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21.血に染まった獐巌洞

一日のうちに村は火の海に変わり、罪なき朝鮮族住民、無惨に殺害


▲獐巌洞村の前に立てられた<獐巌洞惨案>遺跡碑

平和なノルバウィゴル

雑草に覆われた山裾に細い道が裂け目のように伸びていた。見下ろすと、草庵とレンガ屋根の家がまじった こぢんまりした村がひと目で見える。小さな小川の流れる姿がキラキラと映り、どこからか鳥の鳴き声が聞こえて来る。 “トントントン...”村から響いて来るトラックの音にまじって、いろいろな生活の音が小さな合唱を成す。正午の日差し を受けて、農夫たちが鋤を持って村に入って行く姿が遠くから童話のように見える。平和で美しい田舎村、巌洞(チャンアムドン)の風景だ。

ここへ来る時、多くの村に立ち寄って“巌洞”がどこかと聞くと、人毎に頭を横に振りながら分からないと言う。 それで昔は朝鮮語で“ノルバウィゴル”と呼んだという延辺大学の朴昌c教授の言葉を思い出し、“ノルバウィゴル” がどこかと聞くと、誰もが知っていると頷いた。

乾田の間に作られた道に沿って入って行くと、私たちが必死で捜した龍井市東盛湧郷東明村だった。さらに狭い谷間に 沿って東南方へ幾分入って行くと、ノルバウィゴル、すなわち巌洞だという。鹿が多いのでノルバウィゴルと呼んだ という巌洞、鹿の姿は見えず、きじの鳴き声がこの谷間の森に優しく聞こえるだけである。谷間に沿って上がって行 く途中、ふと眺めたら山裾に大きな石碑が立てられていた。自然石で立てた巌桐遺跡碑だった。

石碑正面に“巌洞惨案遺址”と刻まれていた。裏にはこんな文が書かれていた。

1920年10月“庚申年大討伐”の時、日本侵略軍はここで罪なき民33人を虐殺し、千古に容納出来ぬ罪行を犯した。
龍井3.13紀念事業会
1999年6月30日

山鳥がさえずり、草に群がる虫が鳴く、人跡ない山道をさらに進むと、道の傍らに今見た遺跡碑より小さな石碑が立って いたがススキに隠れてすぐには判らなかった。石碑正面には“一九二○年十月三十日日軍の間巌惨殺事件犧牲者三十人 追念碑”と刻まれていた。左側面には“一九九四年七月”という石碑を立てた年月、右側面には“犧牲者遺家族代表故金 京三の子金基柱建”と、立てた人の名前が刻まれていた。

後ろ向きになって前を眺めたら、荒れた畑があった。農夫の手がつけられていない畑で雑草が生い茂っていた。家のまん 前にある優雅で淡白な畑だった。多分ここが1909年に朝鮮族農民たちによって立てられた元々の巌洞村の旧跡なのかも 知れない。小さな小川と並んで伸びた山道に沿って行きながら見ると、村の存在したことを思わせるような所が沢山あった。

1920年、惨案の当時、巌洞は延吉県勇智社に属していたと言う。巌洞村の住民たちは大部分キリスト教信者で、彼ら の多くが反日運動に積極的に身を投じる人々だったと言う。近隣で巌洞村をキリスト村とも呼んだと言う。村には永信 という名を付けた学校があったが、学校では青少年たちに反日思想を宣伝した。村から西の方に遠くない所に反日教育の 揺籃として噂の高い明東学校があった。“3,13”運動の時、巌洞住民たちと永信学校の教職員たちは反日デモに積極参 加し、1920年10月には南陽坪、八道河子の日本軍守備隊を襲う計画まで立てたと言う。

巌洞はまた間島国民会第2東部地方会第4分会に所属し、村民の大多数が国民会会員だった。1919年後半期、巌洞では 間島国民会東部地方総会長・梁道憲から鉄砲と弾薬を得て警護隊を組織し、反日団体である崔明禄の都督府と義軍府とも 連携を持っており、彼らは常に巌洞へ来て活動した。そのため日本は巌洞を“不逞鮮人の策源地”の一つと見做し、 目に入った刺のように思っていた。

悪魔たちの殺人現場

延辺大学歴史学部の朴昌c先生は日本国学資料院で出版した厚ぼったい“現時代資料”集で巌洞事件に係わる ページを捜して広げた後、そのまま翻訳しながら読み進めた。

“歩兵将校鈴木大尉以下72人、憲兵3人、警察官2人は連絡線を確保するために巌嶺付近の 不逞団を掃討する任務を 引き受け、30日0時、龍井村に集合し、29日に抑留された5人の朝鮮人を案内者として巌村に 向かったが、彼らが命令に 従わず逃亡を謀ったため、殺してしまった。その後、南陽坪に向けて進軍した。南陽坪で朝鮮人1人を案内者に立て、 巌洞に到着、午前6時30分から包囲討伐を始めたが、私たちの意図を見抜いた敵30人余りが 縦隊を作って退却することを見付け、射撃を言い付けたが、11人の死傷者を出した...”

