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31.“8.1”吉敦暴動

怒った暴動隊、地方軍警と激突、悪辣なる地方軍閥、血の弾圧強行

暴動の画策

“1930年、中国共産党中央委員会は、第2次<左>傾機会主義路線の支配下に<革命勢力の回復期>を<革命の高潮期>と 見誤って全国的な大暴動を発動して、<一つまたはいくつかの省で先に革命の勝利を争取することで全国革命の勝利を 達成、ひいては世界革命の勝利を推進しなければならない>と訴えました。もちろん延辺でも例外なしにその影響を受 けました。 1930年8月1日、敦化、額穆地区の朝鮮族人民の起こした武装闘争がその実例です。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、1930年の“‘8.1’吉敦暴動”の歴史的背景と規模をつぶさに説明してくれた。

中共中央“8.7”緊急会議の“左”傾路線をずっと執行していた中共満州省委では、延辺の“赤い5月闘争”を重ねて肯 定しながら新しい闘争を開始することを指示した。 7月中旬、中共満州省委で事業会報に行った中共延辺特別支部書記・ 王耿が帰って来た。彼は“赤い5月闘争”の経験教訓を総括して、延辺の大衆運動をさらに一歩推進するため、“8.1”蜂 起を発動することを決意した。

“<8.1>吉敦暴動は、その間にあった<5.30>暴動とは違いました。 <5.30>暴動では主な標的は日本でしたが、今度の暴動 ではその標的は主に中国地方軍警でした。暴動の目的は、中国地方軍警の武器を奪取して中国共産党が指導する赤色遊 撃隊を創建し、地方ソビエト政権を樹立するためであった。”

朴昌c先生は今度の暴動の目的を説明した.

1930年7月中旬、中共満州省委では金、王氏の姓を持った二人を巡視員として延辺に派遣した。巡視員は敦化に行った後、 帽児山(現在の賢儒郷帽児山)で幹部連席会議を開き、暴動に該当する問題を討議して暴動計画を研究した。会議では今度の 暴動の総指揮を中共吉敦臨時政府の馬天穆が引き受けると宣布した。朝鮮族で黄埔軍官学校卒業生である馬天穆は北伐戦争 が失敗した後、延辺に帰って来て革命活動を展開していた。

総指揮傘下に行動委員会を設置したが、黄世亨が委員長を引き受けて組職部長を姜世一、宣伝部長を韓光宇が引き受けた。 総指揮部傘下に3つの暴動大隊を置いた。

第1大隊は額穆大隊で、金明均の指揮の下に 7つの破壊隊と 2つの襲撃隊で編成、総人数は 200人余りだった。 破壊隊は新 甸-吉林間の 2つの鉄橋を破壊し、新甸−蛟河、蛟河−螺子山、蛟河−黄松甸、蛟河−二甲子区間の電線を切って襲撃隊は 二甲子区と管地の駐屯軍兵営を襲う事にした。

第2大隊は敦化大隊として姜世一、李ハクキョンが指揮した。総人数は 400人余りだった。 彼らは南黄泥河の公安局第3派出所、 新開道保衛団第1正隊第1分隊の兵営、マホ駐屯の陸軍第7連隊遊撃中隊の兵営を襲って敵方の武器を奪取する事にした。

第3大隊は蛟河大隊で、指揮は韓イルクァンが引き受けた。 これらは蛟河の北にある謀監所と保衛団を襲う事にした。

怒りの声、波のように

1930年 7月 31日夜、各地の暴動隊員たちは予定した地点に集結してから、翌日 8月 1日夜明け 2時に同時に暴動を起こす。 額穆大隊の破壊隊は吉林−蛟河−敦化−新甸区間の交通と通信網を断絶させ、暴動が順調に進むように手を打った。

