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32.間島農民暴動

半年間に680回余りの暴動を起こし、封建勢力を攻撃、土地革命を断行


▲1932年、秋収闘争の時、人民群衆が壊してしまった和龍県三道溝の日本警察署(資料写真)

中共東満特委建立

“<8.1>吉敦暴動に続いて延辺各地では、連続して暴動が起きたが、<5.30>暴動が起きた1930年後半だけでも多様な 暴動が前後して680回余りも起きました。村毎にに暴動委員会が建立され、農民たちは<暴動!暴動!また暴動!>の掛 け声を叫びながら熱狂的な気持ちで闘争に臨みました。このような暴動はすべて中国共産党の指導の下に起きたが、 目的は土地革命の実現と遊撃隊と遊撃根拠地の創建にありました。歴史上でこの暴動を<間島農民暴動>と言います。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、延辺での今回の闘争は、中国共産党の第2次“左”傾路線の影響下で犯した“左” 傾冒険主義であり、闘争でたとえ失敗しても中外反動勢力に対して余すところなく打撃を加え、広範な群衆の中に中国共 産党の影響を深く植えてくれたし、党の基層組職はもちろん、公聴団、農民協会、反帝同盟、反日会など、群衆団体が大 きく拡がるようになり、堅固な群衆基礎と幹部基礎を磨くことになったと指摘した。

1930年9月20日、中共満州省委巡視院の蓼如院は、省党委に“東満の吉敦鉄道沿線の各県を巡視したことについての事業報 告”を提起し、25日蓼如院の報告に基づいて満州省委では“指示書”を出し、東満特委を設立することを要求した。同時 に延吉、和龍、汪清、琿春、敦化、安図、撫松、樺甸、額穆、長白など10の県を東満特委で指揮することを決めた。 “指示書”は東満の今後の中心任務と策略及び組職建設、宣伝などの問題をつぶさに定めていた。

10月10日、蓼如院と楊林は、省党委の“指示書”を持って延辺に来て、中共延和中心県委幹部会議を召集し、 “指示書”を伝達した。会議で中共東満特別委員会を建立した。特別委員会は蓼如院、楊林、王耿、朱建、 リュウ・チウォン、リ・ヨン、リ・ヨングクなど7人で構成、蓼如院が書記を引き受けた。組職部長を王耿、 宣伝部長を朱建、交通部長をリ・ヨン、秘書処長をラ・イル、青年部長をリ・ヨングク、婦女部長をリ・ インファルが引き受けた。省党委の指示精神に従って延辺地区の反日武装闘争を強化するため、会議では中国東 満特別委員会軍事委員会を設立、楊林が軍事委員会書記になった。委員会は楊林、リュウ・チウォン、宋ククソらの 3人組で構成された。

意気上がる暴動

1930年9月、中共満州省委では“右傾思想を乗り越えて”、 “土地革命を深く展開して”“ソビエト政権を建立して” “地主の一切の土地を没収すること”を東満党組職に指示し、敦化と延辺の遊撃隊を整理して、“紅軍第44軍を創建”し、 “各地で遊撃戦争を展開すること”を訴えた。東満の党組織では省党委の指示と訴えを貫徹し、東満全体に“秋収暴動”を 意気高く展開し始めた。

9月、延吉、和龍、汪清3県の群衆たちは、党組織の指導下に建立された“暴動委員会”と“行動委員会”の組織下に蜂起をし て、親日派と悪質地主たちを清算、彼らの家屋を燃やしてしまい、敵方の電話線を切ってしまうと敵の拠点に爆弾を投げて 現金、武器などを奪取、地主、富農、高利貸業者たちの土地文書、小作契約、高利貸付文書などを燃やしてしまった。 10月 には延吉、和龍、汪清3県の489人の群衆が遊撃戦に参加し、親日派33人を処断、悪質地主の家屋29軒を焼却し、反動文書を燃 やして地主の食糧倉庫を開き、貧困農民に分けてやった。

“延辺抗日史跡地研究”(金哲洙)は当時、“朝鮮日報”1931年4月12日に掲載した間島農民暴動についての記事をこのよう に書いている。

去年1年間に朝鮮人共産党員が吉林内で暴動を起こした被害調査が、省内各県政府から吉林省政府に到達した情報によれば、去 年1年間に共産党の暴動事件の被害状況は次のとおりだ。

吉林省間島の延辺は、暴動の中心地だったが、事件が一度発生(5.30暴動)すると引き続いて起き、実に680回にも達し、死亡者 160人余りで、今後もその運動がどこまで及ぶのか予測することができない。

(1)暴動事件総計684件、 (2)朝鮮人死亡者116人、 (3)中国人死亡者47人、 (4)朝鮮人負傷者47人、 (5)中国人負傷者27人, (6)放火焼却家屋253軒、 (7)放火焼却学校34校、 (8)電信、電話施設被害41件。

闘争中、各地ではソビエト政府、革命委員会などを建立して、赤衛隊、赤色遊撃隊を創立した。中共延和県委員会では平崗区 で延和県革命委員会を開き、農民協会を組織した。革命委員会傘下に土地部、軍事部を置いて土地革命と遊撃隊、赤衛隊建立を 指導した。各地党組織の努力下に中共東満特委傘下に遊撃隊、延和県革命委員会傘下に赤色遊撃隊そして羅子溝、平崗区、開山 屯、三道溝と吉敦などの地区に、8つの武装隊が組職され、紅軍の創建のための武器奪取、軍資金募集などの闘争を推進した。