1920年10月30日夜明け0時30分、龍井に駐屯していた日本軍第4師団28旅団歩兵第15連隊第3大隊隊長・大岡の命令を受けた 鈴木大尉は、歩兵70人余り、憲兵3人、警察官2人で構成された“討伐隊”を従え、巌洞に派遣された。4時頃に彼らは 南陽坪守備隊と力を合わせて夜明け6時30分に巌洞を包囲させた後、青壮年33人を反日部隊と内通したという理由で捕縛 し、教会堂内に閉じこめておいて火をつけた。教会堂は即時に火炎が衝天したが、彼らは火中から飛び出した人々を銃剣で でたらめに刺し殺し、火中に投げ込んだ。

当時の状況を龍井のカナダ長老派長老教会の提唱病院院長マルティンは、自分の“見聞記”にこのように書いている。

“日が明けるやいなや、武装した日本歩兵一個部隊はキリスト村を隙間なく囲み、高く積んだ薪に火をつけた。それからは 全村民に外に出ろと号令した。村民たちが外に出ると、親も子も関係なく見つけ次第に射撃した。まだ息が落ちない負傷者 も、構わずに、ただ鉄砲に撃たれて倒れた人ならば乾いた藁を被せて、識別できない程に燃やした。この間、母親、妻子た ちは村の青年達が処刑されるところを強制的に目撃させられた。家屋を全部燃やし、村は煙で覆われ、その煙は龍井村でも 見えた。 ...村の火は36時間が経ってもずっと燃えており、人の燃える臭いがして家が崩れる音がしていた。 ...裸の赤ん 坊を負った女性が新しい墓の前で物悲しく泣いていた...大きな木の下の教会堂は灰だけ残り、学校の大建築も同じ運命を辿 った。新たに作った墓を数えてみると、31個であった。 ...他の二つの村を訪問した。私たちは燃えた家19軒と墓または死 骸36個を目撃した。”

沈茹秋は“延辺調査実録”で巌洞惨案をこのように書いている。

“日本軍は10里余りに散在している巌洞村を一気に燃やして廃虚とし、 馬牛鶏犬のような動物一匹すら残らなかった。”

胸張り裂け泣き叫んだ家族たちは、日本軍が立ち去った後、肉親たちの死骸を捜して葬った。何日か後、遺家族たちの胸に まだ血の涙が流れているのに、日本軍は再び村に攻め寄せた。彼らは遺家族たちを強要して墓を暴き、死骸を一ヶ所に集め ておくように命令した。彼らはまた掘りだした死骸をに石油を振り掛けて灰になるまで燃やし、二重殺害を敢行した。日本 軍は巌洞で民家11軒、永信学校と教会堂を燃やしてしまった。この討伐で間島国民会東部総会会長 で反日連合部隊の軍務 庁長である梁道憲が壮烈な戦死を遂げた。里人たちは誰の死骸か分からず、遺骨を一ヶ所に集めておいて合掌した。

このような蛮行をしてからも、日本軍は上部に捧げる報告で“私たちの討伐隊は賊徒たちの陰謀の場所になる家(焼却された 家には永信学校も入っていると言う)を焼却し、敵の死骸は我が国の風俗どおりに火葬し、部落の生存者たちを集めておいて 私たち軍隊の討伐主旨を伝え、将来において不逞行動をしないように警告して同地方に撤退した。

その後、死骸の火葬が十分ではないということが分かって、軍隊、警察など人員を派遣して協力させ、まったく焼けていな い死骸及び遺骨を遺族、知り合いあるいは部落代表者たちに頼んで領収証を受けた“(金哲洙”延辺抗日史跡地研究“) と、もっともらしい話を並べて罪悪を隠そうとした。

巌洞惨殺事件は日本軍が敢行した<庚申年大虐殺事件>で繰り広げた幾多の事件の中の一コマ の蛮行に過ぎません。日本 軍の木村大将は、自分の上司に捧げる報告書に<凡そ経由する部落ごとに不逞団のような者や逃亡しようとする者を見付け 次第一人も漏らさず銃殺した>と書きました。日帝の侵略者は行く先々で野蛮的なファッショの本質を現わしながら、幾多 の罪なき民を意のままに虐殺し、延辺を血で染めました。私たちは絶対にこのような歴史を忘れてはなりません。”

朴昌c教授の怒りに満ちた声だった。
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