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26.第3次間島共産党事件

革命的学生達、武装した日本警察と赤手空拳で格闘。暴動委員会、民衆団体動員に武器と資金用意


▲龍井 恩真中学の学生達の同盟休学闘争記念写真(資料写真)

延辺を席巻した反日学生デモ

1929年1月、朝鮮光州で大規模的な学生反日闘争が起こった。光州の学生たちが挙げた反日の烽火は、 燎原の炎の如くソウル、大邱、釜山、平壌等で激しく燃え、延辺にも波及して来た。延辺各地の朝鮮族学生た ちは、共産主義者たちの指導下で光州の学生たちを声援する反日デモ闘争を断行した。

11月26日(1929年)、和龍私立薬水洞学校の学生たちは私立龍坪学校、頭道溝の私立新興学校の学生たちと共に同 盟休学を断行、頭道溝の街に飛び出した。

1930年1月、大子の県立1校と私立明東学校の学生たちは、大子 県所在地(当地和龍県所在地は大子だった)の 街を埋め尽くして進んだ。

1930年1月23日、龍井の各中学校でも同盟休学を断行、街に飛び出した。学生たちは共産主義者の統一的な指揮下に、 肉を凍らせるような風雪に耐えつつデモ行進を断行した。学生たちは太極旗と手旗を振りながら"日本帝国主義を打倒 しよう!"、"光州学生事件で検挙された学生たちを釈放しろ!"、"日本帝国主義の民族蔑視に反対する!"、"奴隷教 育反対!"などの掛け声を高く叫んだ。

デモ行列が日本領事館前に至った時、騎馬警察たちが銃刀を振り回し、赤手空拳の学生たちに襲い掛かった。大成、東 興、恩真などの中学校の学友会幹部たちである李ヤンシク、金チャンジュンら50人余りの学生たちがすぐに逮捕された。

これに怒った学生1000人余りが恩真中学校の運動場に再度集まり、盛大な糾弾大会を開いた。恩真中学校はイギリス租 界地の中にあったので、日本の警察がむやみに入って来ることができなかった。東興中学校、明信女子中学校、大成中 学校、恩真中学校の学生たちは先を争って日本の蛮行を糾弾しながら、逮捕された学生たちを釈放することを強硬に要求した。

急に馬の蹄音が想像しく聞こえた。日本の騎馬兵10人余りが租界地の鉄条網の外で、笛を吹きながらデモ隊を解散しろ と叫んだ。学生たちは騎馬兵たちを睨み付けながら続けてスローガンを叫び、日本の蛮行を糾弾した。日本の騎馬兵たちが 続けて笛を吹きながら叱りつけると学生たちは鉄条網を挟んで警察と向かい合った。怒った学生たちは堪え切れずに鉄条 網を飛び出し、騎馬兵に殴りかかって行った。学生たちは騎馬兵たちを馬から引き下し、身動き出来なくなるまで殴り続け 、軍刀を奪って服や帽子を切り裂いた。これは延辺で初めて学生たちが武装した日本警察と闘った反日行動だった。

1月28日、龍井の恩真中学校と明信女子中学校を中心にした数百人の学生たちは、手旗を持ってまたイギリス租界地に集ま り、反日糾弾大会を開いた。怒った学生たちは堪えられずに街に殺到して行き、"逮捕した学生たちを釈放しろ!"と言う掛 け声を叫び、デモ行進を断行したが多くの学校の学生たちも自発的にこのデモ隊に加わった。

光州学生運動を声援する闘争は、2月にも引き続き起き、さらに延辺全域に波及した。

大規模的な民衆デモ

少し前から朝鮮共産党組織と連携を持つようになった中国共産党満州省委にも、反帝闘争に結び付けて東北の多くの 民族人民たちを反日闘争に決起させるために朝鮮の"3.1暴動" 11周年をきっかけに各地党組織の指導下に集会または示 威運動を行い、民衆たちの抗日運動を向上させる事にした。

このような状況で朝鮮共産党満州総局(火曜派)では、1930年1月に"3.1暴動" 11周年をきっかけに農民、学生と労動者 たちを動員し、大規模な民衆デモ運動を計画、東満と北満に"<3.1暴動> 11周年記念準備委員会"をそれぞれ組織、 示威運動を指導する事に決定、宣伝部長・張周l(張時雨)を延辺に派遣した。張時雨は延吉県守信郷(現在、和龍市東城 鎮)にある朝鮮共産党平崗区域局責任秘書であるユ・テスン(後には中共蓮花県平康区委組職部長)の家で東満道(火曜派) 責任秘書・尹ボクソン、組職部長カン・ソクジュン、宣伝部長・韓ビョル、そして延辺学生連合会の幹部である李ドンソ ンなどと一緒に東満道幹部会を召集して東満の各群衆代表たちで"<3.1暴動> 11周年記念準備委員会"を延辺学生連合会、 東満朝鮮人青年総同盟など代表5人を構成、李ドンソンが総責任者として表面指導をする事にした。

