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34.抗日武装隊建立のために

勇敢に賢く武器を奪取。地元兵工機工場で“延吉爆弾”製造

明月溝会議

1931年10月12日、中共中央は満州各党組織に日帝の侵略に反対する大衆闘争を展開するよう訴えた後、 党組織の力が強くて群衆の土台がしっかりしている地方では遊撃隊を創建し、遊撃区を開拓せよという指示を下した。

1931年11月16日、中共満州省委では、中央の指示精神に基づき、巡視員を派遣して遊撃隊を創建する事業決定を出す と同時に、楊林を省委軍委書記に召還し、中共大連デモ書記・童長栄を中共東満特委書記に任命した。 12月16日中共 東満特委は童長栄の主催により延吉県明月溝で東満各県の責任者と党、団の熱烈分子40人余りが参加した会議を開いた。

“9.18”事変が起こった3日後の9月21日、延吉鎮守使兼吉林省防軍第27旅旅長である吉興は、龍井駐在日本総領事館に 人を派遣し、投降の意を伝逹した。かくして延辺は銃声一発も鳴らさずに日本軍の占領地になってしまった。日帝の侵 略に直面した東満各県の党組織では、直ちに事業重点を抗日救国闘争に移し広範な大衆を率いて新しい抗日運動を展開し た。新しい情勢に対応して抗日闘争を新しい段階へ発展させるために、東満特委では“明月溝会の”を召集するようになったのだ。

“当時、会議参加者のひとりである金日成同志の回顧によれば、会議に車グァンス、李グァン、蔡スハン、金イルフ ァン、梁成龍、呉ビン、呉チュンファ、呉チュンソン、具ボンウン、金哲、金チュンクォン、李チョンサン、 金イルリョン、金チョンリョン、韓イルクァン、金ヘサンを含めた40人余りの青年闘士たちが参加したという。これらの うち李光、梁成龍、呉チュンファ、呉チュンソン、金哲らは、汪清県代表たちで、蔡スハン、金イルファン は和龍県代表、呉ビン、李チョンサンなどは延吉県代表たちだ。ひとつ疑問なのは、汪清県代表である呉チュンファは1931 年春に逮捕されてソウル西大門刑務所に閉じこめられた後、1932年12月に釈放された点だ。会議は1931年12月に開かれたか ら、呉チュンファがこの会議に参加する時間がない。”(金哲洙“延辺抗日史跡地研究”)

“明月溝会議”では群衆の土台がしっかりしていて、敵の統治力が弱い地帯を選択し、大衆闘争の基盤の上に遊撃隊を創建 し、遊撃区を開拓することについて、1931年10月12日、中共中央の指示精神と中共満州省委の“兵士事業を強化して遊撃隊を 設立することに関する決定”を伝達した。会議では中共中央と満州省委の指示精神によって、農民運動に対する中国共産党の 指導を強化し、大衆を発動して遊撃隊を創建し、遊撃戦争を展開することに関する問題、各党組織を建立して反帝同盟、公会、 農民協会、婦女会、少年先鋒隊、赤衛台などの団体を発展させることに関する問題、年末前に債務に反対し、苛斂誅求に 反対する闘争を展開することに関する問題、春荒闘争を準備することに関する問題、兵士事業を展開して兵変と義挙を組 織して武器を奪取することに関する問題など、さまざまな課題を討議決定した。

“明月溝会議”は東満の党、団の熱烈分子たちの精神を奮発させ、中国共産党が東満地域で抗日遊撃隊を創建して抗日遊 撃根拠地を創設、抗日救国闘争の新しい高揚期を迎える上で必要な思想的、組織的な土台となった。

