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33.秋収・春荒闘争

農民たち、地主の食糧庫崩して“減租減息”実現。飢餓の中で地主たちの倉庫開き、春の食糧解決

“9.18”事変

1931年9月18日夜、日本関東軍は瀋陽の北大営を攻撃し、東北を侵略する全面的な攻撃を始めた。

“9.18”事変が発生した翌日、延吉鎮守使兼吉林省防軍第27旅旅長・吉興は、吉林府司令官公署参謀長 である煕洽の指示に従って代表を派遣、龍井村領事館に投降してしまった。そして日帝は軍隊を派遣せずに、 居ながらにして延辺を占領してしまった。この時から延辺の多くの民族・人民たちは、全ての東北の人民たちと同じく、 日帝の支配下過酷な植民地生活をするようになった。

“9.18”事変が発生した翌々日の9月20日、中国共産党は全国多くの民族が正義の要求を代表して“東北3省に対する日本 帝国主義の占領に反対する中国共産党の宣言”を発表し、全国人民は仕事を休んで抗日救国を訴えた。中共満州省委でも 緊急会議を召集し、“日本帝国主義の満州に対する武装占領と目前の党の緊急任務に対する決意”を作った。満州省委ではまた、 “満州の朝鮮人労動者、農民、学生及び労苦大衆に知らせる文”を発表し、日帝の抑圧と搾取によって惨めな生活をしている 朝鮮族人民たちは、中国共産党の指導下に多くの民族人民と一致団結し、日本帝国主義侵略に反対して民族の解放を争取しな ければならないと訴えた。

9月28日、中国東満特委でも緊急会議を開き、中共満州省委の指示を伝達した。東満特委では“日帝の満州占領に反対する緊 急決議案”、“日本の満州占領に反対して大衆に知らせる文”、“農民運動決議案”、“士兵運動決議案”など一連の文件を 続けて発表し、抗日救国運動を力強く推進し進めた。そして延辺各地では各種の反日団体が組職され、さまざまな形式の反日 運動が展開された。党の指導下にある“反日会”、“反帝同盟”、“農民協会”など大衆団体が次々に立ち上がり、反日集会 とデモ行進を断行した。当時、延辺各地で意気高らかに起った“秋収闘争”、“春荒闘争”はこのような歴史的環境で起った。

秋収闘争

1931年春、東北軍閥政府傘下の吉林省政府では、“3.7”、“4.6”減租法令を頒布した。しかし地方の地主たちはこの法令を 実行しなかった。かくして中共東満特委では、この機会に広範な農民たちに“日本帝国主義を打倒しよう”、“‘3.7’、 ‘4.6’制を実施しよう”と言う闘争スローガンを出して秋収闘争を起こした。

1931年9月、延吉県老頭溝付近の800人余りの農民が先に党の訴えに呼応して秋収闘争の烽火を上げた。彼らは中共老頭溝区委 の指導の下にデモ行進を行い、地主の荘園を包囲し、食糧倉庫を収奪して食糧を小作農たちに分配した。

闘争の炎はあっという間に延辺全体に拡がった。延吉の小営子、和龍県の子洞、三東浦、泉坪、厚洞、汪清県の百草溝、 西汪清、琿春県の密江などで連続して闘争が起きた。今度の闘争に約1万5000人余りの農民が参加したが、闘争は4ケ月の間も持続した。

東満各地で起きた“秋収闘争”の中で、延吉県の“秋収闘争”が最も激しかった。 1931年10月、延吉県委では東満特委の 指示に従って秋収闘争を発動する事に決定し、県委書記・金ソンドをマバンサン地区に派遣、直接闘争を指導するようにした。 11月中共、海蘭溝委と延吉区委は合意を見た後、先にファリョンリ、桂林村、河東、オンリム洞、マバンサン、ブアム、 グァンフン村、小営村の農民たちを発動して減租減息を基本内容にした秋収闘争を開始した。各村の農民代表会議でカン・ テイクなど5人を代表に選出し、11月5日、小営村大地主の任ポソンと減租減息に対する談判を進行する事に討議した。この 消息を聞いたグァンフン村西区公安派出所の警官たちは村民代表5人を逮捕して派出所に拘禁した。

