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20.庚申年大虐殺事件

残忍で悪辣な日本軍、延辺を血に染める。朝鮮族住民、家族を失い、生活の基盤失う


▲延辺各地で罪無き朝鮮族を虐殺する日本<討伐隊>(資料写真)

罪なき民を“討伐”

“日本侵略軍は中国に入って来たその日から、反日部隊はもちろん罪なき民たちまで<討伐>の対象としました。 白雲坪戦闘の時も敵方は村に立ち入るやいなや里人を赤ん坊までも漏らさず皆家に閉じ込めておいて火をつけ、 飛び出して来ると銃剣で突き、機関銃を振り回して撃ち殺し、死骸を火中に放り投げました。青山里戦闘で大敗 した日本侵略軍は、仕返しを罪なき民に敢行し、その残忍性・残酷性は人類の歴史上類の無いほどの事例です。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は“庚申年大討伐”は事実上“庚申年大虐殺事件”だと説明した。青山 里戦闘の後、反日部隊が安全にロシア領へ転移した後、日本は約8ケ月間、中国の朝鮮族社会を意のままに踏み 躪り、罪なき民たちを次から次へ虐殺し、朝鮮族学校と教会堂、甚だしくは食糧、家屋さえ無差別に焼却する天 人共怒する惨変をもたらした。

“日本軍は10月26日、間島領事館で作成した<排日部落及び学校調査票>に基づき、延吉県内では銅仏寺、太平溝、 臥龍洞、依蘭溝を含めた23の村と興東学校、明信学校など18の学校、和龍県内では漁浪村、青山里、青波湖、長財 村、傑満洞などを含む12の村と明東学校、昌東学校、光東学校、正東学校など19の学校、汪清では大坎子、徳元里、 西大坡、鳳梧洞、合水坪、羅子溝などを含めた11の村と明東小学校、遠東小学校など5つの学校を中心に大々的な <掃討>と虐殺を敢行した。”(金春善“庚申惨変研究”)

中国の地方官員・張巡師と鮑大師らが1920年11月5日、外交総長にした報告では、“墾民たちが集まって住む部落 を、韓党の根拠地だとして町中を燃やしてしまい、朝鮮族農民の大部分を殺害した。少しでも疑わしい村を選んで は何十軒もまとめて燃やし、何十人かずつ殺してしまったが、行く先々に燃えてしまった家と死骸があった。これ らの大半は畑を耕す村人たちであり、決して武器を持って群れをなし、騒ぎ立てる無頼ではなかった。こんなに好 き勝手に惨殺することは、実に人間性とは相反する事だ”と日本軍の蛮行を糾弾した。

血に染まった延辺

“庚申年大虐殺事件といえば、よく<巌洞惨案>を典型として挙げているが、それは当時カナダの牧師たちが調査 した資料を新聞を通じて世の中に公布し、今もその記録が残っているからです。しかし延辺には<巌洞惨案>のよ うな事件がとても多いのです。依蘭溝は何回も討伐にあったが、九龍平、高城村、龍財村、太陽村、蓮花村は日本軍の殺人現場でした。”

朴昌c教授は日本が魔の手を伸ばさなかった所は延辺のどこにもないと言う。

九龍平は依蘭溝の中心地で、高城村は九龍平から西北の方へ15.5km離れた、周りが山で取り囲まれた小さな盆地に 位置しており、龍財村は九龍平から東北へ3.5km離れた山地帯にある。太陽村は九龍平から西北に5km離れた谷にあ って南東とも呼ばれる蓮花村は九龍平から15.3km離れた山地帯にある。依蘭溝には当時、間島国民会と義軍府があ ったが、国民会軍の士官訓練所まで設置していた。義軍府が高声村、蓮花村等に陣取り、依蘭溝は反日部隊の堅固 な後方基地でもあった。

1920年10月から日本軍は依蘭溝一帯を何回も“討伐”した。 1920年10月20日、日本軍第19師団石塚大隊は、依蘭溝 討伐を敢行し、李ドングン、李ジョンオン、金ドクサン、尹ナムグク、カン・キョンソン、金ヘリョン、金スンジ、 金ラクセ、李ブンジェらを殺害した。何日か後の24日には、日本軍74連隊が依蘭溝を討伐、ヤン・マンホン、李テミ、 李グンチ、李リョルら10人余りを殺害して、学校1軒と民家5軒を焼却してしまった。 11月3日には反日思想を鼓吹し て反日部隊の軍資金募集と情報輸送をしたという理由で、日本軍76連隊が再度、依蘭溝を討伐して李グクファ、李 イルジェ、金リョル、李ミョンチョ、李ジンチョル、李チャンオク、金ソンウン、李ジョンラン、李ジョンヌル、 李ヨイク、李ヨヨン、李ビョンジェ、許イク、崔ビョンジョら16人を殺害した。 11月3日、 5日、日本軍76連隊は、 不逞鮮人家族という理由で北依蘭溝で金チャンホン、盧ウソン、金リョルの家を含む31軒の民家を燃やし、3日と4日 には太陽村で反日団体を組織して反日思想を鼓吹したという理由で、教員・李ウソンなら2人と農民・李ジュヒャン、 李スアクら13人を殺害した。 11月5日、義軍府総務の李ウイク、庶務部長の李ウル、洪ジョンピルを含む10人余りが 日本軍によって殺害された。

