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35.“瓮声 子事件”と王徳林

愛国兵士、国の主権のために日本人を射殺/王徳林、救国軍起し、対日作戦を展開


▲抗日軍兵を生き埋めにする日本関東軍

愛国兵士の正当行為

“9.18”事変の後、東北各地では中国共産党の全民抗戦の訴えと全国人民の激しい抗日ブームの越冬下、 自発的な抗日武装闘争が起こった。

1931年12月7日、安図県明月溝に駐屯していた吉林省防軍第677団・王徳林3営の愛国兵たちは、国家の 主権を守るため、軍事要衝地である砲台山にある“満州鉄道”株式会社の社員らを射殺した。この事件を “瓮声 子事件”と言う。“瓮声 子事件”は延辺を震撼させた。

当時、明月溝の北にある砲台山上には“路3営”の砲台があった。そして砲台山南側には第9連の兵営が あった。 12月7日、日本“満州鉄道”株式会社敦化−図們線の測量人員7人が9連兵士らが繰り返す警告も ものともせずに軍事要衝地である砲台山に入って偵察活動を敢行した。

砲台山を守っていた9連2隊のソ・デソンとジュ・ドクチンは軍事基地内で観察はできないから直ちに立ち去る ようにと重ねて警告した。しかし日本人たちは兵の警告を全く無視して地形を測量したりあっちこっち観察し たりしながら自分勝手に動いた。日本人たちの無理な態度に激怒した愛国兵たちは、国の主権を守り軍事 要衝地の安全を守るために正当防衛をするしかなかった。愛国兵士ソ・デソンとジュ・ドクチンは日本人たち に向けて引き金を引いた。耳をつんざく銃声と共に日本人2人が即死した。残りの日本人たちは怖がって悲鳴を上げた。

愛国兵たちの正当行為は東満各界の愛国軍民たちの支持を受けた。 12月18日、中共東満特委では“民衆 に告げる文”と“兵に告げる文”を続けて発表し、“中朝兵士と民衆たちは仕事を離れて遊撃戦を展開し、日本 帝国主義を追い出そう”と言うスローガンを提起、愛国民衆はデモ闘争とスト、同盟休学を断行して愛国兵たち を声援することを訴えた。

事件が発生した後、日本の龍井駐在特務機関は、局子街に人を派遣して延吉警備司令官に脅迫をかけた。 既に龍井領事館に“投降”を表明した吉興は頭を下げて謝罪すると同時に、日本人たちの意向に沿ってすぐに 人を明月溝に派遣し、調査を断行させた。同時に煕洽と秘密裏に相談した後、死んだ二人の日本人に見舞金 3千元ずつ賠償する事にした。

吉興の売国的行為は愛国官兵の怒りを催した。延辺駐在の日本顧問などの人々が明月溝に来て、 “瓮声 子事件”を追求しながら駐屯軍に向けて質問すると 、3営営長・王徳林は頭を持ち上げて豪快に答えた。

“砲台山は我軍の軍事要衝地だから、何者も入って来ることができない。二人の日本人が無理やりに砲台山 に入り込んだから殺された。これは我々の正当な任務執行だ。”

“瓮声 子事件”が発生した後、東北軍吉林副指令官公 署参謀長・煕洽は、日本侵略者たちの機 嫌を取るため、山から離れるように忠告した数に言い掛かりをつけ、明月溝の駐屯軍“路3営”を交替させようと した。煕洽は新たに任命された第27旅旅長・王スタンを送り、この一件を処理した。

王徳林、救国軍起こす

敦化に到着した王スタンは、直ちに命令を下して王徳林の“路3営”を明月溝から撤収させた後、敦化に集合さ せ、軍事会議を召集した。会議で王徳林を団長に昇級させながら、続いて“路3営”を導いて黒龍江省に行き、 抗日している馬チョムサン部隊を押えよとの煕洽の命令を伝えた。煕洽の陰謀を看破した王徳林は、当然に命 令を拒否した。王徳林は待機している汽車に乗らず、部隊を導いて額穆に行った後、抗日に出た。

王徳林が抗日に出たという知らせがあっという間に東満に拡がった。王徳林の手下で連長だった呉イソン は知らせを聞いた後、すぐに食堂経営を投げ出して部隊を尋ねて来て、一緒に抗日することを決意した。 和龍県二道溝で警察たちを導いて闘った柴世栄を含む元東北軍の愛国的将兵たちと愛国者、及び青 年学生たちも次々にこの抗日隊を尋ねて来た。サハヨンの富豪デ・ホンチャンは、一家郎党50人余りと一緒 に幾万貫にもなる財産を持って来て王徳林部隊に加入した。王徳林部隊が北に転移して小城子に着いた時 には、既に1500人余りに増えていた。