ここに海蘭溝委では直ちに党、団支部、反帝同盟、農民協会、婦女会、小船隊、赤衛隊など何百名かを動員し、11月6日、 代表たちを拘禁しているグァンフン村西区派出所を幾重にも囲んで代表たちを釈放することを強力に要求した。群衆たちの 抗議を恐れた公安派出所所長はすぐに代表2人を釈放して3人は局子街延吉県公安局に護送したと説明した。そこでデモ群衆は 公安派出所所長を戦闘に立てて直ちに局子街に向かった。途中で延吉区委の煽動に発動された延吉の青年学生と延吉近郊の農 民数百人が走り寄ってデモ行列に加わり、局子街に達した時、デモ群衆は数千名に達していた。県政府を取り囲んだデモ群衆 は、県長を出せと叫んだ。県長は“民乱”が爆発するのを恐れ、拘禁された農民代表3人を直ちに釈放すると同時に減租減息 に対する要求を受け付けると表明した。

農民デモ群衆は、釈放された農民代表たちを連れて小営村の大地主・任ボソンの家に着き、徴収し過ぎた小作料をもとの通り に小作農たちに分けてやった。この日、太陽郷、八道郷を含む烟集崗、臥龍洞、ソピョン、クァンドル村、クァンソク 村一帯の農民群衆千名余も局子街東市場に駆けて来て県政府を包囲している延吉溝、海蘭溝の農民デモ隊に合流した。任ボソ ンの倉庫を壊して、彼らはその帰りに延吉西郊にあるサン・バルウォン大地主の荘園に押しかけた。この知らせがテピョン郷 に伝わるとチュンビョン村、チュンフン村、ファンド村、テフン村、フェニョン村、五合宮、チャンスン村など多くの村の千 名余りの農民が飛び出し、局子街から上って来るデモ隊に合流した。

サン・バルウォンの地主は長蛇の列を成したデモ隊を見るとびっくり仰天した。彼は慌てて局子街にある民国軍隊司令部に電 話をかけ、救援を要請した。彼の要請に応じて民国軍隊司令部では騎兵百名余を派遣した。騎兵隊は農民デモ隊を追い越して 来て、解散しろと叫んだ。農民デモ隊リーダーである李シンジュンは“屈強な百人を選抜して核心隊を作り、その左右に群衆 隊を整列させて闘争隊を編成すること、核心隊はどんな事があっても動揺しないこと”を指示した。僅かな間に闘争隊を再編 したデモ群衆は、百人の核心隊員を先頭に建てて民国騎兵部隊と対決した。

農民代表が出て“私たちは省政府の布告どおり‘3.7’、‘4.6’制の実施を要求するだけであり、他の意図はない”と言うと、 騎兵隊指揮官が“省政府の布告どおりに分けるように我々が保証するから、解散して帰るように”と言った。 “それは出来な い。私たちは今日、直接、分配を受ける。”農民代表の断固たる返事だった。双方では頑としてお互いに譲歩しなかった。

