト政府ではまた、遊撃根拠地に小学校を立て、学生児童に対する“小学校 義務教育法”を公布、実施した。各根拠地では闘争の実際と軍民の需要から出発し てさまざまな形態の学校を建立したが、学校では教育が労動人民と抗日戦争のために 行われ、生産労動と結合するようにした。学校では抗日戦争に必要な人材を養成し た。各根拠地には30余りの学校があった。学校では本民族言語文字で授業した。大 人の社会教育に重視に向けて文盲退治運動を展開した。識者組、夜学校などを立て、文盲 を退治して各人が文を読めるようにした。

遊撃根拠地内では、各種の文芸娯楽活動も活発に展開した。“血海之唱”、 “戦闘的な密林”、“慶祝大会”などの演劇を創作公演し、幾多の抗日歌曲を創作し た。 “闘争”、“二派路線”、“戦闘日報”など刊行物を発刊したりした。

軍事上では遊撃隊の外に赤衛隊、小船隊など半軍事性組職を建立した。

東満遊撃根拠地には1234人の共産党員と830人の公聴団員、1600人余りの児童団員 と赤衛隊員がいた。遊撃根拠地には2万名余りの抗日群衆がいたが、各党組織と遊撃根拠地 のソビエト政府では、群衆運動を活発に展開し、反日会、互済会、児童団、小船隊、 婦女会などの反日団体は遊撃根拠地の生産、建設、戦線支援、上兵看護、歩哨、漢奸防止、 正札、通信、宣伝などに積極的に参加して、遊撃隊の作戦と活動に協力、根拠地の心 強い後軍になった。

遊撃根拠地では小型の兵器工場、被服工場、印刷工場を立て、武器を修理して弾薬、 手榴弾、手製爆弾、軍用刀、拳銃、軍服などを作って遊撃隊に送り、 文化宣伝品と教科書、新聞刊行物を印刷したりした。東満根拠地内には兵器工場4つ、被 服工場4つ、印刷工場3つがあった。

客観的・主観的な原因により、遊撃根拠地はたとえ分散的で規模が小さくて密接に連携する ことはできなかったとはいえ、各党組織の指導の下、根拠地の軍民たちは一致団結 して遊撃根拠地を東満抗日遊撃戦争の戦略的基地に建設した。

“東満抗日遊撃根拠地は東北で古く、最も長く持続した抗日遊撃根拠地でした。 しかし東満党組織が王明が ‘左’傾冒険主義を執行して打撃面を広げたため、 遊撃隊と反日部隊の関係が悪くなり、同時 に遊撃根拠地にソビエト政権を建立し、紅色区域と敵の統治区を対立させ、敵の 統治区内の群衆を争取する活動をしなかったため、紅色区域が孤立状態に陥るよう になりました。 特に日帝に不満を持った富農、 富裕中農など、団結することができる抗日勢力 を抱きこむのに問題があったため、統一戦線を形成・拡大して遊撃根拠地を強固 にし、発展させるのに大きな影響を与えました。” 朴昌c教授の指摘だった。
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