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36.東満抗日遊撃隊 (1)

大衆的な武器奪取闘争、活発に展開。朝鮮族人民、遊撃隊建立の先頭に


▲小汪清にある汪清県反日遊撃大隊指揮所

和龍県遊撃隊

1931年冬から、東満各地では抗日遊撃隊の建立事業を急いだ。和龍県抗日遊撃隊の建 設事業も1931年“秋収闘争”と1932年“春荒闘争”から始まった。

1930年“赤い5月闘争”の後、中共和龍県委、各区と党組織では、開山屯、大子、 平崗、三道溝等では遊撃隊、赤衛隊、突撃隊など共同武装団体を組織した。彼らはこ のような武装団体に基づいて敵方の武器を奪取する闘争を上手に展開した。1932年 春、張洛英ら突撃隊員たちは、開山屯で親日地主である車ソンナムの荘園を襲って機 関銃、拳銃、洋砲一本ずつを奪取した。 6月には開山屯突撃隊隊長・李ドンイルが突 撃隊員たちを率いてソング公安局を襲って鉄砲を奪い、7月には開山屯赤衛隊隊員た ちが白雲坪海館を襲って拳銃を奪った。武器が用意されると彼らは開山屯で開山屯 “拳銃隊”を建立、蔡奎鎮が隊長を引き受けた。拳銃隊は続いて武器奪取闘争を 進めて行きながら、隊を拡大したが、7月末には20人余りになった。

中共和龍県委大子区委では、“赤い5月闘争”の中で建立された赤衛隊をもとに 1932年夏、大子“長銃隊”を建立、金昌渉が隊長を引き受けた。 20人余 りの隊員を持っている長銃隊は金谷、リョンアム、大子一帯で活躍した。その年秋、 長銃隊は大子とハムボドンで傀儡軍輯私隊を待ち伏せ襲撃して3人を殺し、 銃6丁を奪った。彼らは金谷のメバウィサンの洞窟に小型兵器工場を作り、自作 爆弾を作ったり長銃隊の武器を修理した。

平崗区でも1932年夏、赤衛隊を基礎に遊撃隊を建立、金世が隊長を引き受けた。 20人余りの隊員を持っている平崗遊撃隊は平崗、長仁崗、頭道溝一帯で武器奪取闘争 を展開した。秋に遊撃隊は長仁崗と頭道溝の地主荘園を襲って 銃、拳銃など20丁余りを奪取した。三道溝にも10人余りに組職さ れた遊撃隊があったが、彼らは牛腹洞、三道溝等で活躍した。

1932年12月、和龍県委の指示に従って各区の遊撃隊は、漁浪村に集結、和龍県遊撃中隊 を建立した。金世が中隊長を引き受け、“金おばさん”(別号・本名 金ビョンファ )が政委を引き受けた。 1933年1月15日(旧暦)、漁浪村遊撃中隊中 隊長金世は日本軍に変装した14人の遊撃隊員を従えて三道溝の親日悪質地 主・張ボリムの荘園を攻めた。この日遊撃隊は、銃16丁、弾薬500発余り、その 他軍事物資を奪取した。

和龍県遊撃中隊は中共和龍県委の指導の下、積極的に武器奪取闘争を展開し、1933年春 にはさまざまな銃50丁余りで武装した80人の隊伍に膨れた。かくして和龍県遊撃中隊 は和龍県中韓抗日遊撃隊に拡大編成され たが、大隊長を張承漢が引き受けて、政委を車リョンドクが引き受け た。和龍中韓抗日遊撃大隊は傘下に3個遊撃小隊を置き、 平崗、三道溝、大子、開山屯等で続いて活動した。

1934年3月、和龍県遊撃隊は東北人民革命軍第2軍独立師第2団として編成された。

汪清県遊撃隊

中共汪清県委では、1932年の初めに軍事部長金ミョンキュンに遊撃隊 を建立する課業を任せた。金ミョンキュンは2月初に県党連席会議を 開き、敵の武器を奪取して自軍を武装する事にした。 2月20日、金哲は遊撃隊の建立を 控えて大坎子公安派出所を不意討って銃7丁を奪取した。後に続きソクヒョンジャ洞 で自衛団を待ち伏せ襲撃し、銃3丁を略奪した。反日遊撃隊創建の動きを見抜 いた日帝は、“大討伐”を敢行した。 4月初、日帝は朝鮮駐屯第19師団の75連隊・池田大佐 を隊長とする間島派遣隊を組織して“大討伐”を敢行した。日帝は歩兵、騎 兵、砲兵を含む1600人余りの武力に飛行機まで出動させ、大坎子と徳元里、 ドンイル村を掃討して灰燼にした。そしてこれに極度に怒った群衆たちは、抗日に 走った。

汪清県の熱血青年たちは西汪清の崔チャンホの精米所に集 まリ、10人余りで構成された汪清県労農反日遊撃隊の 建立を宣布した。金哲が隊長を引き受けた。会議ではまた李光ら9人を救国軍に 派遣し、統一戦線を強化する事に決め、李光を隊長とする別動隊を組織した。遊 撃隊は裏道の木林の中に丸太小屋を建て、遊撃隊兵営を設置した。

遊撃隊が建立されたという知らせを聞いた革命群衆は、お金があればお金を出して 食糧があれば食糧を出し、猟銃があれば猟銃を出し、 先を争って夫と子たちを遊撃隊に送った。羅子溝太平村党支部の崔ホヨンは、 夜中に太平の地主・富豪の家とサンハムの地主・文の家を襲って銃2丁を奪取 、遊撃隊に送った。群衆たちは何日間のうちに猟銃18丁を遊撃隊に送った。武器 があって隊が増えると、遊撃隊は敵の武器を奪取する一方、遊撃戦を展開し始めた。