武器奪取闘争

秋収春荒闘争を経た延辺の人民は、強大な日本侵略者と争うには武器がなければならないということをもう一度つくづくと 感じるようになった。しかしこの時期、武器の解決は易しい事ではなかった。独立運動の時期にはお金さえあればロシアか らいくらでも武器を買うことができた。しかしこの時には、ロシアが既に社会安定を実現し、盛んに社会主義建設の熱が上 がっている時で、武器をどこでも手に入れることができる社会環境ではなかった。また中国政府の共産党反対の理念差異と 日帝と地方政府の収奪、 “討伐”により、武器を得るのが極めて難しかった。そこで延辺人民は日帝と地方政府の収奪、 “討伐”においても握りこぶししかなく、軍資金を献納する僅かな力もなかった。この時にただひたすら、手ずから敵方か ら武器を奪った。武器といっても冶匠みたいな“兵器工場”で作られた刀、銃、自作爆弾みたいなものが遊撃隊を創建する 最初の武器になった。

“敵方の手から武器を奪取するために専ら対策を講じたが、生死を問わず賢く敵の武器を奪取した幾多の逸話を作り出しま した。ある地元では女性達が川端で洗濯をしている途中、洗濯を放置して軍警をひやかしながら武器を奪取したし、湧き水を 浴びせておいて武器を奪ったりもしたし、唐辛子粉を相手の目にかけて鉄砲を奪ったりもしました。金チュンジンという若い 兄弟が鉄砲を奪った話も本当に面白いです。”

延辺大学歴史学部・朴昌c先生は、武器奪取のために争った心の琴線に響く話を一つ一つ聞かせた。

1931年夏のある日、煙集江付近の畑で作業をしていたチュンジンの兄弟は、警官一人が腰に拳銃を下げてふらふらしながら 歩いて来ることを見て、あいつの鉄砲を奪ってやろうと決心した。

チュンジン兄弟は警官を大声でからかいながら石をどんどん投げつけ、怒らせた。川を渡ろうとぐずぐずしている警官がチ ュンジン兄弟を呼んだ。チュンジン兄弟は気が向かないような顔を見せながら、のろのろと警官に近付いた。警官はチュンジ ンに自分を負って川を渡りなさいと号令した。川の中心に至ったら、水が太股を越えた。警官は靴が濡れるようで、身をかが めて両足を逆立てた。その瞬間、チュンジンは警官を水中に逆さに落とした後、片手では頭を水中に押し込み、他の片手で持 っていた拳銃を抜き取った。それからは川から出て山を登って行った。川から出た警官はずぶぬれの惨めな姿になっていた。 チュンジンの兄弟はその帰り道に遊撃隊を尋ね、鉄砲を捧げて遊撃隊員になった。

女性達も知略で武器を奪った。 1932年秋のことだった。敵の保安団の子分たちは、常に王隅溝のトソン村へ来て乱暴をは たらいた。その日も保安団子分の7名が村の北のある小屋にやって来た。 “人参採集者”に扮装した婦女会会員たちは、お湯 を注いでやった。煙草を勧めながら、彼らを“熱情”的にもてなした。お昼にお酒まで出されて、すっかりのぼせた彼らはい い気持ちであお向けに倒れて、いびきをかいた。夕方、眠りから覚めた彼らは帰ろうと急いだ。 “人参採集者”はまた酒とお つまみをこしらえながら夕食を食べてから行きなさいと奨めた。 “人参採集者”の“熱い熱情”にすっかり油断した7名は、 再び座りこんでお酒を飲んでから倒れて寝た。この時、隙をうかがっていた赤衛隊員たちが飛びかかり、彼らの鉄砲を奪った 後、“延吉爆弾”で7名を全員殺してしまった。

“ベガムト”の話も東満人民の間で長い間伝えられている伝説的な話です。

開山屯地区で活動した地下共産党員・李ドンイルは、鉄砲を奪取していて、遊撃隊にすぐに来なさいという上級党組織の指 示を受けるようになった。同志らと討議したあげく、ソング村にある公安派出所を討とうと作戦を立てた。

1932年旧暦5月20日、だしぬけに冠をかぶった葬列が、ソング公安派出所に入った。喪服を着てベガムトを被った青壮年の 中には少年たちもまじっていた。葬祭、服人、弔客たちで構成されたこの葬列は、20人余りだったが、喪主のような中年 男が最前に立った。男は派出所に入ると両手を取り合って所長に挨拶した。

