xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

24.第1次間島共産党事件

学校毎にマルクス主義研究所を設立。青年学生達、民衆の中で反日思想宣伝


▲1927年10月1日、第一次間島共産党事件で逮捕された朝共党民主総局組織部長・崔元沢(前列右)、 東満区域局責任秘書・安基成(前列中央)、委員・李周和(後列左)、金知宗(後列右)、金ソミン(前列左)(資料写真)

東満区域局の主な幹部たち一挙に逮捕、革命青年学生、日帝と対立して勇ましくデモ

東満区域局設立

1925年4月27日、朝鮮ソウルで朝鮮共産党創立大会が秘密裏に挙行された。翌日、4月18日、ソウルで 高麗共産青年会も設立された。朝鮮共産党中央委員会では海外にいる朝鮮民族人民の革命闘争を具体的に 指導するため、海外部、満州部、日本部を作る事に決めた。この決定によって上海にあった朝鮮共産党 国際連絡部の゙奉巖らを東北に派遣して、満州総局の設立事業を進めた。

1926年5月16日、朝鮮共産党火曜派代表の゙奉巖、崔元沢、上海派代表の尹滋瑛、金河球、イルクーツク派 代表の金哲勲らは黒龍江省珠河県(尚志県)の下洞にある金哲勲の家で、朝鮮共産党満州総局を設立した。 彼らは総局機関を黒龍江省寧安県寧古塔に置き、その傘下に東満、北満、南満区域局を作ることに決定した。 高麗公聴会でも満州総局を立てた。

満州総局では、東満区域を設立するために韓ウンカプと全リョンラクを延辺に派遣した。二人は1926年10月28 日夜、龍井市の三里村で李周和、金ソヨン、林ギェハク、蔡セジン、朴斗煥、李スン、金イングク、林ミンホ らと会って協議したあげく、龍井村に朝鮮共産党満州総局東満区域局を設立することを決意した。区域局の傘 下に秘書、宣伝、組職、検閲などの部を設置して、執行委員たちを選挙した。執行委員では全リョンラク、金 イングク、李スン、李周和、林ミンホ、蔡セジン、金ソヨン、林ギェハクと後に総局からひとりを派遣する事 にして、しめて9人だった。全リョンラクが責任秘書を引き受け、金イングクが組職部長、李スンが宣伝部長、 表面部員に金ソヨン、検閲部員に蔡セジン、高麗共産青年会責任者に林ミンホが選抜された。東満区域局が組 職された後、彼らは延辺の多くの系列の組職を整理し、新しく龍井、平崗、和龍、局子街、銅仏寺、明月溝、汪 清、羅子溝、琿春などの地区に17の傘下組織を作った。1927年の統計によると、東満州には19の基層党組織と116の 外郭団体があったが、革命団体のメンバーは9766人に達した。

“満州総局は設立されたその日から朝鮮共産党の方針、路線に依拠して事業を展開して行ったが、事実は延辺の 実情と朝鮮の実情は同じではなかったのです。 <朝鮮延長論>は延辺の実情に合わないのに、朝鮮共産党政綱を延 辺に押し付けようとしました。だから多くの問題点を生んだのです。 しかしマルクス主義の伝播、 日帝に対する 打撃、 革命群衆組職の団結、 党基層組職の拡大、 あまたある優秀な党幹部養成などの面で傑出した役目を果た したことだけは事実です。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は満州総局と東満区域局の設立はその後の延辺での中国共産党の活動に 画期的な役目を果たしたと披瀝、反面、多くの共産主義団体の間の派争がひどかったため、団結に甚大な影響を及ぼしたと述べた。

延辺での共産党 4派

“延辺には <火曜派>、<ソウル派>、<エムエル派>、<上海派>の 4派がありました。

1920年代の初めに、ソ連がイルクーツク派と李東輝が組織した高麗共産党 <上海派>の間の矛盾を調節するため、 ウラジオストクから二つの派が極東組織局を設立、朝鮮共産主義運動を指導することになりました。 しかし矛盾が その後も存在し、さらに悪くなったため、極東組職が失敗すると極東組織局では秘密裡に鄭在達を朝鮮に派遣し、 朝鮮晋州で姜達永と連合して 1923年7月に <新思想研究会>を組織しました>。 彼らは日本で <北風会>派と連合して 1924年11月 <火曜会>を建立しました。 <火曜派>と言うのは、共産主義者たちが火曜日一度ずつ会議をするのでその ように呼んだわけで、またマルクスの誕生日とも言います。 そしてこれらの組職を <火曜派>と呼びました。

二番目の団体は <ソウル派>です。 当時、朝鮮国内の青年運動は非常に活躍的でしたが、その指揮権は張徳秀、 李光洙ら慈善階級右派たちが掌握しました。 <ソウル派>団体内部には <左>派たちもいましたが、その代表人物が金 思国でした。 後に闘いを経て <左>派勢力が右派勢力を退けて指導権を掌握するようになりましたが、この勢力が 1925年4月 <高麗共産主義同盟>と <高麗共産主義青年同盟>を設立しました。歴史ではこれらを <ソウル派>と言います。