第5次間島共産党事件

意気高い大衆暴動は、日帝と地方政府に厳しく脅威を与えた。暴動を押えるために日帝は既にいる400人余りの警察の外に、 朝鮮から106人の警察を補充し、軍閥政府とひそかに通じて隊“討伐”を敢行した。中国軍閥政府では、9月25日にはまた “吉林省匪賊討伐司令部”を新たに設け、一連の反共条例と“法規”に関する訓練を頒布した。そして2個団の兵力を延辺と 吉敦鉄道沿線に配置し、“暴動”を弾圧するようにした。1930年6月から6ケ月間、日帝は前後34回にわたって880人の朝鮮族革 命群衆を逮捕、19人の漢族を除き皆、朝鮮族革命幹部と農民たちだった。今度の大弾圧で日本間島総領事館で受け付けた逮捕者 は1200人余り(軍閥政府の軍警が逮捕した重要人員も引き取った)であった。反動的で親日的で腐敗した無能な軍閥政府は、 逮捕した朝鮮族革命家たちを日本の要求どおり日本領事館に渡してやり、日帝は延辺の内政を公開的に干渉し、1200人余りの “被告人”らを裁判した。

今度の弾圧事件で1200人余りは日本領事館の“領事裁判権”によって“初審”を経たが、“初審”中いろいろな酷刑を恣行し たため、10人が獄死した。600人は“無罪釈放”になったが、数ヶ月から1年の郡中の苦しみを味わい、いろいろな酷刑を受け、 釈放以後にも“要視察人物”の名簿に上がり、日本警察の監視を受けた。残り430人はソウルに圧送された。日本は430名の“囚人” を40回余りにわたり圧送し、公判に供される銃砲、爆弾、刀、石斧、石塊と宣伝ビラ、文件など5000与件を2台のトラックに ぎゅっと詰めてソウルに送った。.

ソウル刑務所では彼らを“予審取調”したが、“予審取調”中、カン・リョルモら20人余りが重病にして獄中で死んだとか、 保釈されて家に帰って来て死亡し、それ以外の1人は保釈中につき“予審”に参加できず、残り390人が24種の“罪名”で予審 終決を終えた。なかでも朴キュチャンら118人が“免訴処分”を受け、1932年12月に釈放されたが、実際上2年の獄苦を受けた ことになる。結局それ以外の272人が裁判に回された。ところで公判に回附された後、カン・キョンモら10人が獄死し、その外 4人は重病で裁判場に出ることができず、結局出廷したのは260人だった。

日帝は“被告”らを取調する一方、ソウルに700人を収容することができる裁判所を補修しようとして、3年間をかけた。 ついに1933年9月25日、彼らに対する公判が始まった。このように規模が大きい“大事件”の判決は、朝鮮国内では初めての 事件だった。今度の“間島暴動”公判は概して18回にわたって進行され、裁判所は既に補修されたが西大門刑務所から裁判所ま で“被告”らを押送するのが彼らには“頭痛の種”であった。

1933年9月22日、23日、24日、東亜日報に連載された報道によれば、上記西大門刑務所で貞洞路地を抜けて裁判所に至る路上に は、鐘路警察署の警官50人が総動員され、それでも不足でソウル市各警察署から100人の警察をさらに動員し、しめて150人の 警察と日本憲兵隊が出動した。早朝から非常警戒を実施し、漏れるところなく警戒網を伸ばし、“被告”らを京電バス一台に 20人ずつ7〜8台のバスに積んで2回に分けて護送したが、公判が18回にもなっているところを見ると、全体で36回も往復したという。

公判といっても形式に過ぎず、“被告”側を弁護する弁護士はありえず、ただ検事たちが“罪状”を公訴して裁判長が“審問” し、“被告”らが返事するだけだった。検事らは暴動の現象のみを列挙して、いわゆる“殺人、放火、強盗、窃盗、銃器取締違反” など24種に達する“罪状”を“被告”らに言い渡した。しかし李ドンソン、ジュ・ヒョンカプ、高ハギョンらの革命家たちは公判の 場を日帝国侵略者たちの侵略罪行を糾弾する場所にし、堂々と抗弁した。 公判で死刑を受けた人々は李ドンソン、崔クァンオク、呂チァンホ、金グァンムク、金ドンピル、リュウ・テスン、金ウンス、 高ハギョン、閔チャンシク、池リョンホ、朴クムチョル、金ボンソク、趙ドンリュル、李ソンチョル、権テサン、許ワンジン、 朴ドンピル、金リョンウン、李チョンリプ、金クムナン、朴イクソプ、ジュ・ヒョンカプなど22人で、無期刑を受けた人々は 金ミョンウォン、朴ボンヒョン、車ビョンチョル、安ウンソン、金ジュンコルなど5人だった。

1936年7月20日と21日、 22人の革命者たちは赤旗歌を歌いながら敵方の絞刑場に上がった。これが第5次間島共産党事件の結末だ。
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