8月 1日夜明け、敦化大隊の金イクスが指揮する 40人余りの暴動隊は、洋砲、ピストル、自製爆弾そして棒などを持って新 開道の保衛団第1分隊の兵営を襲った。 暴動隊員たちは兵営の東の絶壁をよじ登り、兵営の中に手榴弾を投げ込んで、洋砲 を撃った。16人の兵は 7月28日に皆山に入って、この日兵営には 5人の雑用人たちだけだったが暴動隊員たちの攻撃に 2人 が軽傷を負った。雑用人たちは驚きのあまりがたがた震えるだけで、反抗する意欲も出すことができなかった。 暴動隊員 たちは武器庫に突撃し、16丁の銃と弾丸1000発を奪い、兵営に火をつけて撤退した。

マホに駐屯している陸軍第7連隊遊撃中隊の兵力を襲う任務を引き受けた 100人余りの暴動隊員たちは、指揮・韓光宇の指 令によって先に 3人の隊員を派遣、闇に乗じて兵営東の土壁に大きな穴を開け、通路を作るようにした。 マホは敦化から 大蒲柴河、樺甸等へ通じる重要な交通要地で、牡丹江上流地帯を統制する重要な場所だ。

8月1日夜明け2時になると、暴動隊員たちは先に開いた通路を兵営の中に攻めこんだが番兵に発見され反撃された。約2時間 の合戦を経て敵兵7人が負傷を負い暴動隊員・趙キュソン、朴パルアムら3人が犠牲になり、20人余りが逮捕された。暴動隊 はやむを得ず南山方向へ撤退した。

8月1日夜明け2時、洪一山、尹順燦、李炳浩が率いる20人余りの暴動隊員は、南黄泥河にいる県公安局第3派出所を襲った。 暴動隊員たちは派出所の西の壁をよじ登り、歩哨兵を倒して兵営に向けて銃を撃ち、手榴弾を投げながら猛攻、2人の警察を 負傷させた。しかし警察たちが狂ったように反撃したので暴動隊員たちは仕方なく撤退した。

鄭哲浩、李範竜が率いる100人余りの額穆襲撃隊の暴動隊員たちは8月1日夜明け、官地に駐屯している陸軍第7連隊8中隊の兵 営を襲った。襲撃隊は兵営西南の平地を通り、爆弾で番兵を倒し、銃一本と弾丸50発を奪っ後、兵営に向けて猛射撃を浴び せた。爆弾音に驚いて飛び出して来た官兵たちは、直ちに鉄砲を持って反撃、多くの暴動隊員が逮捕され、3人の暴動隊員が 犠牲になった。 (その後8月15日夕方、29人の暴動隊員が再度8中隊兵営を襲ったが、やはり失敗した。)

この日の夜明け、額穆大隊の一部の襲撃隊員たちは、額穆県税務分局に攻めこんで税務文書、契約文書などを焼却してしま うと、被服類や現金などを略奪、 2人の税務署員を負傷させた。暴動隊員たちはまた地方政府の食糧倉庫をかきわけ、食糧 を無償で漢族農民たちと朝鮮族農民たちに分けてやった。

第3大隊である蛟河大隊も韓イルクァン(元ソサン派公聴会南満地区責任者)の指揮下に蛟河近辺の数ヶ所の村、蛟河の南10km 地点にある村の民衆を動員して3つに分かれて進撃、蛟河から北に約40km離れた保甲所と保衛団を襲う事にした。

7月31日、チョン・ロインを送り、敵情を探知した後、イリハ一帯の100人余りの暴動隊員は倹城中学校出身である林学善、 崔武甲らの引率の下、斧、くわ、棒などを持ってイリハ川を渡り、真っ暗な夜道を手探りしながらウィグチァムに向けて 進んだ。村の婦女たちも暴動隊員たちが食べるご飯と茹でたとうもろこしなどを持って暴動隊員に付いて歩いた。ナムカ ンジャでも権泰山らが率いる40人余りの暴動隊員がソブテ河を渡ってイキクに到着し、そこの暴動隊と力を合わせた。ナ ムカンジャとイキクの二つの暴動隊は、文成国の統一的な指揮の下、ウィグチァムに向けてずっと進軍した。ナムデトンの 20人余りの暴動隊員も韓イルクァンの指揮の下、50km離れたウィグチァムに向けて31日、日中に発ってオリムグの方へ出発し た。彼らはツルハシ、シャベル、斧などを持ち、働きに行く農夫のように装って三々五々群れをなしてオリムグを経てウィ グチァムに向かった。