準備委員会では各地の民衆を組職動員する一方、デモする当日撒布する宣伝ビラと手旗などを作るために忙しかった。 群衆煽動に使う見聞は主に張時雨と尹ボクソンが起案したものを宣伝部長カン・シジュンの責任の下、3月1日前夜まで 何十種類、約30万枚を印刷したが、張時雨、カン・ソクジュン、尹ボクソン、韓ビョルなどはユ・テスンとカン・マン ホン(朴ボンナムの後には第1代中共密山県委書記)の家に寄宿しながら昼は陰の部屋で、夜は奥の部屋で謄写機に向かっ た。ユ・テスンとカン・ホンマンの家族たちは赤い布と白い布で手旗を作るのに忙しくなった。彼らが作成した宣伝文の うち重要なことを見ると"出よう万歳デモ場へ!!"、 "宣言"、 "全朝鮮学生革命者の革命闘争に対して、圧迫された大衆 に再び告ぐ"などであった。

張時雨、尹ボクソン、カン・ソクジュン、韓ビョルなどは同じ日、同じ時間に30万毎余りのビラと数千本の手旗を東満 各地の党、団体に配布する一方、直接口頭を通じて民衆を煽動、組織するために力をつくした。

そして1930年2月28日、小五道溝、開拓里、大同溝、水坪洞、二道溝、長仁崗等の農民たちは頭道溝に向けて行進した。 デモの群衆たちは、"日本帝国主義を打倒しよう!"、 "朝鮮独立万歳!"と掛け声を高く叫び、黒い字で書いた赤、白の 小さな旗を振りながら堂々と示威運動を展開したが、龍井、二道溝を始めとする間島全体はまるで武装暴動が起きるよう な雰囲気になった。

頭道溝日本領事分館の警察たちは、龍井村領事館の軍警たちの助けの下に民衆デモを解散、弾圧しようと飛び出して来た 。 3月1日、日本の警察たちはデモ群衆をがむしゃらに逮捕し始めた。そして頭道溝領事館の庭先には逮捕した農民と学 生たちで一杯になった。

"逮捕されたデモ群衆のうち、文ドゥチャンという長仁崗から来た 15歳の少女がいました。 日本の警察たちは少女を見 下して首謀者が誰なのかと聞いたが、口をギュッとつぐんで応対しなかったのです。怒った日本警察は少女の髪の毛を引 っつかんで振りながら脅威恐喝しました。 ここに文ドゥチャン少女は <夜明け鶏は誰が鳴かせるんですか? 私たちも 時間になったら帰ります!>と器用に答えて日本警察たちを唖然とさせました。 <警告>を受けて釈放された文ドゥチャ ン少女は、奴らが掴んだ自分の髪の毛を見れば吐き気がすると、ハサミでバッサリ切り落とし、おかっぱの髪型になり ました。少女はずっと革命の先頭に立って闘い、壮絶な最期を遂げました。"

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は一少女の生々しい話を聞かせながら "当時の群衆たちの革命の熱情はまことにすごかった"と言った。

"第3次間島共産党事件"

デモに動員された群衆たちが多く、勢いがすごいことを観察した "<3.1運動> 11周年記念準備委員会"では、 より大規模の民衆暴動を計画した。 3月5日、張時雨、尹ボクソン、カン・ソクジュン、韓ビョル、ユ・テスン、 李ドンソンなどは守信郷で会議を召集し、今度のデモ闘争を総括した。その結果、民衆たちを決起させて武装闘争を 起こすことができると決め、準備委員会を "全東満暴動委員会"に性格転換した。

暴動委員会では組職、宣伝、監視隊、経理、出版などの部署を設置して組織責任に李ドンソン、宣伝責任に李チョルハ ン、監視対策に金サングン、経理責任に李ビョンシク、出版副責任に安ピョンをそれぞれ任命し、行動に突入した。

暴動委員会の活躍部署の中に監視隊があることは注目するに値する点だった。 監視隊は中央隊、地方には地方隊、 区域には区域隊、 各村には部隊を設置し、中央隊から村部隊の責任者は皆、該当党組織の主要幹部たちが責任を負っ て指導する事にした。 監視隊のメンバーたちは民衆団体の骨幹分子たちで構成し、各村文体メンバーにとって各地の地下 組職との通信連絡を担当すると同時に、反動分子、日本警察と彼らの岡っ引きたちの行動を常に見張って処断する任務を 遂行するようにした。

暴動委員会は民衆革命団体を動員し、武器と資金を新調して5月1日に暴動決起する事を決意した。中心幹部である張時雨、 尹ボクソン、カン・ソクジュン、韓ビョルらは表面に出ずに、背後から操る事にした。しかし"東満暴動"計画は3月下旬、 日本の間島総領事館に捕捉され、検挙され始めて5月中旬までに130人余りが逮捕された。これが"第3次間島共産党事件"である。

逮捕された人のうち49人はソウル西大門刑務所に護送され、1931年2月5日からソウル地方法院で"治安維持法"と"出版法" 違反の"罪名"で公判を受けたが、張時雨は10年、尹ボクソンは9年、カン・ソクジュンは6年、李ビョンシクは8年6ケ月... などであった。李ドンソン、韓ビョルは検挙旋風にかからなかったが、他日"5.30暴動"、 "秋収暴動"に先に立って闘争し てから逮捕され、韓ビョルは酷刑で死亡、李ドンソンは死刑宣告を受けて絞首台で殺された。

"一言で、この時の暴動準備は<左>傾冒険主義の誤った見解によって指導された行動でした。これはもちろん中国共産党が 指導する管内土地革命戦争の経験を教条的に受け入れた妄動主義的な主張でもありました。"

朴昌c教授の指摘だ。
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