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22.共産主義運動の興起

マルクス主義新思想、延辺の大地に根付き、朝鮮族人民、新しい革命の黎明期を迎える

アジア最初の共産主義団体

1917年11月7日(ロシア暦では10月25日)、ロシア無産階級は、レーニンの指導の下、武装蜂起を起こし、ケレンスキー の資産階級臨時政府を倒し、世界最初の社会主義国家であるソビエト政権を樹立した。10月革命の勝利と東方弱小国の 人民に民族解放と独立を果たそうという信念をもたらし、植民地隷属国の革命運動を新しい道へと導いてくれた。

延辺地区を中心に全民族的な反日武装闘争を展開して来た武装団体と反日組職の幹部たちは、日本の野蛮な“庚申年 大討伐”により延辺を去り、朝鮮族が多く住んでいるソ連の極東地方に移った。進歩的青年たちはパルチザンを集め、 ソ連の赤軍と合同して青少年ソビエト政権防衛戦に参加し、革命の嵐の中でマルクス・レーニン主義を学習、て社会主 義10月革命の洗礼を経験するようになった。中国で旧民主主義の苦しみを嫌という程味わわされた人々は、新しい環境 でかつての民族解放闘争の経験教訓を総和し、徐々に民族主義者から共産主義者に転換して行き、マルクス主義者から 共産主義者に転換、マルクス主義理論の指導下で民族解放闘争を進める決心をするようになった。

1917年4月、ロシア沿海地区各地を歩き回りながら朝鮮族農民たちの実態を調査した李東輝は、ケレンスキー臨時政府の 憲兵に“ドイツ特務”の疑いで逮捕され、9ヶ月間獄中生活を送った。李東輝は監獄でソ連のボルシェビキたちと付き合 う過程で共産主義とマルクス主義思想と接触するようになり、10月革命を認識するようになった。監獄の外では金立、 李翰栄、金河球なども10月革命を支持し、ボルシェビキに基づいて李東輝を監獄から救出した。こんな過程で李東輝の 思想はどんどん変化し、労農革命を主導するボルシェビキとソビエト政権を擁護するようになった。李東輝はソ連共産 党ハバロフスク党支部の秘書で、遠東人民委員会外務委員である朝鮮人女性革命家アレクサンドラ・ペトロブナ金の助 力で、日々社会主義革命に専心するようになった。

1918年6月、李東輝はロシアのハバロフスクでロシア・ボルシェビキ党員達の傍聴の下、アジア地域で初めてのマルクス ・レーニン主義団体である“韓人社会党”を設立した。韓人社会党は李東輝の指導下にソビエト政権支援、外国武力干渉 撃退、土地改革実施、世界無産階級と弱小民族解放陣営との連帯性などの政綱を公布した。

1920年、李東輝は国際共産党第2次代表大会に出席した朴鎮淳らと共に北京や上海等で中国共産党創始者である李大サ、 陳独秀、日本の社会革命家たちに会って東方各国での共産主義思想の伝播につき討論した。同時に李東輝は管内にいる 朝鮮族青年たちに10月社会主義革命の状況、国際共産党で植民地、半植民地、弱小民族の民族解放運動を支援した事例 とマルクス主義と労農革命思想を通俗的に紹介した。李東輝などの影響下に、一部の朝鮮族先進分子たちは中国の先進分 子たちと共に中韓労農同盟連合会を設立し、両国の労働者たちの団結を強化し、協力して共同の敵と闘争した。

共産主義思想の伝播

李東輝らは朝鮮族青年の先進分子たちを自分らの周りに固く団結するようにした後、社会主義研究会、朝鮮人社会科学研 究会などマルクス主義研究小組を設立した。特に北京の朝鮮族学生たちはマルクス主義研究小組を結成した後、マルクス 主義思想を学習研究する一方、経常的に李大サら中国共産党人たちと接触しながら、彼らの指導を受けたりした。

1921年、上海で活動した李東輝らは国際共産党遠東部の支援で朝鮮文印刷所を立て、“共産党宣言”翻訳本を始めとする 革命書籍を出版し、朝鮮民族解放闘争は社会主義の下に労農革命の道を歩まなければならないと宣伝した。その年1月、 李東輝、金立らは、上海で韓人社会党代表会議を召集した後、韓人社会党を“高麗共産党”に改称した。 5月23日から上海 フランス租界で高麗共産党(上海派)代表大会を召集し、党の綱領を採択した。会議で李東輝が党委員長に当選し、金立が 秘書長に選ばれた。

