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25.第2次間島共産党事件

共産党自派中心に満州総局を編成 日帝の野蛮な弾圧で東満青年同盟解体


▲日本統治時代のソウル西大門刑務所(資料写真)

党内派閥闘争

朝鮮共産党の主導権を掌握していた火曜派は、朝鮮共産党満州総局が設立されたその日から満州総局を火曜派 中心に組織しようとしたが、勢力が強い上海派と青年運動で優勢を占めているエムエル派があって、思い通りに はならなかった、火曜派の゙奉巌、崔元沢、金燦などは上海派の尹滋瑛、金河球、エムエル派の金応燮、イルク ーツク派の金哲勲などを吸収して、表面上は各派で作られているように見える統一総局を設立した。しかし実際上 、火曜派が依然と責任秘書、組職部長、宣伝部長(上海派の尹滋瑛が病気を理由に宣伝部長を降り、後任に火曜派 の金東明が赴任)、委員などを占めるようになって指導権が火曜派の手に掌握されていた。後にエムエル派の朴允瑞 を軍事部長に補充選挙したが、結果は火曜派とエムエル派間の対立を激化させただけだった。

1926年5月、満州総局では金東明(火曜派)に高麗共産青年会満州総局を組織する任務を与えた。しかし当時、エム エル派では既に高麗共青会満州秘書部を組織し、実権を掌握していた。このような状況を知りつつも金東明は高麗 共青会満州秘書部と何らの詳論もなしに金海一、カン・ウ、洪ウォンソク、韓ジン、全スンウ、崔ドンウク、李周和 、金勲、金東明ら9人で高麗共産青年会満州総局を構成した。ここにエムエル派の朴允瑞は自分が満州総局に入れ ないことに大きく不満を抱き、金東明に“個別行動を取って別個の共青を組織した”と抗議して来た。上海派でも火 曜派のこんな仕打ちに対して意見があった。かくして高麗共産青年会満州総局は一時、危機に直面するようになった。

1927年8月金東明が朝鮮共産党満州総局の宣伝部長に赴任した後、高麗共産青年会満州総局の責任秘書をエムエル派の 李ジョンヒが引き受けることになった。李ジョンヒは金東明が申し入れた高麗共産青年会満州総局委員名簿を無視し、 李ユンス、朴サ、カン・ジン、韓イクグク、金グァングン、韓サビン、朴ビョンヒらを委員として提起した。ここに朝 鮮共産党満州総局の崔元沢は李ジョンヒに元々の決定を執行することを命じたが、李ジョンヒは朝鮮共産党満州総局 内に派閥闘いがあるという理由で崔元沢の命令を拒否した。かくして火曜派、エムエル派、ソサン派(ソウル・上海派 )の間の内部対立は激化した。

1927年10月2日、“第1次間島共産党事件”が起きた。朝鮮共産党満州総局を指導した崔元沢を含む主な幹部たちが一挙に検挙された。

“朝鮮共産党満州総局は、<第1次間島共産党事件>で深刻な打撃を受け、麻痺状態になってしまいました。そこに創立当 時から潜在していた多くの派閥の間の対立が、この事件をきっかけにさらに悪化し、各派では<自派中心>に革命勢力を 編成し始めました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は当時、党内多くの派閥が主導権問題を巡って対立した、大きな矛盾を打ち明けた。

1927年10月9日、満州総局の幹部たちである金河球、朱建、李シン、チョン・チャンスン、金ワン、チョン・ウル サンらは寧安県章河の徐ビョンテクの家に集まって今後の事業方案を討議した。会議ではまず李スン、チョン・チャン スン、金ハンホなど3人を延辺に派遣し、検挙された党員たちを慰問し、基層組職を再建しながら日帝と地方政府の 動態を把握することを決めた。同時に組職部長にチョン・リョンラク、宣伝部長に金ボンマンを臨時に選抜した。東満区域 局の事業は、残っている党員たちがしばらく責任を負う事にした。満州総局と東満道(1928年1月、区域局を道と改称)間の連 携は林民鎬、チョン・リョンラク、金キチョル(金マンソン)らが責任を負う事にした。

3つの満州総局

林民鎬、金キチョルらは延吉県瓮声子に来て李スン(エムエル派)らと討議した後、今後の朝鮮共産党満州総局と東満道幹 部は、高麗共産青年会(エムエル派)の中から顔役を選抜して登用する事に決めた。これはエムエル派の本位主義の傾向だった。 彼と反対に上海派の李ファンス、朱建、金ヒチャンなどは上海派の中から満州総局と東満道の幹部を出さなければなら ないと思い、満州総局と交渉した。 “10.2”事件すなわち“第1次間島共産党事件”で特に損失を受けなかったエムエル派と ソサン派は、主導権を巡って徐々に熾烈な攻防戦を展開したが、対立は本格的に激化し始めた。

一方、火曜派はたとえ“10.2”事件で損失を被りはしたものの、金チャンの指導下で満州総局を回復した。候補委員として いた李東山が責任秘書を引き受け、金聖得が組職部長、金洪憲が宣伝部長、崔忠浩、陳墟、李又影らが委員を引き受けたが、 これは火曜派一色の満州総局だった。