所長は椅子に座ったまま身を反らして座って、ベガムトをジロジロ見た。彼は葬列をただ素直に返そうとしなかった。 ベガムトは所長が今無茶なことをしているということを知りつつも、わざと分からないふりをしながら“屠殺税”を納 めに来たと惚けた。あの時には冠婚喪祭に牛や豚を取ろうとすれば、公安派出所の批准がなければならなかったのだ。

“お父さんが急に亡くなったので、牛を捕らえました。”
“何でまた、誰のために牛なのだ。豚でもよかったのではないか。”

ちょうど昼時なので、所長は長いあくびをして意地悪そうにつぶやいて引き出しを捜し、屠殺税受庫紙を取り出した。 あちこちと鉛筆を探し、台帳に書き込もうとして頭をテーブルに埋めた.この時だと思ったベガムトは一目散に飛びかかって 所長の胸に拳銃を突き付けた。やっと目が覚めて腰に付けた拳銃を取ろうと思ったが、カバーを外す前に捕らえられてしまっ た。そこで急に昼御飯を作っていた職員が人の声を聞いて包丁を持ったまま現われた。ベガムトは軽々と職員の胸倉に向けて 引き金を引いた。弾ける銃声と共に職員は倒れた。

後列を守っていた葬礼者たちは火がついたように押し寄せ、荷袋を押し開いてそこに隠しておいた棒や斧を持って派出所に攻 め寄せた。昼寝をしていた警察たちが銃声に驚いて飛び起き、座りはしたが、なぜか事情を把握することが出来なかった。 派出所に走り寄って来た葬礼者たちは、雷雨の如く飛びかかって壁にかかっている鉄砲を奪い取った。

真っ昼間に葬礼行列を装って公安派出所に攻めこんだ人々は、他ならぬ開山屯学生赤衛隊員と小船隊員たちであり、烏帽子 を被って喪主に変装した男は学生赤衛隊隊長の李ドンイルだった。その日、彼らはソング公安派出所を襲って銃8丁、拳銃 1丁を略奪するという輝かしい成果を挙げた。

“延吉爆弾”

東満遊撃根拠地の兵器工場で作った地元製武器のうち、遊撃隊たちの歓迎をことさら受けた武器があるが、それがまさに “延吉爆弾”である。日本の軍警たちは“延吉爆弾”という言葉だけ聞いても肝が冷えた。

1931年末、中共和龍県大子区委書記の金イルファンは、区委拡大会議を開いて抗日武装隊の建立と武器解決の問題につ いて討議した。会議には金谷村党支部書記の孫元金、赤衛隊隊長・張ウォン、金谷村の朴砲手らが参加した。会議参加者た ちは敵方の手から武器を奪取するほかに、この際、我々で兵器工場を立てて武器を製造しなければならないと一致して 認めた。そして延吉職業学校から労動者として働いたことがある孫元金と武器を上手に扱う朴砲手が武器製造課業を引き 受けることになった。

孫元金と朴砲手は南浦の原理を利用して爆弾を作る事を決心した。二人は金谷のメバウィ山に上がってちいさな小屋を作 って爆弾製造に必要な道具を用意した。この時から金谷村には設備のささやかな兵器工場ができた。

孫元金は工場の戦友たちと共に爆発威力を高めるための方法を多方面に研究した。彼らは窓戸紙を購入して装薬箱を作り、 遂に爆弾を製造した。爆弾を試験爆発して見ると、威力は大変なものだった。空家で響く爆弾音は騒々しく、家の周囲は黒 い煙で包まれた。彼らは音が格別に大きなこの爆弾を“音爆弾”と名付けた。孫元金は本格的に“音爆弾”を生産して各部 落の赤衛隊に送った。