1932年2月、王徳林は小城子で“挽救危亡、 収復東北”を趣旨とする抗日救国軍の設立を正式に宣告、 王徳林が総指揮を引き受けて孔憲栄が副指揮、呉義成が前方司令を引き受けた。

救国軍が設立されると、国民党投降派の3人の代表団及び吉敦3県使臣代表団が続けて 尋ねて来て官職を与えて要求を聞き入れるなど、王徳林の抗日意志を崩そうと試みた。 これに王徳林はきっぱりと応対した。

“共産党であろうと国民党であろうと私には関係ない。ただ抗日さえすれば良いのだ!”

党派や民族を選り分けず、力を合せて共同抗日し、救国の大業を成そうとする王徳 林の素朴な抗日主張は、共産党と東満の広範な民衆の大きな支持と擁護を受けるよう になった。

共産党員救国軍で活躍

“9.18”事変の後、中共満州省委と各地の党組織では、連合して共同抗日するために幹部と 党員、団員を、抗日義勇軍及び農民たちが自発的に組織した抗日隊の中に積極的に派遣し て活動するようにした。中共延和中心県委では、共産党員・李延禄を秘密裏に救国 軍内部に派遣し、抗日活動をするようにした。李延禄は王徳林の尊敬と信認を得て、 救国軍の前方司令部参謀長兼第1補充団団長を 担任した。李延禄は秘密裏に地下党支部を建立した後、統一戦線活動をした。中共汪清県委 でも李光を呉義成部隊に派遣した。共産党員の 胡沢民も呉義成部隊に派遣され、参謀長としての活動をした。李延禄の推薦によっ て知識層出身の共産党員・孟清、劉静安が救国軍総政府議長に、 金大倫、ハ・ゴムピョンが正副議長に招聘された。

救国軍は抗日救国の旗印を掲げて各地を歩き回りながら日本侵略軍と闘い、 輝かしい戦果を挙げた。

1932年2月、救国軍は敦化県を攻撃することを決めた後、部隊を動かした。 2月20日明け方、李延禄が導く補充団と呉義性が率いる“路3営”先 鋒部隊を主力とした救国軍は、敦化に向けて進撃、あっという間に敦化県 を占領した。日本軍と傀儡軍は400人余りの死亡者を出した。救国軍は引き続いて 額穆県を陥落させた。28日にはまた蛟河県を攻略した。 救国軍は5つの県を占領しながら大量の武器を略奪したが、機関銃28丁とその 他色々な種類の合計1600丁を略奪するという輝かしい戦果を挙げた。救国軍が勝利 したという知らせを東満各地に伝え、広範な大衆を大きく勇気付けることになった。抗 日ブームで熱くなった広範な群衆は、救国軍の勝利に歓呼しながら熱烈に救国軍 に入隊した。救国軍の部隊はいつのまにか4600人余りに膨らんでいた。

王徳林は抗日戦争を長期的に広げるため、寧安地区に戦略的な大移転をする ことを決定、部隊を導いて寧安に向けて進軍しようとした時、日本関東軍・天野旅団長 の率いる日本軍が救国軍を追討して来た。そこで救国軍はすぐに 軍事会議を召集し、“鏡泊湖連環戦役を広げて追い討ちし て攻めて来る敵を殲滅することを決めた。かくして3月13日から27日まで2週間の間、何回も の戦闘を続けて、敵方に大きな打撃を与えた。墻縫伏撃戦だけでも日本軍100人余り を殲滅しただけでなく、旅団長の天野少将まで射殺する戦果を挙げた。 救国軍の勢いが高まると、参軍参戦する人々も増え、この時には15000人の大軍に部隊 が拡がっていた。

“鏡泊湖連環戦役”の大勝利は東満と吉東の抗日 形勢に巨大な推進力になった。 “鏡泊湖連環戦役”はま た各地の傀儡軍を動揺させた。多くの傀儡軍将兵たちは主動的に救国軍 と連繋を結びながら機に乗じて救国軍に参加しようとした。当時、琿春県内 には吉林省防軍第27旅678団3個営があった。 1932年4月、中共琿春県委ではチュ・ウングァン、 朴ジョンテ、呉ビン、尹ソクウォン、ヒャン・ヘミンなどをこの部隊に派遣して抗日 統一戦線事業を展開した。彼らは上層人物たちと兵士らの間で抗日救国思 想と団結し、共同の敵を打ち破らなければならないという革命的道理を宣伝した。彼 らの熱情的な宣伝と根気強い思想政治工作の影響を受けた少なからぬ将兵たちが共産 遊撃隊と合作して共同抗日することを念押しした。かくして琿春県内の第2営、第3営に続けて 抗日の旗印を掲げ、救国軍隊に入ることになった。