ここに朴允瑞は朝鮮共産党中央に火曜派の“典型行為”を訴訟してエムエル派で構成された満州総局名簿を提起した。 当時、エムエル派が朝鮮共産党中央委員会の主導権を掌握していた。朝鮮共産党中央委員会の責任秘書・安グァンチョン (エムエル派)などは、1928年3月、火曜派の満州総局を否定し、エムエル派が提起した満州総局幹部名簿(責任秘書・李ギョン ホ、委員・朴キソク、朴允瑞、金ヨンシク、李スン)を批准した。東満道の幹部では金キソク、崔ジョンハク、金ジンタク、 李スン、東満道共青会幹部では李ジョンマンを選任した。このような幹部任命に対して火曜派は承認せずに、元々の満州総 局を堅持した。そして東北地区でエムエル派総局と火曜派総局が同時に活動する局面になった。

このような状況の下、1927年8〜9月ソウル派と上海派は連合して“在満朝鮮共産主義同盟”を結成、李ドンファン、尹滋瑛、 李ウンヒョク、張ドジョン、崔ドンウク、金チョルス、金ヨンマンらで、指導小組を構成した。そして3つの派閥が勝手に 満州総局を立てて活動する局面になった。

北風派の一部のメンバーは“10.2”事件で逮捕され、狩猟の金ボンイクもウラジオストクで逃亡した状況だったが、 韓サンムク、リュウ・ウンソプ、崔ファボン、黄ウク(黄クムダル)らは再起して組職を回復した。 11月中旬、彼らは韓 サンムクを責任秘書とする北風派の党組職を設立し、ウラジオストクに逃避している金ボンイクと連携して任務を遂行した。 北風派では朝鮮共産党中央委員会との連携なしに、自体で組職を拡大発展させて行った。彼らは“民声報”に文章を発表し てビラを撒布するなどの手段で、資本主義の罪悪を暴露し、朝鮮族の群衆を先導して社会主義革命へ決起させた。 1928年には“5.1”節をきっかけに反日講演会を組織したりした。早くから彼らの活動を見張って来た日本警察は、5月10日夜8時30分に捜索網を伸ばして北風派メンバーたちを逮捕した。そして元々勢力が強くなかった北風派は徹底的に破壊されてしまった。

“たとえこうして各派が分立して主導権を巡って闘争はしても、お互い相容れないわけではなかった”と言いながら 朴昌c先生はこのように打ち明けた。 “反日民族共同戦線問題において各派は民族唯一の党組織を創立するために力を つくしました。また反日闘争で彼らは共に日帝の侵略罪悪を暴露、親日組職と密偵の攻撃を受けました。革命組職を守るた めにソサン派は<赤旗団>を、火曜派は<冒険銃隊>を組織して、龍井、吉敦沿線、奉天、ハルピン等で暴動を計画し、 エムエル派は龍井で<猛虎団>、 <鉄血団>を組織して暴動計画を進め、軍事人材を養成するために訓練所を密山地区に 設立しようと義捐金を募金、親日大地主の荘園を襲う闘争を展開しました。反封建闘争でも彼らは呼吸を一つにしました。”

“第2次間島共産党事件”

マルクス・レーニン主義の伝播と朝鮮共産党組織が各地で活発に活動を展開することにより、延辺での青年運動も溌剌と して発展した。延辺地区での青年運動の飛躍的発展は、統一された青年組職の発足の基礎となった。

1926年1月25日、東進青年会など20団体の代表28人が龍井の侍天教講堂に集まって東満青年総連盟の創立大会を開いた。 大会で東満青年総連盟の綱領を採択した。綱領の内容は次のとおりだ。

(1)我々は合理的な社会生活の知的教育と実地訓練を目的とする。

(2)我々は相互扶助の精神で大同団結に力をつくす。

(3)我々は大衆を本位にした新文化の向上に力をつくす。

総連盟の幹部陣営は次のとおり。

臨時議長 朴ジェハ

書記 金ソヨン

規約基礎委員 李周和、金ソヨン、金ソグァン

宣言及び強力基礎委員 李リング、金ボンイク、朱チェヒ

執行委員 李周和以下15人

東満青年連盟は創立された後、約半年の間、独自の青年運動を展開したが、1926年10月、東満地域局と高麗共産青年会 区域局が設置された後は直接その指導を受け入れるようになった。東満青年連盟は延辺地区青年運動の求心点になりつつ 、組職拡大と会員吸収に尽力した。1928年1月1日に定期大会で東満青年総連盟を“東満青年総同盟”に改称、単一同盟数は 24と急速に増え、5000人余りの会員がいた。 1928年8月、東満青年総同盟の幹部陣営を見れば、中央執行委員長、中央執 行委員22名のうちで共産党員と共青員が13人、無所属は9人だけだった。このように東満青年総同盟は朝鮮共産党満州総 局が指導する高麗共産青年会満州総局参加の表面団体だった。

高麗共産青年会満州総局の東満道組職では、1928年9月2日が“国際青年日”であることを機会として傘下の一番有力な 合法団体である東満朝鮮青年同盟を動員し、記念集会を開く事にした。しかし情報が日本総領事館に探知され、大規模に 検挙逮捕された。そして高麗共産青年会満州総局東満道責任秘書の李ジョンマンを始めとする高麗共産青年会東満道幹部 と朝鮮共産党東満区域局の幹部51人、東満青年総同盟所属及びその他21人合計72人が検挙された。これがまさに“第2次間 島共産党事件”である。そして延辺地域での共産主義運動は“第1次間島共産党事件”に続いて新たな厳しい試練にぶつかった。

東満青年総同盟も文化部長の尹ヨンジュンを含めた12人の幹部を失う試練を迎えた。日帝はここで手をはなさなかった。 1928年10月、延辺の多くの地域で東満青年総同盟の幹部たちを検挙投獄するため、地方治安を破壊するという罪名を適 用して公開的な取り締まりに出た。かくして東満青年総同盟は1928年10月、日帝の弾圧で表立った活動を止めることになった。
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