“音爆弾”は威力を見せてくれた。敵方は“音爆弾”が炸裂する音だけ聞いても恐れおののき、ばらばらと逃げた。その度 に赤衛隊員たちはその隙に乗じて彼らの武器を奪いとった。ある日、赤衛隊員たちは警察署を襲った。ある赤衛隊員が火を 点けて投げた“音爆弾”が署長のすぐ足元で爆発した。 “音爆弾”は名前のとおり、ものすごい音を出して破裂した。しか し警察署長たちは一つも怪我をしなかった。結局“音爆弾”の弱点が敵方に暴露されてしまった。かくして兵器工場に急に 新しい爆弾を作り出す課題が出来た。

朴砲手が“唐辛子爆弾”を作り上げてはどうだろうかと申し入れて来た。幼い時、父親に付いて穴熊を捕まえに山に行って から起った事だと言う。穴熊の巣を見付けて煙を立てて入れたのに、穴熊が出て来ないので、父親が顔をしかめて思案したら、 思いついたのが唐辛子粉を燃やすことだった。すると穴熊は辛い臭いに耐えられず出て来たしまったのだ。朴砲手は火薬に 唐辛子粉を交ぜて爆弾を作ったら、“唐辛子爆弾”になるのではないかと言った。結局“唐辛子爆弾”を試験製造する事に 決定した。彼らは試しに先に決まった量の火薬に唐辛子粉を交ぜた後、火をつけてみた。火薬に火がついて唐辛子粉が乗り 始めると涙が溢れるような辛い臭いが漂った。

“唐辛子爆弾”を作り出した孫元金は、ある日の夕方、コソク洞の岩場で新しい爆弾試験をするようになった。雷のような 爆発音と共に、きつい臭いがぱっと広がると集まった人々は咳込み、涙と鼻水が止まらず、途方に暮れた。大成功だった。 兵器工場では人手を急き立てて“唐辛子爆弾”を生産した。

“唐辛子爆弾”は威力を誇示した。赤衛隊員たちは前後してネヨンピョン、八家子、半截溝の警察に“唐辛子爆弾” を炸裂させ、武器と弾薬を奪取した。

1932年春から東満各地では党が指導する抗日遊撃隊が普遍的に創建され始めた。形勢の発展によって“唐辛子爆弾”もその 使命を果たすようになった。 “唐辛子爆弾”はやはり殺傷力がなかったからだった。抗日遊撃隊では殺傷力がある爆弾を 要求した。そして“砂利爆弾”を作って爆発試験をした。効果は上々だった。

“砂利爆弾”は行く先々で日本の軍警を手厳しく痛めつけた。このようになると彼らは新しい爆弾の出処を知ろうとして 死に物狂いになった。

孫元金は万が一の場合を考えて、兵器工場をメバウィ絶壁中腹にある天然洞窟に移した。後に洞窟が彼らに発見されると メバウィから南東へ15里ほど離れたアルミデに移し、武器生産を続けた。彼らは絶え間ない実践の中で“砂利爆弾”の原 理を応用して“鉄屑爆弾”を製造し始めた。兵器工場では釜や火鉢みたいな鉄器を砕いて砂利に代えて使用した。そして 爆弾の威力を高めたのである。

しかし“鉄屑爆弾”も時には暴発事故が起こり、遊撃戦に影響を与えた。孫元金は戦友たちと共に細心の注意を繰り返し、 試験を経て爆弾が湿り気を防ぐような対策を講じた。彼らは薬桶をブリキで作り、密閉した後、火薬を入れてから表面に 鉄屑を付けた。その後にブリキで外被をもう一層被せ、針金で網のように結んで置いた。すると爆弾は湿り気を防ぎ止め ることができ、暴発事故が起こらなかった。こうして爆弾を徐々に自分の威力を発揮して戦闘員たちの士気を鼓舞し、 日本人たちを恐れさせた。

東満各県で抗日遊撃隊の爆弾を受け、“鉄壁陣”と誇った彼らの砲台と城郭が激しい“鉄屑爆弾”の爆音と共に崩れ、 幾多の兵営が砕け散り、幾多の日本軍警たちが死亡した。

延吉地方の日本軍警たちはこの爆弾にどんなに恐れをなしたことか、“延吉爆弾”という名前を付けた。
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