5月から金ミョンキュンと李光は遊撃隊と別動隊を従えて哈莫塘で地主の 家を襲撃、銃7丁を奪取、南哈莫塘で満州軍輸送隊を襲撃、敵一個隊 を殲滅し、銃33丁、弾薬10箱、食糧数十袋を捕獲した。 .同じ時期、李ウォンソプの従える遊撃隊は、日帝の軍用自動車を 待ち伏せ襲撃し、銃1丁と多くの弾丸を略奪した。遊撃隊の打撃を受 けた日帝は、血の弾圧を敢行し始めた。日本軍は満州軍と共に 6月22日、龍水洞で罪なき民24人を虐殺した。遊撃隊は龍水洞赤衛隊 と共に潜伏している途中、敵軍に復讐の砲火を浴びせ、 日本軍官2人を含む20人余りの敵を撃殺し、銃20丁と弾丸数千発を略奪した。 僅か2ヶ月間のうちに遊撃隊は迅速に発展し、 遊撃中隊に編成された。金哲が中隊長に任命された。

8月に遊撃中隊は別動隊と協同作戦して、馬鹿溝で満州軍輸送隊を襲撃、敵10人 余りを撃殺して13丁の銃と多くの弾丸を略奪した。その後遊撃隊は、 哈莫塘満州軍の兵営を襲い、ロソンリョンで鉄道警備隊40 人余りを武装解除させ、牡丹地橋頭で満州軍輸送隊を襲い、チョンギョリョン、ミョリョン、 ファンガリョン等を襲った。遊撃隊は東西神出鬼没でお およそ30回余りの連続作戦を展開して、敵150人余りを殲滅し、数十丁の 武器と数千発の弾丸及びその他の兵站品を略奪した。

黄ジェリョンら4人の遊撃隊員は、南哈莫塘から親戚訪問に来た局子街の満州軍営長・孫カの息子 を人質として銃13丁、弾丸1300発を得た。同じ日10 月初に汪清県遊撃隊は自隊の力を拡大するため にツオルゴウに待避している森林隊クアン・デジャン部隊を争取する目的で、政治指導員・金 ウンシクを衛主とした5人の遊撃隊を森林隊に派遣した。しかし官家の背信行為 で金ウンシク、張砲手など4人が殺害され、1人が負傷した。こ れに怒った遊撃隊は、日帝に投降しに行く森林隊を追い討ちして10人余りを殺傷、銃5 丁と馬2頭を略奪した。

1932年春、巡視員の派遣を受けた金日成は、安図県で群衆を発動して抗日武装隊 を建立した。金日成は安図県小沙河から軍事訓練班を作って抗日青年た ちを養成した後、救国軍の別動隊を組職、1932年4月、安図県別働隊は南満地区の朝鮮 革命軍を争取しようと南満遠征をした。彼らは南満を巡視して北上し、寧安県 に到着した。その時寧安県では、金グンの指導下に寧安県 遊撃隊を建立した。 1933年、寧安に到着した金日成の別動隊は 寧安県遊撃隊と共に汪清県に移動し、汪清県遊撃隊と合流、 汪清県遊撃隊に拡大編成し、梁成龍が大隊長、金日成が政治指導員に任命された。

遊撃隊を眼中の刺のように思っていた日帝は、1933年初頭に守備隊と満州軍、自 衛団、警察など700人余りを動員して泗水坪側から攻め寄せた。大隊長 梁成龍は1、2中隊を従えて有利な地形を利用しながら、敵を待 ち伏せ襲撃して30人余りを撃殺した。この戦闘で中隊長・崔ミョンサンは敵20人 余りを倒す輝かしい戦功を挙げた。敵方は仕方なく死骸をひいて伽耶河の方へ逃げ出した。

遊撃隊は日帝の警官と悪質地主及び敵対分子を粛清し、土匪武将を解除し て日帝の間諜10人余りを処断した。遊撃隊は戦線隊を 運ぶ日帝輸送隊を襲撃、敵10人余りを殲滅して銃9丁を略奪したが、伽耶河上洞 で日帝の塩輸送隊を襲って銃3丁を略奪した。金マンサムなど遊撃隊 員たちはドンシン郷に避難している北満労農義勇軍10人余りと救国軍数名を説得して 遊撃隊に迎え入れた。

泗水坪の“討伐”に失敗した日帝は、大兵力を動員して革命根拠地の小汪清に 対する“春期討伐”を発動した。1933年4月17日から3日間にわたって日帝は1500人余 りの兵力を動員して、小汪清溝、大汪清溝、皮溝など三つの谷間を 囲んだ。この時、3中隊は大荒威で、4中隊は腰営溝でそれぞれ保衛の任務を 執行していた。ところが根拠地では二個中隊が数十人の赤衛隊の支援を受けて、 10倍をはるかに上回る敵方と争わなければならなかった。遊撃隊は有利な地形を利用 しながら機動的な遊撃戦術で3日の間に敵400人余りを殺傷、 革命根拠地の保衛戦で輝かしい勝利をおさめた。この戦闘で遊撃隊は爆撃砲4門、銃 253丁と多くの兵站品を略奪した。小汪清根拠地保衛戦の勝利は 軍事政治面で日帝に大きな打撃を与え、革命的人民を大きく鼓舞した。

1934年3月、汪清県遊撃隊は東北人民革命軍第2軍独立師第3団 に改編され、抗日闘争の新しい段階に入った。
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