3つの暴動隊はウィグチァム付近で合流し、8月1日夜明け2時になると、予定された計画どおり歩甲所と陸軍保衛団兵営を囲 んだ。暴動隊は番兵を倒し、銃を略奪した後、兵営に向けて突進して入って行った。番兵の怒鳴り声に驚いた官兵たちが鉄 砲を振り回しながら狂ったように反撃した。ツルハシ、シャベル、斧など原始的な武器しかない暴動隊員たちはでたらめに 浴びせられる銃弾の前に、それ以上進むことが出来なかった。そしてバラバラと掻き分けられて退却するしかなかった。

血生臭い弾圧

民衆たちの攻撃を受けた地方軍閥は、暴動群衆たちに血生臭い弾圧を始めた。1930年9月、吉林に“防共事務処”を設立、 12月には“吉林省匪賊司令部”を新設し、“吉林省官民が共産匪賊を防止、討伐することに関する奨励及び懲罰規定”、 “吉林警察、保衛団の共産運動防止法”など数十種類の法令を公布した。そして陸軍歩兵第7旅団第19連隊と第13旅団第7連 隊を動員させて延辺と吉敦鉄道沿線“大討伐”を敢行した。

“8.1”吉敦暴動を弾圧するために派遣された13旅団第7連隊長・王スタンは、300人余りの精鋭部隊を従え、敦化へ来て本 部を設置し、地方に駐屯している公安警察と保衛団を全部出動させて諸所で革命群衆を逮捕した。地方軍警の簡単な統計に よると、敦化にいる第7連隊本部倉庫に70人余り、蛟河公安局に78人、しめて277人が逮捕された。蜂起に失敗した暴動隊の 大部分は既に敵方の弾圧を避けて近所の山の中に入って行き、隠れていたから、拘禁された大部分は罪のない民衆たちだっ た。 8月26日から27日まで、地方軍警が逮捕した人々を審問したあげく大部分の群衆を釈放して嫌疑のある21人を引き続き 監禁した。なかでも李サンスなど15人は、敦化県の外で軍警たちに残虐に殺害された。ヒャンスハジャでは12月中旬、2人が 犠牲になり、吉敦臨時党部の責任者だった馬天穆も1930年、蛟河監獄で犠牲になった。今度の暴動の指揮者である李ヒョンジ ュン、韓イルクァンらは吉林監獄に押送されたが、“9.18”事変の後、全員釈放され、延辺に出て闘争を続けた。

今度の暴動の失敗要因と意義について、朴昌c教授はこのように打ち明けた。

“中国共産党の第1次<左>傾機会主義路線の指導下に進行されたので、冒険的で盲目的だった。満州省委と延辺党組織が、 年が若くて闘争経験が不足していた。闘争の標的を日本の侵略者たちに向けたのではなく、地方軍閥に向けた。漢族を含 めた多くの民族人民たちを動員することが出来なかった。しかし今度の闘争で地方軍閥勢力に一定の打撃を与え、朝鮮族人 民たちの反帝反封建闘争の精神を充分に誇示した。暴動を通じて朝鮮族人民は中国共産党の方針と民族平等政策をより理解 するようになり、闘争方向を明確にできた。今度の暴動を通じて中国共産党の影響は吉敦地区の朝鮮族人民の中により深く 浸透し、朝鮮族人民の中で党組織と革命団体が迅速に拡大していった。”
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