その年9月、抗日遊撃隊と救国軍は、琿春県等で連合作戦を展開して 日本侵略軍を襲撃、戦果を挙げた。救国軍は先立つ4月には寧安を占領 して各界民衆の熱烈な歓迎を受けている。

“鏡泊湖連環戦役”は人民にはこの上なく大きな勇気付けとなったが、 日帝には深刻な打撃だった。日帝は彼らの失敗を挽回するため、4月3 日、会寧に駐屯している歩兵第75連隊長・池田大佐が率いる第19 師団の2個の歩騎砲工混成大隊を出動させ、悪名高い“間島大討伐”を大規模 に敢行した。

救国軍は戦略的な大移動を勝利のうちに完成した後、寧安で吉林省内の多くの抗 日部隊の連席会議を召集した。会議では東寧を救国軍の後方 根拠地にすると決めた。会議ではまた、李杜を吉林抗日連合軍総司令兼自衛軍総指揮に、 丁超を護路軍総指揮、王徳林を救国軍総指揮に決めた。同時に張振邦を 21旅旅長兼抗日連合軍左路軍総指揮とした。寧安会議の後、吉林省の各分岐点抗日部隊は 適宜連合しながら作戦を進行した。

救国軍の失敗

7日、吉敦の抗日部隊は、寧安県でまたソビエト連席会議を召集した。 会議で正式に吉林抗日連合軍司令部を設立、各軍部指揮を総司令に決めた。 王徳林が抗日救国軍総司令となった。 1932年9月、 “9.18”事変1周年になる 時、中共琿春県委では馬滴達小学校で3000人余りが参加した“兵民連合大会 ”を行った。 100人余りの救国軍将兵が大会に参加した。この時、救 国軍は5〜6万名に発展した。救国軍は寧安を中心に東満と吉東の広い地 域を歩き回りながら、日帝侵略軍を攻撃した。そして日帝の一番大きな障害となった。 日帝は大量の兵力を集中して王徳林部隊に向けて“討伐”を敢行した。 1932年から延辺、 汪清、牡丹江、ハルピンから出兵した日帝軍は、東寧区一帯に向けて侵攻した。

1933年1月1日、日本軍は10師団第8旅団に支隊を編成して 磨刀石に侵攻することを言い付けた。救国軍参謀長・李延禄は補充1団、 2 団及び17団を率いて磨刀石に陣を張っていた。日本軍は何回も猛攻を突き付 けたがどうすることも出来なかった。午後、救国軍が陣地を修理しているところを 敵方が装甲車と重砲により猛攻して来た。戦闘は緊張中、熾烈に展開した。 我軍が徐々に敵方の攻勢に押されるようになると、李延禄は1隊の兵力に援護させる ようにして、撤収した。結局、磨刀石は敵方の手に落ちた。かくして全ての中東路東線は日本軍の統制 に入ってしまった。敵方は兵力を集中して東寧の救国軍指揮部を 集中攻撃して入って来た。 1月5日、 6000人余りの日本軍と傀儡軍が飛行機の配給を受けながら、 二つに分かれて東寧県に接近して来た。救国軍は耐えることがで きずに撤収してばかりいた。東寧県外の防衛戦は連続して 敵方の手に落ちて行った。形勢はますます厳しくなって行った。

1月6日、日本軍は再び兵力を増加して東寧を猛攻した。敵方に包囲された救 国軍は孤立的な戦闘を続け、弾薬さえ不足するようになった。ここに各旅団と相談 した後、王徳林、孔憲栄は1月13日、ソ連国境にまで撤退した。 1月14日、 東寧は敵方の手に落ちた。ここに王オクジン部隊は敵方に 寝返り、救国軍前方司令・呉義成だけが吉敦地区で抗日を続けていたが、 1933年12月、部隊を率いてソ連国境を越えてしまった。こう して東満と吉東地区で1年余り抗日の旗印を掲げて争った救国軍は厳しい挫折 を迎えた。救国軍の一部の部隊が共産党が指導する抗日遊撃隊と合作し て戦闘を続けた外には、大部分の部隊は基本的に瓦解し、救国軍の武装抗日は失敗を宣 告することとなった。
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