当時、延辺に派遣されて現地調査をした“大韓新報”の記者は、“独立新聞”(1920年12月19日)にこのように報道した。

“依蘭溝の南側は全部で30戸余りになる李姓村だが、3人がこっそり名前を変えて釈放され、その他は全員が虐殺され た。また某氏の4兄弟は燃える家屋の中に投げこんで焚殺したと言います。その外に3人から10人余りの虐殺は到る所 でなされました。放火も同様です。”

当時、延辺駐在臨時政府通信員が“独立新聞”(1920年12月8日)に投稿した調査資料によると、26265人が虐殺され、 71人が強姦され、3208軒の民家、 39の学校、 15ヶ所の教会堂、53265点の食糧が焼き払われた。 “独立新聞”は 1920年12月19日付け報道にて、上記調査統計の追加調査として延辺地区で146人がさらに虐殺され、民家78軒と学校 2ヶ所、教会堂4ヶ所がさらに焼き払われたとしている。

侵略者の野獣的蛮行

当時、龍井に居住していたカナダの長老派長老教会の医者であるマルティンが書いた延辺惨案“見聞記”が西側各国 の新聞に報道され、世界を驚かせた。そして日本侵略者の野獣的罪行が世界の世論の注目を引くようになった。 “見聞記”にはこんな内容が書かれていた。

“私は10月31日日曜日、北京式馬車で12マイル離れた村に向けて龍井を出発した。10月30日に起った事を調査して見よ うと思ったのだ。その日、日がまだ明ける前に武装した日本軍が里を囲んで積んでおいた薪に火をつけて、家の人々に 外に出るように言いつけた。そして外に出た人々は皆銃殺されてしまった。まだ死んでいない者にはその上に火の付いた 食糧を積み上げ、焼き殺した。

近い距離で三回も射撃した後、火の中で生きていて起き上がる者があれば、銃剣で突いた。村の成年男子たちが一人残ら ず殺される光景を横で見せながら、婦女子たちを強迫して最後まで立たせていた。その後、日本軍は悠悠と帰って来て、 天長節を慶祝した。

私は19軒の家が火に燃えているのを写真に撮り、銃殺された死骸も撮影したが、これは日本軍が火を放ってから36時間が 経過した後のものだった。

私は虐殺されて放火された32の村の名前と情況をよく覚えている。ある村では145人が殺戮された。30名以上殺害された 村が多い。ある村では14人を1列に立てておいて銃殺した後、石油をかけて燃やした。日本軍司令官は外国人に対する人 身の安全を保障してくれないため、私は旅行することができなかった。“

日本軍の殺人手段は極めて残忍だったが、延吉県臥龍洞の昌東学校の教師、チョン・キソンは顔の皮を全部剥ぎ取られ、 両眼を繰り抜かれて処刑された。ある者たちは銃剣に突かれて叫ぶ惨状を見て狂ったように笑いながら喜んだし、2〜3歳 になる子供を銃剣で突き刺し、子供が叫ぶのを見て手を叩いて喜んだ。頭道溝では電線を切断したという疑いで12歳の朝 鮮族の子供をつかまえた後、何らの調査もなしに首を切って電線に通し、晒し首にして見せた。延吉県春陽郷(汪清軒蛤 莫塘)一帯では罪のない朝鮮人3人をつかまえて、金釘で手の平に穴を打ち付けた後、鉄索で手と鼻を通し、10里余りを引 き連れてから銃殺した。延吉県第3区の男女老人は何の理由もなく射殺され、依蘭溝の12人の朝鮮族は近所の山坂で木村支 隊の討伐隊に生き埋めにされたが、翌年春に里人たちが死骸を捜してみたら、いちめんに刀傷だらけだった。討伐の途中、 日本軍は小英子で25人の婦女を強姦、二道溝でも20人余りの婦女を強姦した。日本軍は少女をつかまえるたびに必ず強姦 した後、虐殺した。

当時、“独立新聞”は間島虐殺事件をこのように書いた。

可哀相な間島同胞3000名も死ぬ 数十年、血の汗流して建てた家 溜め込んだ食料もすべてなくなってしまった 尺雪が積もったこの冬にどうやって暮らせばよいのか 痛ましい光景を見ても手伝ってあげる力がなくて やるせなく胸だけが痛い 国を失い、豊かな土地を去って 朔北の生活を、その同志さえ失ってしまった 今夜江南も寒いのに 長白の冷たい風はいかに寒いことか ああ、心配だ間島の同胞たち

日本侵略者の野獣的蛮行に全国の人民が怒って蜂起した。北京、瀋陽、長春、吉林等の学生たちは通りに飛び出して講演 会、集会を開き、日本侵略者の侵略罪行を糾弾した。北京政府と奉天政府に代表を派遣して主権を保護することを請願し たり、日本侵略者が延辺から直ちに撤退することを要求した。ますます苦しくなって行く延辺地区の多くの民族たちの反 日闘争と全国の人民の力強い抗議の下、日本侵略者たちは1921年5月、仕方なく撤退した。
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