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19.東部戦線

主動的に打撃を加えながら討伐計画混乱させ、西部戦線を軽減、我軍の撤収を援護


▲勇敢な反日部隊の将兵達(資料写真)

東部戦線の反日部隊

“庚申年大虐殺以前は東部と西部二つの戦線に分かれていました。ところが史学界では、西部戦線である青山里戦闘 だけを語る傾向があります。日本の討伐によって、反日部隊の主力は延吉県と和龍県の西の方に、その他の部隊は 琿春県と汪清県東北部に移動しました。日本は東部の反日部隊を討伐するために相当な兵力を投入し、反日部隊も これに抵抗して日本の討伐と対立しました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、当時東西二つの戦線に配置された反日部隊の情況を説明した。

西部戦線の反日部隊というのは、主に洪範図部隊、安武が指揮する国民会軍、琿春韓民会軍及びその他の部隊と金 佐鎮が指揮する北路軍政署主力軍を言う。東部戦線である琿春と汪清県一帯には琿春韓民会と新民団軍が中露国境 で活動していたし、基地では北路軍政署の残留部隊と各団体の幹部たちが張り込みして活動しており、汪清県羅子 溝と老黒山一帯には独立部、光復団、義軍団、羅子溝議事部などに属する約850人ほどの部隊員がいた。

朴昌c先生は東部戦線が戦略上で非常に重要な箇所だと説明した。東部戦線は反日部隊たちの元々の根拠地 だったから、そこの民衆は反日感情が高く、また組織化されていた。東部戦線は中国とロシアの国境地区なので、 反日団体の往来が楽だった。当時、反日団体のリーダーたちは、ロシア革命派と密接な関係を維持した。何故なら ば朝鮮族反日武装隊はロシア革命派の勢力の内わくで公開的に活動することができたし、彼らと共同作戦をしなが ら日本軍及び白派と争ったからだ。だから反日部隊は日本軍の討伐が激しい時には、充分にロシアへ移動すること ができた。東部戦線はまた反日部隊がロシアと連携してして武器を購入することができる後方基地だった。だから 日本侵略軍は反日部隊の主力が西部地区に移動したことを知りながらも東部戦線に幾多の部隊を投入し、反日部隊 を討伐、反日部隊との連携を断ち切ることに心血を注いだ。

日本の大量投兵

1920年10月3日、琿春事件をきっかけに、日本はまず穏城に駐屯している73連隊の阿部少佐が指揮する1個中隊、1 個機関銃小隊を琿春に進入させた後、少ししてから1個中隊、1個機関銃小隊と迫撃砲2門を配属させてまた進入させ た。引き継き19師団38旅団長・磯林少将が指揮する75連隊第1、3大隊の4個中隊、2個機関銃小隊、特種砲兵隊、通 信組、衛生組そして第20師団39旅団78連隊上坂少佐が指揮する1個大隊、1個機関銃小隊と通信組、衛生組を進入さ せた後、さらに騎兵27連隊第3中隊、野砲兵第25連隊の2個中隊、工兵19大隊の1個中隊などを続けて琿春に派遣し、 磯林支隊を編成した。

1920年10月20日には木村大佐が指揮する第76連隊の第1、3大隊4個中隊と2個機関銃小隊特種兵隊、騎兵27連隊の1個 小隊、そこに憲兵と警察を配属させて涼水泉子から直接、汪清県西大坡と十里坪に侵入した。少し前の10月14日には 反日部隊の北満州への撤収を阻止するために北満派遣軍53連隊の安西少佐が指揮する1個大隊、1個機関銃小隊と1個 騎兵小隊を海林一帯に配置した。

日本はまた、中国とロシアの国境地区で活動する反日部隊を討伐して、反日部隊とロシア革命派間の連携を遮断す るため、ウラジオストク派遣軍第13師団の羽入大佐が指揮する58連隊の1個大隊、騎兵17連隊の主力1個山砲兵中隊、 1個工兵中隊を東寧県三次口の原野に集結させてから、10月21日国境を超えて老黒山羅子溝方面に南下するようにし た。10月19日には第11師団の秀島少佐が指揮する1個大隊、1個機関銃小隊、騎兵1個小隊、工兵2個小隊をロシアのバ ラバシから琿春県土門子へ派遣して、琿春と汪清県東北辺境を討伐するようにした。

日本はウラジオストク派遣軍第14師団28旅団の主力(4000人)をポセトに上陸させ、沿海州から琿春に行かせて涼水泉 子、局子街、龍井、会寧等を経由する<脅威行軍>を進行しながら討伐を敢行するようにした。そして10月18日、28旅 団15連隊の第2大隊は、琿春で警備を担当し、第3大隊の2個中隊は龍井で警備を、3大隊の1個中隊は会寧の19師団と いう司令部の警備をそれぞれ担当するようにした。

これ以外にも日本は各支隊に憲兵と警察を配属させて日本軍の討伐に協力するようにし、したがって慶源守備隊の 兵力と憲兵、警察を含む50人余りを出動させ、朝鮮と中国の国境地帯を討伐するようにした。このように日本は東 部戦線に1万名余の侵略軍を投入して琿春と汪清を四方から囲んで討伐を敢行した。