高麗共産党中央総監府は上海にあったが、1921年中央委員金河球が敦化に来て、元国民会の具春先、姜九禹、馬晋らと会見 し、国民会のメンバーたちを高麗共産党に吸収し、敦化に高麗共産党満州総監府を設立した。総監府では安武と崔リャンを ソ連に送り、国民会の全メンバーが高麗共産党に加入するということを東洋秘書部に報告し、1922年、人民代表大会に参加 することを決めた。このように満州総監府は敦化を中心に間島、熱河等に党組織を拡大した。

1920年7月、ロシアに居住していた金哲勲ら朝鮮人先進分子たちは、イルクーツクで国際共産党東洋副代表の支持の下に “全露韓人共産党”を創立した。 1922年11月にこの組職に加入した人数は4433人に達し、中央本部イルクーツクを中心に モスクワ、チタ、ハバロフスク、ニコリスク、ウラジオストク、大黒河、ハルピン、額穆、上海、北京、長春、平壌等の 連絡所を通じて“赤い旗”などの新聞、雑誌を発行し、10月社会主義革命の経験を紹介し、マルクス・レーニン主義を宣伝し た。尹福松、チョン・チウン、李周和、ウ・リョンソンらは朝鮮とロシアから延辺に入って来て、龍井と和龍で金ホンソン、 盧昌律、李ヨンキュ、リュウ・テスン、張時雨などと連携して、早期共産主義団体である間島共産党を設立した。後に彼らは イルクーツク派と連合して火曜派を形成した。

中露国境のイマン、ハバロフスク等で活動した李仲執、南公善、崔京天らは当地で共産主義団体を設立した後、林山、東寧、 寧安、琿春に共産主義機構と青年会組職を設立して活動した。 1921年ニコリースクと寧古塔に総理府を立てた韓族共産党は、 寧安、敦化、局子街、頭道溝、東寧、琿春、大荒溝等に多くの人員を派遣して党組織と連絡所を立て、革命刊行物を散布、共 産主義思想を宣伝した。

延辺に入って来たマルクス主義書籍

共産主義団体で散布した書籍や刊行物は、多くの経路を通じて朝鮮族が多く住む延辺と東北の各地に拡がって行った。 日本間島総領事館でざっと調査した資料によっても、ソ連と上海、天津、北京等で延辺へ伝えられた新聞、書籍や刊行 物は非常に多く、間島日本総領事館で没収した数字だけでも次のとおりだった。

1922年 122種 4208件
1924年 164種 3450件
1925年 201種 4408件
1926年 259種 3606件

主な朝鮮文新聞では“自由報”、“新世界”、“労農世界”、“赤い星”、“赤い旗”、“労動新聞”などがあり、 雑誌では“曙光”、“新社会になれば”、“共産”、“暁鐘”、“先駆け”、“光明”などがあり、小冊子としては “共産党宣言”、“労動組合の話”、“私たち無産階級が行く道”、“カール・マルクス”など数十種に達した。これ らと時を同じくして、上海、北京等で出版された“新青年”や“毎週評論”のような漢文の革命書籍と刊行物も漢族先進分 子たちの手を経て吉林、延吉等の漢族学校で勉強している朝鮮族学生たちの中に拡がった。

李ボン、関俊彦ら先進的な漢族知識人は延吉で“新文書社”を設立し、学用品を販売するという名目で多くのマルクス主義 書籍と刊行物を購入して学生たちに伝えた。こんな刊行物と書籍を通じ、マルクス主義思想は速かに延辺朝鮮族たちに浸透 した。これについて、延辺に派遣された間島連絡将校は、上司に捧げる報告書で“赤色の荒々しい波が間断なく間島を濡ら している。甚だしくは大多数の民族主義者たちも共産主義に傾倒している”と書いている。

進歩的書籍と刊行物を通じて延辺朝鮮族たちは、ロシア革命の道だけが活路を開き、日本帝国主義を撲滅して社会主義の新 しい国家を建設し、全世界人民たちと共に永遠になるように自由と平等、真正な幸福を享受する道ということを認識する ようになった。朝鮮族人民たちは書籍と刊行物を通じて欧米の資本主義列強が騒ぎ立てる“公利は強権に勝つ”、 “正義、人道”、“民族自決”などの虚偽性が分かるようになった。

延辺に伝えられたロシアでの新しい制度誕生の消息と共に、全人類に大きな希望を抱かせてくれたマルクス・レーニン 主義思想は、日帝と封建軍閥の野蛮な圧迫と収奪に喘ぐ延辺朝鮮族たちには、解凍を約束する日差しのようなものだった。 マルクス主義の伝播と共に朝鮮族人民たちの革命闘争も旧デモクラシー革命の時期から新民主主義革命の時期に入るように なった。マルクス・レーニン主義を行動指針とするようになった朝鮮族人民たちは、早期共産主義団体の指導の下に新しい 生活の道を開拓するため、力強く足を踏み出すことになった。
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