三番目の団体は <エムエル派>です。 1920年代初に <エムエル派>は <上海派>と多くの対立がありました。 こんな状況 で公聴団メンバーたちが朴ユンソ、金ウォルソン、韓斌らの青年たちが <私たちは派閥闘いに反対する>と言いながら元 <エムエル派>から脱退し、新しい <エムエル派>を組織しました。 彼らは 1924年、龍井に入って来て、高麗共産主義青 年運動を指導しました。 また南満の盤石県を中心に基盤を固めて行ったが、彼らは歴史では <エムエル派>と言います。

四番目の団体では <上海派>です。 1919年8月に、李東輝がソ連から上海に入り、 1921年5月に高麗共産党を設立して中 央委員委員長職を受け持ちました。 上海で設立されたので <上海派>と言いました。 <上海派>は 1921年末に中央委員・ 金河球を敦化に派遣し、ソサン派(ソウル・上海派)の中央総監府を敦化に作って国民会会員たちを掌握し <上海派>に加担させたが、これを歴史では <上海派> もしくは<ソサン派(ソウル・上海派)>と呼びます。“

東満区域局では広範な大衆にマルクス・レーニン主義理論と社会革命思想を宣伝し、朝鮮族の中での先進分子たちを集 めて革命闘争を指導した。彼らは青年運動を組織・指導し、東満朝鮮族労働総同盟、女性団体である槿北会などの団体 も設立した。 1927年12月には各民衆団体の民族統一戦線の組織人“全間島朝鮮人団体協議会”を結成して革命闘争を活発に推進した。

“第1次間島共産党事件”

1925年11月22日、朝鮮新義州で朝鮮共産党検挙事件が発生した。これによって当時の全朝鮮国内に共産主義秘密結社に 対する検挙の大旋風が起きた。その時の検挙に朝鮮共産党責任秘書・金在鳳、高麗共産青年会責任秘書・朴憲永を含む 朝鮮共産党と高麗共産青年会の幹部及び構成員が大量に逮捕された。

その後、1926年6月にあった朝鮮“6.10”万歳事件で、当時朝鮮共産党中央執行委員会の責任秘書だったカン・ヨンダン を含む100人余りの党幹部と関係者が大挙逮捕された。二度に渡り逮捕した朝鮮共産党党幹部たちに対して、1927年10月 に日本は公判大会を開き、審判した。

満州総局は日本共産党・福本主義の“方行転換論”の影響下に思想伝播運動で政治闘争へ転換することに関する朝鮮共 産党の指示に従って群衆を動員し、連続的な反日デモを断行した。 1927年5月1日、延辺地区の朝鮮族革命群衆は朝 鮮共産党満州総局東満区域局の具体的な指導の下に龍井、頭道溝の一帯で“5.1節”国際労働節記念示威行進 を盛大に進行し、日帝の侵略と朝鮮族人民に対するファッショ的蛮行を糾弾した。今会の示威 運動は何の阻害もなく順調に挙行され、大きな成果をおさめることになった。これに大きく刺激された東満区域局では、 10月2日、朝鮮共産党事件で逮捕した同志らの公判大会に反対すると同時に、“日本帝国主義を打倒”と“一切の政治犯の 釈放”を要求する、より大きな反日デモを断行することに決定した。

10月2日、龍井には大きな雨が土砂降りだつた。そして示威運動をやむを得ず翌日に延ばすようになった。この日満州総局 責任代理秘書の安基成らは、東満区域局幹部たちと一緒に安基成の家に集まり、翌日の闘争計画を研究することになった。

あらかじめこの状況を探知した間島日本総領事館では、警察を派遣して安基成の家を囲み、崔元沢、安基成、玄七鍾、 李周和、金ソヨン、林ギェハク、朴ジェハ、金ギュグクら区域局幹部を逮捕した。

10月3日、この事実を知った大成中学校と東興中学校の青年学生たちは、手に赤い旗を持ち通りに出て、ビラを振り撤き ながらデモ行進を断行した。デモ隊は日本総領事館の前へ行って逮捕した幹部たちを釈放するように叫びながら強烈な抗 議をした。青年学生たちは“日帝侵略に反対しよう!”、“日帝白色テロ反対!”、“一切の政治犯釈放!”、“罪のな い教員たちを釈放しろ!”との掛け声とともにデモを断行した。

今度の事件で29人の主な幹部が逮捕された。日本はこの事件をきっかけに100人余りの幹部と民衆を逮捕、拘禁した。なか でも29人の主な幹部をソウルに圧送し、懲役を言い渡した。これがまさしく“第1次間島共産党事件”である。
Copyright(C) 朝鮮族ネット