東部戦線での反討伐戦

東部戦線で日本侵略軍は万端の準備を整えた後、大々的な討伐を進めた。

10月14日から19日まで、磯林旅団長の指揮下に阿部、牧、辻らが指揮する3個討伐隊は琿春県所在地の東北にある琿 春河上流,西北の方にある大荒溝を中心にした密江上流を大挙討伐した。

10月22日から11月初旬まで、上記3個討伐隊は11師団の秀島支隊と共に琿春県と汪清県辺境に北上し、涼水泉子で川 を渡った木村支隊は、直接西大坡、十里坪、大坎子等を討伐した上に、百草溝から北上する岩橋大隊と共に大汪清、 小汪清等を討伐しながら東部戦線と西部戦線間の連携を遮断、東寧県三次口から南下する13師団羽入支隊と呼応して 老黒山羅子溝一帯を南北から挟攻した。11月初旬から1921年春まで、日本軍は琿春と汪清などの県の重要地点に分散 配置され、付近一帯の反日団体と反日基地を討伐、破壊した。

しかし東部戦線の部隊は既に基地を離れて他へ撤退したため、日本軍は主に反日基地の破壊と罪のない民を殺害する ことを事とした。戦闘はただ反日部隊の移動過程に進行し、残留小部隊との小規模な散発的なものだけだった。

西部戦線の反日部隊より力の弱い東部戦線の各部隊は、日本侵略軍の討伐第1段階の時、既に汪清県羅子溝、東寧県老 黒山または琿春県東北部へ大部分撤収した。第2段階に入っても日本軍が羅子溝を重点討伐すると、反日部隊は東寧県 以北へ撤収したり日本軍の後方に分散して潜伏した後、これらを襲った。

10月23日、北路軍政署残留部隊は十里坪で日本軍磯林支隊から木村支隊に編入された芦田、高田の二人の中尉が率い る部隊を襲った。この日、日本軍は反日軍撤退を阻むつもりで山中を捜索しながら進んだ。待ち伏せていた反日軍は 敵方が近くや否や猛攻を浴びせた。戦闘は約30分程続いたが、日本の記録では彼らの軍隊が1人死亡、2人負傷したこ とになっている。

10月27日、羅子溝議事部軍は150人余りの将兵たちは、田尾騎兵小隊、阿部大隊の1個小隊、秀島大隊の1個中隊、1個 機関銃小隊などと約2時間ほど激しい戦闘を繰り広げた。この日午後3時、磯林支隊所属・阿部大隊の田代騎兵少尉が 従えた日本軍小部隊30人余りは、羅子溝義士会の崔ジョングクが率いる150人余りの反日戦士たちの襲撃を受けた。 当時、阿部大隊の主力は羅子溝太平溝で討伐していた。阿部は部下が反日部隊の襲撃を受けたという消息を聞いて、 1個小隊の兵力を派遣して支援した。すぐに羅子溝に到着した日本軍第13師団が羽入支隊傘下の歩兵1個中隊と機関銃 1個小隊が戦闘に参加し、約2時間の間、激しい戦闘を続け、小部隊を消滅しようとしていた反日部隊は目的を果たす ことができずに北へ撤退した。

10月28日、日本軍76連隊岩尾少佐の指揮する部隊が羅子溝から大荒溝へ帰って来る時、汪清県張家口で反日小部隊が 2回襲った。

11月4日、琿春韓民会軍30人余りが琿春県三道溝の北39里離れた地点で、日本軍第78連隊上坂大隊を襲撃、戦闘は約1 時間ほど続いたが、日本軍の井田少尉以下5人を殺傷した。

11月9日、琿春韓民会の金雲瑞が指揮する30人の決死隊は、日本軍第75連隊・辻中佐が指揮する2個中隊を琿春県牛頭 山の南側で襲撃、1時間ほどの交戦をした。

12月5日、日本軍の島田少尉が指揮する30人余りは、蛤莫塘西北の山谷にある反日部隊の宿所を包囲攻撃、双方が交戦した。

“ご覧のように、10月5日の戦闘以外にはすべて分散しており、主動的に敵を攻撃した戦闘でした。反日部隊は機動力 を活かした戦法で敵を攻撃しながら、討伐計画を混乱させました。日本軍が東部戦線で反日基地を破壊しつつ罪のない 民を数多く虐殺したが、反日部隊を掃討することは出来ませんでした。むしろ反日部隊の襲撃を受けて一時も安心する ことが出来ず、いつも非常体制を取りました。東部戦線の意義はとても大きく、敵の兵力を牽制して反日部隊の撤収と 幹部たちの潜伏を援護し、西部戦線の反日部隊の戦闘負担を軽減してくれました。日本軍は東部戦線の小部隊の頻繁な 襲撃戦のため、北上する反日部隊を追撃できなかったのです。そして西部戦線主力部隊が密山等へで撤収するのを援護しました。”

朴昌c教授は東部戦線が持っている意義を決して軽視してはならないと述べた。
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