談判が長引くと、農民闘争隊の指揮部では、各村毎に闘争に参加した農民たちにご飯を供給するようにと指示した。ある村で は小車でご飯を運んで来たし、近い村では女性達が籠に食べ物を詰め込んで駆けて来た。民国騎兵隊は仕方なく退きながら布 告どおり食糧を分けて行くように言った。農民闘争隊は続いて続いてクスハ方向へ進みながらソピョン、クァントンの小地主 たちと交渉して順調に減租減息を実現した。日が暮れるとこの日夜はクァントン村に泊った。明くる日夜明け4時頃から、各村 からご飯を運んで来始めた。デモ農民たちは朝御飯を腹いっぱい食べた後、クァンソク村の地主チョン・ジョンバンの家に向 けて急ごうとすると、金鉱労動者百名余が駆けて来て、核心隊に加わった。そして闘争の勢いが一層高くなった。チョン・ジ ョンバンは省政府の布告どおり“3.7”、 “4.6”制をすぐに承認した。農民たちは倉庫をかきわけて、小作農たちに穀食を 返した。農民隊はさらに進んで、チュンフン村地主ス・プンリムとオン・ジョンプンの家に飛びかかった。二人はすっかり恐 縮して順従だったタデモ隊は意気揚々と、沿道のチョン・ヨンキュ、ク・ジェヒの家とテフンのシム・ウォンの家を荒した。 とりわけ、日本人所有であるク・ジェヒの家では、農民闘争隊を親切にもてなし、何もいわずに減租を受け付けてくれた。

フェニョン村で二度目の夜を過ごし、三日目、農民隊はクスハ一帯で有名な悪質地主であるチャン・チョンランと対決した。 官庁で承諾すれば減租要求に応じると言いながら、チャン・チョンランは大門を締め切った。闘争指揮部では隊伍を2つに分 けた。核心隊から500人と農民群衆2千名余を選んで、チャンの荘園を鉄桶のように囲み、逃げ出したり、外界と連携すること ができないように見張り、また核心隊員500人と農民群衆千名余に組み合わせされた他の闘争隊は、すぐにわき道の公安派出 所に向かい、この2隊間の連絡任務は赤衛隊と小船隊で引き受けた。農民たちは土地問題は組長を尋ねて解決しろという派出 所所長を連れて組長を尋ねたが、組長はぶるぶると震えながら自分と関係ない事だと惚けた。農民たちは組長と所長を連れて チャンの家に向かった。この時、合流した二隊の農民闘争隊は4千名余に達した。農民たちがチャン・チョンラン、組長、派 出所所長らと談判する間、保衛団長が兵士数十人を連れて駆けて来た。

保衛団の兵士らが鉄砲を撃つと脅しながら農民闘争隊を解散しろと叫ぶと、指揮部では予め約定した暗号どおり命令を出し、 核心闘争隊は直ちに長蛇の列に変わって頭としっぽをかみ合わせ、保衛団も派出所所長も組長もチャン地主も囲み、そのまわ りを数千名の群衆が囲んだ。当惑した団長は、関与しないから帰ってくれと言って哀願し、所長も関係しないと言った。農民 代表たちは地主チャン・チョンランが協議書にハンコさえ押せばすべて返すと約束した。チャン・チョンランは震える手で協議 書にハンコを押すしかなかった。

勝利した農民闘争隊は核心隊を先頭にパルド郷チャンフン村地主のソタ・メテの荘園に向かった。チャン・チョンランが屈服 したという知らせを聞いたソタ・メテは素直に協議書にハンコを押した。闘争隊がパルド郷管轄にあるチョン・サビン、チェ ・ソクマの家に着くと、この者等は二つ返事で減租要求を受け付けた。これ以外に各村の小地主たちの倉庫を各村の農民たちが 自ら解決する事にした。三日の間進行したパルグ農民秋収闘争は大勝利に終わった。

春荒闘争

秋収闘争に引き続き、1932年春、中共東満特委では、農民たちの春の食糧難を解決するため、“日帝及び彼らの春の食糧難を 解決するため、日帝及び親日派を打倒し、彼らの財産と食糧を没収して貧しい農民たちに分けてやろう!”、“地主から食糧を ‘借りて’飢饉を乗り越えよう!”などのスローガンを提起して車両闘争を展開することを農民達に訴えた。この闘争をいわ ゆる“春荒闘争”と言う。

1932年2月、延吉県依蘭溝のリュチェ、南陽村、王隅溝の数百人の農民達が党の指導下、“春荒闘争”の烽火を上げた。 農民闘争隊は、九龍坪にある日本警察分署を包囲、襲って日帝の走狗たちを清算し、彼らの食糧を没収して貧しい農民た ちに分けてやった。闘争で逮捕された同志らを解放するために、農民隊は九龍坪日本警察分署に向けて進撃した。日帝は 警察たちと傀儡保安団を出動させて群衆たちに向けて発砲した。これに怒った群衆は命がけの格闘を繰り広げた。

依蘭溝の“春荒闘争”は燎原の炎の如く東満地区全体に拡がった。老頭溝、大子、開山屯、大荒溝、烟筒子、 大坎子の農民たちも蜂起した。車両闘争は徐々に走狗清算闘争、武器奪取闘争に移った。多くの土豪劣紳、親日地主たち が肝を潰して都市へ逃げたため、大多数の農村の一級基層政権が基本的に麻痺状態に陥り、党が指導する革命群衆の統制下にあった。

飢餓にさまよう飢民大衆よ
都市から農村から立ち上がれ
餓死の農村から搾取制度を
金槌でツルハシで打ち砕こう...

農民たちは“飢民闘争歌”を高らかに歌いながら闘争に飛び出した。琿春県駱駝河子の地主ウォン・デスンと繰り広げた “春荒闘争”は良い実例だ。ウォン・デスンは日本の忠実な走狗で奸悪だ極まりない大地主だった。ウォン・デスンは、 600余筆の土地と数十もの馬小屋を占めていた。 1932年春、 “春荒闘争”の炎は琿春にも蔓延して来た。中共琿春県委の 直接的な指導の下に、大荒溝、中崗子、烟筒子等の数千名の農民たちは“春荒闘争”にはせ参じた。

3月初旬のある日、 250人余りの男女が各々米袋、鎌などを持ってラクタハザにあるウォン・デスンの家に向けて進んだ。 公聴団荒溝区委書記の南ソクウの父・南ドクヒャン、児童団団長の全キオクが隊の最前列に立った。

“日本帝国主義を打倒しよう!”
“日帝走狗を打ちのめし、彼らの財産を没収して貧困な農民たちに分けてやろう!”

天地を震わす掛け声が駱駝河子の谷間にこだました。その前年、秋収闘争でひどい目に遭ったウォン・デスン は怖気づいてぶるぶると震え、大門の外にまで出て出迎えながら何の幼児か、要求どおりにすると言った。そこで 先頭に立った南翁が“食糧がなくなってしまったので、少しいただけないかと思って来た”と大きな声で言 った。ウォン・デスンは、“好きなだけ持って行って下さい”といって、召使に食糧庫の門を開けるように言った。 南翁が叫ぶと250名余りの男女が歓声を挙げて食糧庫へ押しかけた。

狡猾なウォン・デスンは農民たちが食糧を運び出している隙に、自分の腹心を馬に乗せて日本領事分館へ送った。 程なく日本領事分館警察派出所のジープ二台がウォン・デスンの家に入った。警察派出所の三原が車から降り、ず るそうに笑いながら上手な朝鮮語で誰が責任者かと聞いた。南翁が出て自分が責任者だと答えた。

いつのまにか日本人たちは250人余りの男女に幾重にも取り囲まれた。衝天する勢いに押さえ付けられた三原は、 ウォン・デスンの耳に何やらひそひそと話し、笑いながら言った。

“皆さん,静かにしてください。私はみなさんの今度の巨事に同情を表します。ただいまウォン・デスン先生も慈善 心を施して、いらっしゃった皆様にピーナッツと豆を一袋ずつプレゼントすると言いました。そして代表のお二人様 を日本領事分館に送れば牛20匹に米も送って上げます。”

三原はわざとらしく約束状まで書き、農民たちの中をすり抜けて来て逃げ腰になった。

闘争で勝利した清水洞農民たちはウォン・デスンの家で昼御飯まで腹一杯食べ、各々ピーナッツと豆を一袋ずつ持って、 足どり軽く帰路についた。

今度の春荒闘争に参加した農民は20万名に達した。
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